第二章 夜半の逢瀬
第一話
「もう遅いわ。今日は終わりにしましょう」
「そうですね。ここからの時間は深夜手当をいただくようになってしまいますし」
「あなたの残業時間、きちんと記録しておいてちょうだいね」
「ご心配なく。月末締め翌月払いできっちり旦那様に請求させていただきますよ」
王宮には穏やかな夜が訪れ、殿の中はすっかり静まり返っていた。
本日の作業を終えた
先ほど隣の屋舎の湯殿を使い、夜着に着替えたのだが、その後も作業に夢中になり、髪をろくに乾かしていなかったのだ。
「どうなることかと思いましたが、今日中になんとか片付けが済みましたね」
莉璃の隣に腰を下ろした
「そうね。やはり一番広いこの部屋を作業場にして正解だったわ」
小部屋には、大部屋の壁に造られた扉からそれぞれ入室する仕組みになっている。
そのため大部屋を衣装作りの作業場に、残りの二つを莉璃と零真の私室にした。
「これで明日から図案の製作にとりかかれるわ」
持参した道具類は、作業しやすいよう月華館の作業場と同じ配置にした。
図案を書き起こすための卓子は部屋の中央手前。型を作るための台はその右横。右奥には布を裁断するための台や、大小様々な形のはさみを並べてある。
部屋の左奥は刺繍や縫製をする場だ。ひと月のうちの多くはそこに座っていることになるため、あらかじめ広めの空間を割り当てた。
「けれど、さすがに疲れたわね」
「そうですね。慣れないことばかりでしたし」
「明日はもっと慣れないことがあるわ。まず正装しなくてはならないし……」
王の唯一の
もちろん平服というわけにはいかないので、持参したものの中で一番上等な衣装を着る予定でいる。
「化粧もしなければいけませんね。それから髪も結わなければ」
「正直、面倒だわ」
けれどしかたのないことだと自分に言い聞かせながら、綿布で拭っていた髪を背に流す。
「では私はそろそろ休ませていただきます」
言うなり零真は、すっくと立ち上がった。
「お風邪を召されないよう、髪をよく乾かして寝てください」
机上に置かれた時計の針が指すのは、子の刻。
すでに夜はだいぶふけている。
「今日もありがとう。明日もよろしくお願いするわね」
「莉璃さまはまだお休みになられないのですか?」
「肩掛けの刺繍の柄を思いついたから、書き留めてからにするわ」
「承知いたしました」
零真は「おやすみなさいませ」と言い残し、作業部屋から去っていった。
壁を隔てた向こうは彼の私室だ。
壁が薄いのか、莉璃が筆や紙を準備していると、隣室からがたごとと物音が聞こえてくる。
――遅くまで作業する時は、零真を起こさないよう気をつけなければ。
そうこうしているうちに、隣室はすっかり静まり返った。『寝不足は翌日の仕事の効率を下げるので、何の得にもなりません』と普段から話している零真のことだ。早々に布団に入ったのだろう。
莉璃は床の上に置かれた敷布に正座し、木製の卓子に向かった。
硯に出した墨を筆先に含ませ、頭に思い描いた案を紙に書き写し始める。
柄の発想を得たのは、今日の昼、白影に会った時のことだ。彼の髪を目にした途端、月光のような図案が脳裏に浮かんできたのだ。
さらさらと迷いなく筆を滑らせていくと、やがて紙上に繊細な模様が生まれ出た。
「きれいな柄……」
描いたのは十数本の線が円の中心から放射状に広がっていく図だ。
――まるであの白銀色の髪が、光を反射する時のような……。
やはりあの髪色は、何度目にしてもとびきり美しい。
けれどなぜあんなにも珍しい色をしているのだろう? ここ
そう考えて首をひねったとき、作業部屋の扉が廊側から叩かれた。
何? と、莉璃は息を潜めた。
気のせいかしら、と耳を澄ませるが、そうではない。数拍後には、先ほどよりも強い力で、ふたたび扉が叩かれる。
それの向こうは殿の南東の廊だ。こんな夜遅くに、いったい誰が?
莉璃は足音を殺して扉に近寄っていった。
「莉璃姫、白影です。……まだ起きているのでしょう?」
あろうことか深夜の訪問者は白影だった。
「白影さま……? どうかされたのですか?」
莉璃はすぐさま戸を開けた。
そしてハッと息をのむ。
――まずいわ。
莉璃は今、白影にはとても見せられないような、気の抜けた格好をしているのだ。
「やはり起きていましたか。扉の隙間から灯りが漏れていたので、声をかけさせていただいたのですが」
莉璃が身に着けている対襟の白い
薄い素材で袖を作ったため、二の腕から手首にかけてはうっすらと透けている。
いつもきちんと結っている髪も、洗い立ての今は、すべて下ろした状態だ。
――零真にはもう何度も見せているから、気にはしなかったけれど。
相手が白影となれば話は別である。
「見苦しい格好をお見せして申し訳ありません」
反射的に扉を閉めようとしたが、のびてきた手に阻止された。
「見苦しいどころか、男にとっては素晴らしく好ましい姿だと思いますが」
どういうつもりでいるのか、燭台の火に照らされた白影は、真顔でいる。
「とにかく今晩はお帰りくださいませ。このような格好ですので、また明日にでも」
「私たちはいずれ夫婦になるのです。かまわないでしょう」
扉を押し開いて、彼が部屋の中へと強引に入ってくる。
「そういう問題ではございませんわ。ただちにお帰りください、と言っているのです」
間近に感じる彼の吐息。
ふと視線を上げるとすぐそこに琥珀の瞳があって、莉璃は気圧されるように後退った。と、焦るあまりに自分の
「あっ……」
倒れる! と心臓が冷えたが、気づけば白影に抱きとめられていた。
「あなたはわりと不注意なたちなのですか?」
頭の上から、彼の小さな溜息が落ちてくる。
衣ごしに感じる体温や、自分とは違う力強さ。いつしか莉璃の心臓はばくばくと鼓動し、体は石のように硬くなっていた。
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