第五章 異変は突然やってくる
第一話
時は過ぎる。
貴妃の花嫁衣装製作もいよいよ佳境。提出期限は三日後にまで迫っていた。
「たしかここは金糸だったわよね」
吐く息も白く染まり始めた晩秋の夕方。
燭台の火を頼りに、莉璃は刺繍を刺していた。
膝の上に広げているのは、衣装の肩掛けの生地だ。右手には刺繍用の針を握っている。
大きく作られた針穴に数本の糸をとおし、図案のとおりに生地に刺していく。
ひと針ひと針、ていねいに。この衣裳に袖を通す貴妃の姿を思い浮かべながら。
点状や波状、鎖状など細くしたり、太くしたり。
ときには立体感を出すため別の生地の上に糸を這わせたりと、駆使するのはさまざまな方法だ。
そうして仕事を続けていると、やがて深紅の生地に金色の花が浮かび上がる。
衣裳製作の中でもっとも手間がかかるのが、この刺繍作業だ。今日までのひと月弱、すでに多くの時間をそれに費やしている。
とくに
「莉璃さま、肩掛けの右側が上がりました。こちらでいかがでしょう?」
「そうね……とても綺麗に仕上がっているわ。ありがとう」
そうして完成した生地の数枚を、今度は莉璃が縫い合わせていく。
その際に使うのは、刺繍用よりも太い針だ。糸は耐久性のあるものを選び、縫い目が表に出ないよう工夫を凝らして仕立てていく。
「肩掛けは今日中に完成できそうですね」
「順調よ。明日には修正にとりかかれそうだもの」
残り三日にして、すでに衣装の主となる
あとは
「そろそろ休憩いたしましょう。花茶を淹れてまいります」
「もうそんな時間になるの?」
刺繍や縫製の作業はとくに神経をすり減らすため、八刻に一度程度は休憩をとることにしている。
集中力には限界がある。長く気を張り続けているよりも、定期的にゆるめてやったほうが効率は上がるのだ。
「それにしても、美しい衣装ですね。図案よりずっと豪華に仕上がりそうに思えます」
茶碗を手にした零真は、製作途中の衣装の前に立った。
あたりには茉莉花のかぐわしい香りが漂っている。
「これなら主上も貴妃もお気に召してくださるのではないでしょうか」
「そうね……そうだといいのだけれど」
人形に着付けた深紅の衣装は、当初の予定どおり
全面に大輪の花の刺繍を刺し、胸下から裾にかけてゆるやかに広がる形となっている。
三日後、結果はどうなっているのだろうと考えれば、押し潰されてしまいそうなほどの緊張を今から覚える。
莉璃は茶碗を片手に、自分が手がけた衣裳をしみじみ眺めた。
「やっぱり花の刺繍を、もっと工夫したほうがよかったかしら」
花の図案は貴妃の記憶を頼りに描いたものだが、わりと平凡な気がして、いまいち自身がない。
実物を見ることができれば、また違った案も浮かんできたかもしれないのに。
「今のままでもじゅうぶんだと思いますが。美しくて繊細で……そうですね、こんな衣裳を着せてやることができたら、どんなにか幸せでしょうね」
零真がぼんやりとつぶやく。
着せてやることができたら?
「あなたの妹さんに、ということ?」
ふと問えば、彼は驚いたように目を見開いた。
「たしかわたくしと同じ歳だったわよね?」
王宮に上がった翌日、彼は言っていたのだ。
十二年間、一度も里帰りをしていない故郷の話が出た際に、『五つ下の妹もいるので、本当は顔を見に帰りたいのですが』と。
その時の彼のもの悲しげな表情が、莉璃の脳裏によみがえってくる。
「よく覚えておいでですね。……ええ、そうです。彼女もそろそろ年頃ですから、そのうち結婚することもあるかと思いまして」
「その時にはあなたが衣裳を仕立ててあげるのね?」
「そうしたいがため仕立屋で働き続けてきたのですが、このように見事な衣裳は夢のまた夢ですね。実家はその日暮らしもやっとのはずですから」
たしかに今、目の前にある衣裳は、これ一着で下流貴族の屋敷が買えてしまうほどに高価なものだ。
生地は国内最高級とうたわれる
「これは貴妃の衣裳ですもの、豪華で当然よ。貴族の姫だって――少なくともわたくしはこれほどのものは着ることはできないわ」
「そうなのですか?
