第三話
「
「ここに来る途中に知ったわ。今年作成された地図を見たら……
「そうですか……ではやはり死んでしまったのですね、わたしの家族は……ははっ」
ふたたび笑い出した零真の目は虚ろで、いったいどこを見つめているのかわからない。
「でしたらこの衣裳はもうお返しします。今の私にとっては無用の品ですから」
屈み込んだ零真は、
てっきり衣裳を取り出すものかと思い、様子を見ていたが、そうではなかった。
身を起こした彼の手には、なぜか生地を裁断する用のはさみが握られている。
「零真、あなた……何をするつもり?」
やがて彼は、はさみの先端を自分の喉元に向けた。
いつも握っているから知っている。それは驚くほど切れ味の鋭いはさみだ。細部まで裁断することを見越して、刃先はかなり鋭利。喉元にも簡単に突き刺さってしまうだろう。
「私が生きる意味は、もう無くなりました」
零真は吹っ切れたように言った。
「かえってすっきりしましたよ。これでもう、ためらうことなく妹の元に行くことができるんですから」
「莉璃姫、ここは私に」
さすがに黙っていられなくなったのだろう。
しかし莉璃は、「やめて」と手で制止した。下手に零真を刺激して、最悪の結末を迎えたくはなかった。
「零真……お願いだから一度、はさみを置いてちょうだい」
とにかく彼と話しがしたかった。
「さようなら。莉璃さまと一緒にいたこのふた月、楽しかったですよ」
「お願い。少しでいいから、わたくしの話をきいて」
「あなたは名家のご令嬢のわりには気さくで、優しくて、時に不器用で……何に対してもとにかく一途で、真正直で、心がきれいでした」
零真は笑った。
「好きでしたよ、あなたのことを。……そうですね、このふた月は、私の人生において一番楽しい時だったかもしれません」
「話しましょう、零真。お願いだからわたくしの話を聞いてほしいの……!」
けれど零真はまぶたを閉じる。
曇天の下でもきらりと光る銀色の刃先。それがいよいよふりかぶられたとき、莉璃は反射的に零真に飛びかかっていた。
「許さないわ!」
「莉璃姫! どきなさい!」
白影も同じく零真に向けて手をのばすが、莉璃のほうがわずかに早い。
零真の体に飛びつくようにしがみついた莉璃は、そのまま彼を地面に押し倒した。
無我夢中で彼の首に手を回し、喉元をかばうようにする。
すると肩に感じたのは、痛みというよりも灼けるような熱だった。
――熱い……!
はさみの刃先が、莉璃の左肩をかすめたのだ。
「莉璃姫……! なんてことを!」
視界の隅で、白影が零真の手からはさみを取り上げるさまが見えた。
「莉璃さま、その肩……!」
身を起こした零真が、声を震わせる。
言われて視線をやれば、
痛い、と卒倒しかけた莉璃だが、どうにか口元をほころばせる。
「なんてことないわ。わたくしは大丈夫」
「莉璃姫!」
またしても白影が莉璃の腕をひいたが、莉璃は彼に向けて「来ないで」と、開いた手の平を向けた。
「この期に及んで……! いったいどこが大丈夫なのですか!」
――そうね、白影さま。あなたの言うことは正しい。
けれど、とにかくもう少しだけ待っていてほしかった。
「平気よ、これくらい。ちっとも痛くないもの」
零真に向けて強がってみせれば、彼は青ざめた顔で首を左右に振る。
「嘘をおっしゃらないでください! それではしばらく衣装製作は……!」
「利き手じゃないから問題ないわ」
胸元にはさんでいた小さな綿布を肩に乗せ、零真の目から傷口を隠す。
「それより、あなたは大丈夫? どこも怪我していないわね?」
すると零真は、今にも泣き出してしまいそうに顔をゆがめた。
「どうしてこんなときまで私のことを気づかうのですか!」
まるで私の妹のよう……! と、彼の唇が動いたような気がした。
やがて零真は歯を食いしばり、くずおれるように地面に手をついた。
どうしたのだろう、と戸惑っていると、やがてその肩が小刻みに揺れ始める。
「零真……」
彼は泣いているのだ。
細い雨が降りしきる中、全身をひどく濡らした状態で。
「零真、でもあなたはわたくしの部下だから……」
そう。大切な大切な部下だから。
「勝手に死のうとするなんて許さないわ。だってあなたみたいに腕のいいお針子がいなくなってしまったら、わたくしは困ってしまうもの」
迷いなく言えば、零真は弾かれたように顔を上げた。
その顔はやはり、涙で濡れている。
「だから戻ってきてほしいの。いつか必ず、わたくしのところへ」
「なにをばかげたことを……本気でおっしゃっているのですか?」
彼はいぶかしげに問うてきた。
「もちろん本気よ」
「あなたの大切な衣装を盗んだ私なのに?」
「それでも、わたくしにはあなたが必要だわ」
「私はあなたの部下ではなかった。圭蘭さまの間者だったのですよ」
「それでも、やはりあなたが必要なの」
重ねて願えば、零真は雷に打たれたように驚いた顔をした。
「あなたは……あなたという方は……」
そして、ふたたび表情を曇らせる。
「寛大なそのお気持ち、感謝いたします。ですが……ここで死ねなければ私は牢に入ることになりましょう」
それは莉璃だとてわかっている。
貴妃の衣裳を盗んだ罪は、重い。
「それでも死ぬなと? そうおっしゃられるのですか?」
「わたくしはいつまでだって待っているわ」
そう。零真の愛する妹はいなくなってしまったけれど。
「そうね……あなたがよければ、今度はわたくしのために生きてくれないかしら」
「莉璃さまの、ために……?」
零真は、今度は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「ええ、そうよ」
莉璃のもとで、莉璃が大切にしている月華館で、花嫁衣裳をともに作りながら。
「これからもわたくしを支え続けてほしいの」
願いを込めて、零真の目の前に無傷の右手をさしのべた。
「莉璃さま……」
しばらく彼は、莉璃の手をぼんやり眺めていたようだった。
この手をとればどうなるのか、きっと様々なことを考えて、想像して、思い悩んでいるのだろう。答えを待つ間は時間の流れがゆるやかに感じられ、なんとももどかしい。
「だめ、かしら」
待ちきれずに問えば、やがて零真は、どこか晴れやかにも見える微笑を浮かべた。
「莉璃さまのために、ですか」
「そうよ」
「……それも悪くないかもしれませんね」
彼は少し呆れたように眉を下げて、莉璃の手に自分のそれを重ねてくる。
「ただし、それなりの給金をいただくようになりますが、よろしいですか?」
おそらくわざとおどけるように言った彼に、莉璃はうなずいてみせた。
「待っているわ。いつまでだって」
今、ここにいる彼こそが――手の平で感じる温かさこそが、嘘偽りのない本当の零真だと思えるから。
だから莉璃は、彼の手をしっかり握りしめたのだ。
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