閑話 夫の苦悩④(アイガン視点)
夕闇迫る頃に帰宅して、執事からの報告にアイガンは唸るように問い返した。
「エリイシャが戻っていない?」
さすがの威圧感に執事も顔色を蒼褪めさせている。だが、アイガンは心配しているだけだ。その動揺が思わず声と表情に現れただけなので、許してほしい。
彼女が自分の帰宅よりも遅くなったことなど、これまで一度もなかったのだから。
話を聞けば、彼女は親友でもあるガデル=マクスウェルの診療所に手伝いに行ったとのことらしい。だか、それも朝からと聞けばやはり妻に何かあったのだと考えてしまう。
「…旦那さま、その、こんなときにどうかと思うのですが…一月ほど前に奥さま宛にグレン=エバーソンさまからお手紙が届いておりまして」
「なんだと?!」
その名前はアイガンの中で忌ま忌ましい記憶として残っている。エリイシャの親から結婚を打診されたにも関わらず、あっさりと逃げ出し断った男だ。それだけならばまだ許せる。自分に機会を与えてくれたことを感謝してもいい。だがあの最低な男は妻の表情が動かないことを鉄面皮や強面、美人だけれど結婚相手には向かないなどと散々社交界で吹聴していたのだ。仮にも血縁者でもある相手に対してのひどい侮辱に思わずアイガンの拳が唸ったことも一度や二度ではない。
最終的には全く夜会には出て来なくなり、隣国で商売を始めたと聞いた。だがあちらでも派手にトラブルを起こしているらしいが、なぜ今更彼女に手紙など送りつけてきたのか。
「手紙を処分なされていらっしゃらなければ、何かの手掛かりになるやもしれませんね」
「妻宛ての手紙を盗み見るのか…」
しばし躊躇って、結局はエリイシャの部屋の小物入れを漁るのだった。
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そうして探し当てた件の手紙を読み終えて、アイガンは震えた。奇しくも妻と同じ反応だが、内心の葛藤は別物だ。絶望に似た深い悲しみだけが身の内を浸している。
「なんてことだ…やはり彼女はあの男を愛していたのか…」
こんな見た目が壁のようなごつい男と結婚してくれた心優しい彼女のことだ。内に秘めた情熱をそっと押し殺して生活していたが、こんな手紙が来てついに耐えきれずに出て行ってしまったに違いない。
つまり手に手を取った愛の逃避行―――駆け落ち、だ。
「探さない方が彼女のためなのだろう…だが俺は愛しているのだ」
深い苦悩をにじませていると、そっと背後から執事の声がかかる。
「旦那さま、奥さまにお客さまがお越しなのですが…」
「グレン=エバーソンか?!」
「いえ、ガデル=マクスウェルさまでございます」
それは妻の親友の名前だ。
もしや二人について説明に来たのかもしれない。
もしくは何か言づけを受け取っている可能性もある。
「俺が会おう」
「では応接間にお通しします」
執事が出ていくのを見て、手紙をきちんと元に戻した。出てきた指輪も封筒に収める。ふとどこかで見たことのある紋章だな、と頭をかすめたがすぐに思考は階下にいる男に向かう。
応接室に向かえば、優雅にお茶を啜っていた男が、にこやかにほほ笑んだ。そうか死の予告する天使はきっとこんな顔をしているに違いない。そうして、すっと息の根を止めるのだ。
「ああ、こんばんは。こんな時間に申し訳ありません、バナード伯爵。ですが、ちょうどよかった。二人に聞いて欲しいことがありまして」
「そうか。では、話を聞こう」
漢らしく、騎士らしく。堂々と取り乱すことなく、彼女からの最後の言葉を聞こうじゃないか。
アイガンは向かいの席に座りながら、金の瞳をきらりと光らせる。
「あ、はい。では、エリイシャが来たら―――」
「どういうことだ、彼女は出ていったんだろう。それとも戻ってきてくれるというのか」
「え、エリイシャが出て行ったんですか? まさか、噂を鵜呑みにして?」
「噂とはなんだ? 彼女はグレン=エバーソンと駆け落ちしたのだろう」
「はあ? グレン、ですか? それはありえませんが。彼女の理想とはかけ離れた男ですよ」
「何? では彼から送られてきた手紙はなんだ。すっかり恋人に宛てた内容だったが…」
「エリイシャ宛の手紙を読んだんですか?」
非難の視線を向けられて、アイガンは慌てて言い訳を口にする。
「き、緊急事態で仕方がなく…エリイシャが家に帰ってこないんだ。そもそも、そちらの診療所の手伝いに行っていたのだろう。なぜ貴殿だけがこちらにいるのだ」
「エリイシャは午後過ぎにはこちらへ帰ってきているはずですよ。気分が悪くなったと言っていたので、帰しましたから」
「気分が悪い? 彼女は具合が悪いにも関わらず、まだ帰ってこないというのか?!」
それはもはや、事件だ。
一瞬にしてアイガンの頭は混乱した。
「そうですね、家に戻っていないとは確かにおかしい。でも、彼女はある噂でひどく取り乱していました。それを教えてしまった私も迂闊でしたが。もしや帰りづらいのかもしれません」
「先ほどから噂とはなんだ、今はそれどころではないだろう!」
「いえ、それをはっきりさせれば彼女も帰ってきやすいと思います。失礼だが、バナード伯爵は誰を愛していらっしゃるのです?」
「妻に決まっている、エリイシャだ。私は一目惚れしてから彼女一筋だ。むしろ彼女が私の初恋だから、人生唯一の愛しい人になる。それが、この大変なときになんの役に立つ?!」
威嚇するように吠えれば、目を真ん丸にしたガデルが、ふっと笑いを漏らした。
「いえ、すみません。嘘をついて取り繕うようなら糾弾するつもりだったので少し拍子抜けしてしまいました。そうか、彼女は本当に愛されていたのですね。彼女の行方はわかりませんが、一つ私からお話があるのです」
「今は貴殿の話をのんびり聞いている場合では―――」
「すぐに終わりますし、聞いた方が彼女が戻ってくる可能性が高くなりますよ」
アイガンは浮かせていた腰を落としてすこしくたびれた男を見つめた。
そうして数十秒の後、扉を蹴破る勢いで応接室を出ていくのだった。
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