司家。つまり
「白影さまは嫡男ですから、
「やめて。あの人の話はしないでちょうだい」
莉璃はとっさに零真の話をさえぎった。
「まさか、まだ喧嘩なされたままなのですか? あれからひと月も経つのに」
「べつに喧嘩したというわけではないわ。だから仲直りする必要もないだけよ」
「そうは言いますが、あれほど毎晩訪ねていらしてたのに、ぱったりと来られなくなってしまって」
零真は頭が痛いと言わんばかりに、額をおさえる。
「縁談を拒否されるにしても、関係の修繕だけはされたほうがよろしいのでは? でなければ破談に向けて、白影さまを説得することもできませんよ」
「それはわかっているわ」
そう、莉璃だとてちゃんとわかっている。
彼ときちんと話をしたほうがいい、と。
だが肝心の白影が、はたと訪れなくなってしまったのだ。
彼の生い立ちを明かされ、ふいに口づけをされたのは、ひと月ほど前のこと。
それから仕事で顔を合わせる機会も何度かあったが、その際も彼は、莉璃から逃げるように目を逸らし続けた。
あの夜、莉璃に対して無体な振る舞いをした彼だ。ばつが悪くて、顔を合わせられないのかもしれない。
だからといってあの態度はいったいどうなのだ。
――勝手に勘違いをして、劣等感を抱いて、わたくしの話をまともに聞かないで。
あげく冷静さを欠いて口づけしてくるのだから、まったく迷惑な話だ。
「どうせならあの時、もっと力をこめて叩いてやればよかったかしら」
苛立ちが収まらずに拳を握っていると、事情を察したであろう零真が呆れたように息を吐いた。
「そうおっしゃらずに、莉璃さまから歩み寄ってさしあげたらいいのでは? いつまでも怒っていては気力と熱量の無駄、つまり金の無駄に繋がりますよ」
それにしたって、なぜわたくしから譲歩しなければならないの、と、莉璃は眉根を寄せる。
と、その時、すっかり顔見知りになった礼部の青年が、部屋を訪ねてきた。
「
「何か御用でしょうか」
「
「――っ! でしたらすぐにおうかがいさせていただきますわ」
お茶のあとかたづけを零真に任せ、莉璃はさっそく廊に出た。
嬉しい知らせだ。
ひと月ほど前、王家の花である句劾に製作を依頼した宝飾品が、ようやく完成したのだ。
それらを早くこの目で見たくて、いてもたってもいられない心地になった。
沈んでいた気分がいっきに浮上し、この時だけは白影のことを忘れ去る。
「では私がこのままご案内させていただきましょう」
「よろしくお願いいたしますわ」
部屋を出て、歩き始めた官吏のあとを追い、莉璃も殿の廊を進み出した。
そして大部屋の近くに差しかかった時、不意の出来事が起きる。
「莉璃姫……なぜここに」
驚くことに、大部屋の中から偶然現れた白影と、ばったり行き会ったのだ。
部屋で打ち合わせをしていたのだろう。
彼は資料や書類らしきものを小脇に抱えている。
仕立屋が衣裳を提出し、王と貴妃による選定が済めば、その半月後にはいよいよ華燭の儀だ。それらの準備も佳境に入っているのかもしれない。
「これは司白影さま。おつかれさまでございます」
礼部の官吏が深々と頭を下げた。
「洸句劾殿の作業場に、こちらの方をお連れするところなのです」
「ということは西七五所までですか」
言いながら、白影はちらりとこちらに視線をくれる。
久々にまともに彼の顔を見れば、やはり胸中にもやもやした感情が広がった。
――わたくしに何か言うことはないのかしら。
声に出さずに目で訴えかけるが、やはり白影は、ばつが悪そうに視線をそらしてしまう。
だめだ、もう我慢できない。
いよいよその態度をあらためてもらわなければと、莉璃は口を開いた。
「白影さま、今、お忙しくしていらっしゃいますか?」
「え……私ですか?」
「そうと申し上げましたが」
白影はびくついたような態度で、「いえ、少々の時間の余裕はありますが……」と、答えてくる。
「でしたらわたくしを句劾さまのお部屋まで案内してくださいませ」
「え……私が、ですか?」
「ですからそうと申し上げておりますが」
「いや、それは……」
白影はもごもごと口ごもった。
なぜいきなりそんなことを、と、戸惑っているようにも見える。
一方、礼部の官吏は、嬉々として頭を下げた。
「ありがたいです。実はこれから
ではよろしくお願いいたします、と、彼はさっそくこの場から去っていった。
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