第五話
「よかったですわ……! どこに行かれたのかと捜しましたのよ」
「白影さま、わたくし、胸が痛いですわ。久しぶりにお会いできたのにゆっくりお話もできなくて。もしこのあとお時間ございましたら、ぜひわたくしの部屋に――あら、あなたもいたの」
最後の一言は、まるで別人のものかと思うほど低い声音だった。
「莉璃姫、ここでいったい何をしているの?」
「ここはわたくしの部屋の前ですが」
「あなたもしかして、白影さまと親しくなろうと目論んでいるのね?」
「は……?」
またしても思わぬ方向に話を持っていかれて、ただただ唖然とした。
何をどう考えたらその結論に至るのか。理解ができなくて頭が痛くなる。
やがて圭蘭は、莉璃の足元から頭にまで視線を這わせ、勝ち誇ったように笑った。
「ふふっ、貧乏貴族の分際で白影さまに声をかけるなんて、ずいぶんずうずうしいのね。いくら
「
遮ったのは白影だ。
「彼女――莉璃姫は私の妻となる御方です。金輪際、そのような発言は控えていただきたい」
――っ! 言った……!
しかも極めて明確に、力強く、揺るぎのない声音で。
「彼女を侮辱するは、この白影を侮辱するも同義」
その琥珀の瞳が、ちらりとこちらに向けられた。
「それをしかと覚えておいていただきたい」
「妻……って、それはいったいどういう……」
「婚約している、ということです」
「こ、婚約……? 婚約ですって?」
いきなりのことに困惑せずにはいられないのだろう。
圭蘭は口元を手で押さえたまま固まっている。
婚約――この場でそれを明らかにされるとは思ってもいなかったので、当の莉璃も戸惑いに襲われていた。
いつしか圭蘭に向けられている、白影の冷ややかな視線。
こんなにも冷たい一面も持っているのだ、この方は。
そう認識すれば、途端に胸中がざわめき始めた。
――それよりも、まずいわ。だってこの方と結婚するか否か、まだわからないのだもの。
そう。仕事を持つことを認めてくれないのであれば、この縁談を破棄したいと莉璃は願っている。
だからこそ今、二人の関係を公にされることは本意ではなかった。
「婚約……この鳳家の貧乏姫と?」
圭蘭は「本当ですの?」と、莉璃と白影を交互に見た。
「あいにく嘘を吐くほど暇ではありません。加えて言えば、あなたを相手にするほど暇でもないのです」
あまりに衝撃的だったのか、圭蘭は上襦の胸元をおさえたまま、呆然としている。
そんな彼女を相手にどのような態度をとればいいのかわからず、莉璃も黙り続けた。
「あっ、いた……! 白影さま!」
その時、明朗とした声音が割って入ってきた。
「いったいこんなところで何をしていらっしゃるんですか!」
はっとして首を巡らせると、官服を着た十七、八に見える青年が、殿の廊に立っている。
先ほど大部屋で白影に話しかけていた官吏だ。やはり白影の部下なのだろう。怒ったような顔をした彼は、栗色の髪をなびかせながらこちらにやってきた。
「まったく……油を売られていては困ります。主上がお呼びですよ」
「
「殿の外で白影さまの出待ちをしている女官たちに教えてもらったんです」
出待ち? そのようなものがあるの?
莉璃が首をかしげていると、一方の白影は迷惑げに顔をしかめる。
「どうせこの髪色を珍しがる者どもだろう。まとめてどこかに捨ててこれないか?」
「捨ててもまた湧いてくるかと思いますが」
「……めんどうだな」
彼はうんざりといった様子で唇を噛んでいる。
「で? 主上はいったい何の御用だ?」
「それが『暇なので白影を呼んでこい』と。なんでも今日の朝議で溜まったうっぷんを晴らしたいそうです」
「まったくあの御方は……」
今度は溜息を吐きつつ、右手で額をおさえる。
「――では莉璃姫、私は仕事に戻ります。先ほどの話はまたあとの機会に」
「え? ええ、わかりましたわ」
――って、この状況で放置されても困るのだけれど。
どうせなら圭蘭も連れていってくれないものかと、莉璃は白影と悠修に視線で訴えかけた。
しかし彼らは、連れ立って颯爽と歩き出してしまう。瑠璃色の官服の裾を、優雅になびかせながら。
「姫君さま方! 白影さまに熱を上げられているのかもしれませんが、僕の上司は女人にはまったく興味のない生真面目な方なので、おやめになったほうがいいですよ! それよりもこの悠修のところにおいでくださいませ。僕は来る者拒まずの節操なしです。優しくなぐさめてさしあげますからーーいてっ」
最後の声は白影に小突かれ、自然と漏れてしまったものだ。
やがて二人は、莉璃の視界から消えていく。廊に響き渡る沓音とともに。
その途端に隣に立つ圭蘭が、「ちっ」と忌々しげに舌打ちをしたような気がした。
――相手にしている暇などないわ。
そう。今すぐ衣装制作に取りかからなければならないのだから、ここで無駄な時間を使うわけにはいかないのだ。
「では圭蘭姫、わたくしも失礼いたしますわ。お互い衣装作りに励みましょう。なんといっても貴妃のための花嫁衣装ですもの」
莉璃は深々と一礼し、即座に回れ右をした。
返事をする間など与えない。これ以上、彼女と関わり合いを持ちたくなくて、早足で鳳家の部屋へと入る。
「おつかれさまです。そろそろかと思いまして」
声をかけられ顔を上げると、目の前には
頃合いをみて準備してくれたのだろう。彼が手にした盆の上には、湯気の立つ碗がのせられている。
「面倒だわ……もうわたくしのことは放っておいてくれないかしら」
圭蘭の存在も、白影の存在も、正直、今の莉璃には邪魔以外の何ものでもない。
頼むから衣装作りに集中させてほしいと、頭を抱えずにはいられなかった。
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