第二話
「不注意って、そ、そんなことはございませんわ……! それよりも――」
慌てて彼から身を離した時、隣室でかすかな物音がした。
いけない。
「とりあえずこちらに来てくださいませ」
すぐさま後ろ手で扉を閉め、ほっと息を吐いた。
――あのような場面を零真に見られたら、どう説明していいかわからないもの。
しかしすぐにまたハッとした。
自分はいったいなにをしているのか、と。
なにせ焦るあまりに寝台のある自室に異性を連れ込んでしまったのだ。
しかも夜着姿というあられもない格好のままで。
「
間違えた、と後悔したが、もう遅い。
気づけばどこか艶やかな、熱っぽい視線を向けられていた。
「勘違いなさらないでくださいませ。そういうことではありませんわ」
「順序は逆になってしまいますが、この私を受け入れてくださるということは、至極光栄に思います」
白影はゆったりとした足取りでこちらにやってくる。
「ですからそうではありません!」
まずい。莉璃の背後にあるのは天蓋の付いた寝台だ。
けれど迫り来る彼から逃れるためには、もううしろに下がるしか術がなかった。
「何をする気なのですか」
「何でも。あなたの望むままに」
「では今すぐこの部屋を出てお帰りくださいませ。即刻、回れ右をして、今すぐに――」
けれどいきなりのびてきた白影の手に右肩を押され、足元がふらつく。
目に映る彼の瑠璃色の官服。気づけば莉璃は、寝台の上にすとんと腰を下ろしていた。
「――あなたにふれさせていただいてもよろしいですか?」
そう問われた時、莉璃の我慢の限界が訪れた。
ぶちん。
頭の中で、理性の糸が一刀両断されるような、大きな音がする。
「――ふれたいのならそうすればいいわ」
ええ、いくらでも。
気づけば莉璃は、珍しく微笑んでいた。
「ただしその瞬間に、昼間お話ししたわたくしの夢を認めてくださった、と解釈するけれど、よろしいわね?」
するとこちらに向けてのばされかけていた彼の手が、ぴたりと止まる。
「……なるほど、そう言われてはおいそれとふれることはできませんね」
白影は降参だと言わんばかりに両手を上げた。
莉璃にしてみれば、自分にふれられることと、彼の妻になることは同義だ。
そして彼は知っている。莉璃が仕事を持つことを熱望しているのを。
その上で莉璃にふれようと――妻にしようとするのなら、もうどうしたって莉璃の夢を認めてもらう、と警告したつもりだった。
しかし白影は、そう簡単に引き下がろうとはしなかった。
「あなたを抱くのは断念いたしますが」
このくらいなら許してくださるでしょう?
彼は寝台の前にいきなりひざまずき、莉璃の長い黒髪の一筋をその手にとる。
「鳳家にあなたを訪ねた時から思っていたのです。美しい髪だ、と」
「え……髪? わたくしの、ですか?」
気の抜けた声で問い返せば、白影は「ええ」とささやかな微笑を浮かべた。
「あなたに興味はないと言いましたが、訂正いたしましょう。この美しい髪はとても気に入っています」
莉璃の長い黒髪。
たしかにそれは唯一、自慢できる部分だ。幼い頃から髪質の良さについては、何度も褒められてきた。
そういえば生前の母にも、よく言われたものだ。『どうせならもう少し髪の美しさが目立つような結い方をすればいいのに』と。
なぜなら莉璃は、いつだって動きやすさ重視で、ほとんどまとめてしまうといった単調な結び方をしていたからだ。
「髪が、お好きなのですか?」
調子を崩されてしまった莉璃は、変わらず目の前でひざまずく白影に問うてみた。
「そうですね。髪が、というよりも、美しい黒髪に憧れますね」
髪に指をとおされ、さらりと梳くような真似をされる。
それだけではない。指に絡められたり、束にして握られたり、時折、彼の指が耳にふれてくすぐったく感じた。
「あなたの髪はとくにいい。ぬばたまの実のように深い黒。上質な絹よりもはるかに滑らかな手ざわり。一本一本をよく見てもまったく癖がなくまっすぐで、ふれていて心地がいい」
突如、絶賛され、面食らう。
「このようなありふれた色の髪など……白影さまこそ、そんなにもお美しい髪色をしているのに」
そう。莉璃にしてみれば、珍しい白銀色の髪をもつ彼こそが美しいと思えた。
しかし彼は、ふと真顔になって、吐き捨てるように言う。
「こんなもの、美しくもなんともない。ただの異形ですよ」
「そんな……異形だなんて……」
そのような言い方をしなくてもよいのに、と、莉璃は眉をひそめた。
一方の白影は、溜息混じりに口を開く。
「しかし本当に美しい。このまま一晩中でもさわっていたいくらいです」
やがて彼は、莉璃の黒髪にかるく口づけを落とした。
「な、何をなさるの!」
「失礼、つい」
「つい、で口づけされては困るわ。金輪際、勝手にわたくしの髪にふれないでくださいませ!」
莉璃は白影の手を厳しくはねのける。
「先ほども言いましたが、今後、もしわたくしに勝手にふれようとするのなら、それはわたくしの夢を認めてくださった、と解釈いたしますわ。よろしいですわね?」
琥珀の瞳を睨むようにして言うと、白影は興が覚めるかのごとくすっと立ち上がった。
「ではいよいよそれに関して意見を交わすといたしましょう」
彼は寝台の隣に置いてある椅子に、莉璃と向かい合うようにして腰掛けた。
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