第11話 蠱惑的に愛をささやく
昨日辿った川近くの道を急ぎ足で進む。相変わらず自分の脆弱な筋肉は痛みを訴えているが、何より時間との戦いだ。甘えたことなど言っていられない。
目当ての花はこうして手の中にある。効果は抜群だから、一輪で十分だとガデルは言っていた。なので、手で包めてしまうほどの量だ。すぐに取って引き返している。
後は急いで厨房に戻って、調理をお願いし、寝室へと戻るだけだ。
エリイシャの今の恰好は昨日から発展して長袖のドレスに、長ズボンを穿いている。ドレスは簡素なもので、太もものあたりで裾を縛っているので、見た目はかなり怪しいが動きやすさは抜群だ。朝霧の立ち込める中、山道を慎重に進んだが、やはり道が悪いだけあってところどころ土がついている。朝露にも濡れてしまった。
山歩き用のズボンをさっさと脱いで寝着に着替える時間はあるだろうか。
屋敷の裏手からこっそりと中を窺う。外からの剣戟の音は聞こえてこない。もしかしたら、朝の鍛錬は終ってしまったのかもしれない。
だとしたらアイガンはシャワーへと直行しているのだろう。
いつ自分がいなくなったと気が付くのか。
その前に厨房に寄って料理人に、昨日頼んだように調理してもらわなければ。
花を料理に使ってほしいと屋敷の料理人に相談すれば、彼はサラダに加えたりスープに浮かべますよと請け負ってくれた。
気のいい料理人はアイガンが強面なこともあり、無表情のエリイシャにも親切にしてくれる。怯えた様子も一切みせずに普通に接してくれる姿には感動するほどだが、そもそもこの屋敷の使用人は前向きに受け入れてくれる者が多く助かっている。
エリイシャにとっては居心地のよい場所だ。
「エリイシャ? どこへ―――」
慌てて一階の奥の厨房に向かっていると、アイガンが二階から下りてくるところだった。
朝の鍛錬の格好のままだ。つまり上半身裸だ。
シャワーも浴びずに、寝室からいなくなった妻を探していたのだろう。
だが、エリイシャはそれどころではない。
ああ、神よ!
首から覗く胸鎖乳突筋、脇からちらりと顔を出す広背筋、腕を構築する筋肉もすべてが視覚の暴力のように襲ってくる。
輝きは失われていても、そこは自分が愛した世界一の筋肉だ。
十分に魅力的で、一瞬で己を虜にしてしまう。
エリイシャの感情が爆発した。だが、ここで鼻血を吹いて、伯爵家を流血沙汰に巻き込むわけにはいかない。
何より朝の爽やかな空気にまったくそぐわない。
「アイガンさま、申し訳ありません。急いでおりますの!!」
碌な言い訳も思いつかず慌てて厨房に向かって走り去る。
絶対に振り向くものかと心に誓いながら。
そんなわけで、エリイシャは彼女の夫がどれほど悲痛な面持ちでいたかなど、知る由もないのだった。
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