第五話

 いきなり割って入ってきた声に、その場にいた皆がはっとした。


春琳しゅんりんにも儀式に対する憧れがあるのだな。ならばそれをあますことなく叶えてやるのが余の努めというもの」


 余。その一人称を使う者は、ここれい国にはただ一人しか存在していないはず。


 まさか、と予感しながら振り返ると、部屋の戸口には三人の男が立っていた。

 ひとりは長い黒髪の、美しい顔立ちの男だ。年は二十歳くらいだろうか。龍の刺繍があちこちに刺された紫の深衣を身にまとい、頭上には金色の冠を載せている。

 優しげな目元だが、眼光は鋭い。口元に浮かべるのはいたずらな笑みだ。醸し出す雰囲気は優雅かつ圧倒的で、莉璃りりは無意識のうちに息をのんでいた。


 ――この御方が。


 誰に問わなくともわかった。彼こそがここ黎国の王、蒼理風そうりふう、十九歳だと。

 そして驚くことに、王の背後には。


白影はくえいさま……」


 瑠璃色の官服をまとった白影と、彼の部下である悠修ゆうしゅうが立っていた。


 そういえば莉璃の父が言っていた。

 白影は中書省――詔勅の立案や、王の秘書的な仕事をする部署に勤める官吏で、王付きの出世頭だ、と。

 ということは普段からこうして王に付き従っているのだろう。


「なんだ、白影の知り合いか?」

 王にちらりと視線を向けられ、莉璃と零真れいしんは慌てて立ち上がった。

 どうやらうかつに呟いた白影の名を、王に聞きとめられてしまったらしい。


「ご無礼をお許しくださいませ。ほう莉璃と申します。こちらは部下の零真です。主上におかれましてはこのたびのご婚礼、まことにおめでとうございます」

 その場でひざまずき、顔の前で手を組み合わせる拱手をとる。


「鳳家の姫か。そういえば春琳がそなたの母の衣装をたいそう褒めていたな」

「光栄でございます」

「春琳が望むままに作ってやってくれ。求めるのは余の愛する彼女がより美しく見える衣装だ」


 と、その時、不思議なことが起こった。

 莉璃の頭上を、ひゅんっと音を立てて何かがーーきらりと光るようなものが飛んでいったのだ。


「理風……よくも『余が愛する彼女』などと言えたものね。ふふっ、どの面さげてわたくしに会いに来たのかしら?」


 王が片手できっちり受けとめたそれは、どうやら貴妃の髪に挿してあったかんざしのひとつのようだった。

 何事? と急ぎ振り返れば、そこには笑顔の貴妃があいかわらず座っている。

 ただし、握った両の拳は小刻みに震えていた。


「理風、あなた、わたくしに謝らなければいけないことがあるのではなくて?」

「……さて、なんだったか。とくには思いつかぬが」

 王は口元に弧を描いたまま、貴妃のもとへと歩を進め始めた。


「ふふっ、知らん顔をするつもり? でもきちんと情報が入っているのよ。あなた、一昨日の夜にしょう家出身の女官を口説こうとしたんですって?」

 そこで王の全身の動きがぴたりと止まる。

「……さあ、なんのことだ? 余は身に覚えがなさすぎるが……なあ白影?」

「主上、私を巻き込むのはやめてください」

 白影はいたって興味のなさそうな顔をしている。


「ちっ、空気の読めないやつめ」

「読む必要のない場面と判断いたしましたので」

「それはおまえの考え違いだ」

「それよりも主上、まずは蒼貴妃への言い訳が先では?」


 白影にうながされ、王はふたたび貴妃へと向かって歩き始めた。

「いいか春琳、それはくだらぬ噂だ。決して信じてはならぬ。後宮は女人どもの巣窟ゆえ、時におかしな噂が立つこともあろう。だが不確かな情報に惑わされぬよう努めるべきだ」

「そう……あくまで認めないつもりなの」

 貴妃はいよいよ椅子から立ち上がった。

 まったく崩れない、花のごとき笑みが、逆におそろしい。


「でもね理風、うちの家人と章家の家人が知り合いで、それは丁寧に教えてくれたのよ。まさか華燭の儀を前にして、あなたがそんなことをするとは信じがたかったけれど……ねえ理風、もう二度と火遊びはしないと誓ったんじゃなかったかしら? 無駄に妃嬪ひひんをつくらないと約束してくれたからこそ、あなたのもとに嫁ぐことに――貴妃になる決意をしたのに……!」

 最後の頃は、地を這うように低い声音だった。

 どうなってしまうの? 莉璃が唖然としている間に、貴妃が攻撃準備に入る。

 彼女の白魚のような指が、卓子の上に置かれた扇子やら茶碗やらを次々つかんだ。


「待つのだ、春琳。ひとまず落ち着け」

「ええ、わたくしはじゅうぶんに落ち着いているわよ。ふふっ」

「では手にしたものを離せ。な? いいか、いかに仲違いをしても、腹を割って話せば必ず上手くいくというものだ。双方いらぬ誤解をしている場合もある。意見が合わなくとも、根気よく場を持てばわかりあえる。だからつまり――」

「つまり、なにかしら?」

「つまり暴力反対だ!」


 その時、白影に手をひかれ、莉璃は立ち上がった。

「退散いたしますよ」

「え?」

「ほら、早く!」

 とにかく急かされながら、彼とともに小走りで部屋を出る。

 気づけば貴妃付きの女官たちも一緒だ。零真は悠修に手を引かれて部屋から飛び出してきた。


「ど、どうして急に」

「すぐにわかりますよ」

 悠修が部屋の戸を閉めた直後、ドンガラガッシャンドーン! と、扉の向こうで轟音が響いた。

 同時に聞こえてくるのは王の上擦った声だ。

「やめろ春琳! 誤解だ、話せばわかる!」

「話してわからないからこうなっているんでしょう? 覚悟なさい、理風!」


 どうやら王の浮気未遂に腹を立てた貴妃が、報復行為に出ているようだった。


「これは……由々しき事態ではありませんの? 中に入って止めたほうが――」

「いえ、いつものことですので問題ありません」

 白影は真顔でそう言ってのけた。

「まったく、困っちゃいますよね。でもあれはお二人なりの様式美なんですよ。仲違いが解消されれば、よりいっそう仲良くされていますから、心配ありません」

 悠修もけらけら笑っている。


「さて白影さま、どうします? 一度、中書省に戻りますか?」

「そうだな。主上付きの警備も控えていることだし、問題ないだろう」

「決済しなければいけない書類も山のように溜まってますしね」

 しかし白影は、踏み出した足をはたと止めた。


「面倒な方々のお出ましだ」


 彼の視線をたどれば、殿の廊をこちらに向かって走ってくる男たちの姿があった。

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