第八話

 ――本当にいらしたの……? というか今、いったい何時なのかしら。


 床に転がったまま時計を見やれば、時刻はちょうど日付を越えたところ。

 とても人を訪ねていい時間ではなかった。

 さすがに非常識すぎるわ、と、莉璃りりは眉根を寄せる。


「莉璃姫、白影はくえいです」


 今夜はあの声に応えるつもりはない。

 これ以上、彼に振り回されて時間を無駄にするわけにはいかなかった。


 そのまま息を潜めて、彼が立ち去るのを待つ。

 自分の心臓の音が、やけに大きく感じられる。

 と、やがて彼の、溜息混じりの声が聞こえてきた。


「しかたない、開けさせていただきますよ」


 開ける? それはいったいどういうことかしら?

 わけがわからなくて首をひねっていると、背後で物音がした。

 反射的に身を起こし、廊に面した扉に視線を向ける。

 嘘でしょう?

 唖然としている間に鍵が外れるような音がして、間をおかずに扉が開いてしまう。


「な、なぜ……」


 莉璃の瞳に映るのは、部屋の中に入ってきた白影の姿だ。

 蝋燭の灯りの中でも輝く白銀色の髪。何もかもを見透かされてしまいそうな神秘的な琥珀色の瞳。刃のような印象の美貌が、そこにある。


「やはり起きていらっしゃいましたか」

「だ、だからなぜっ……」

 あなたが鍵を持っているの? と問いたかったが、仰天するあまりに言葉にならなかった。

「なぜあなたが……!」

「落ち着いて喋ってください」

 白影は涼しい顔のまま、莉璃の前までやってくる。


「落ち付けって、あなたに言われたくはないわ……! なぜ勝手に入って来たの? なぜこの部屋の鍵を持っているのよ!」

「礼部に寄ってくすねてきたからです」

「だからなぜ!」

「あなたが『鍵を開けない』とおっしゃっていたので」

 白影はそうすることが当然と言わんばかりの顔をしている。


「何を言っているの? 『鍵を開けない』と言われたら、普通、来るのをあきらめるものでしょう? 鍵を盗んで勝手に開けて中に入るなんて、言語道断だわ」

「怒っているのですか」

「当然のことを聞かないでちょうだい。いわばこれは犯罪よ。知らないようだから教えてさしあげるけれど、他人の住居に勝手に侵入してはいけないのよ」

「ですが私は他人ではありません。あなたの婚約者です」

「わたくしは、仕事を認めてくれないのなら結婚するつもりはない、ともう何度も言っているわ」

「私はどうしたってあなたと結婚するつもりだ、ともう何度も言っています」


 堂々巡りだ。

 急にひどい疲労感に襲われて、莉璃はこめかみを手で押さえた。


「とにかく……どちらにしろ勝手に入ってくるのはやめてちょうだい。金輪際、もう決して、絶対に!」


 と、その時、隣室から声がかけられた。

「莉璃さま、どうかなされましたか?」

 声の主は零真れいしんだ。

 つい大きくなってしまった莉璃の声で、目を覚ましてしまったのだろう。


「いえ、なんでもないわ。ちょっと白影さまがいらしていて……」

「でしたらお茶などご用意いたしましょうか。着替えに少々お時間をいただきますが」

 つまり女装に時間がかかる、ということだった。

「必要ないわ。白影さまはただちにお帰りになられるそうだから」

「いや、茶か酒を用意してくれるとありがたいです。少々小腹も空きましたし」

「あなたは黙っていてくださいませ」

 白影の官服の裾を引っ張り、その場に座らせる。


「零真、こちらは何の問題もないわ。あなたは早く寝てちょうだい」

「ではお言葉に甘えさせていただいて。夜着姿ですので、このまま失礼させていただきます」

 零真はふたたび床に入ったようだった。


 ――いけない。わたくしも夜着のままだわ。


 ふと気づいた莉璃は、机の横に置いていた衣を慌ててはおった。

 水色のそれの前を掻きあわせ、少しでも身を隠そうと努める。


「美しい黒髪になまめかしい白い夜着。なかなかいい眺めでしたが」

 本心なのか冗談なのか、彼は琥珀色の目をすがめた。


「で、いったい何をしにいらしたのですか」

 いまだ苛立ちが収まらぬ莉璃だが、極力小声で喋るよう心がけた。

「遅くなってしまい申し訳ありません。門下省の無能どものおかげで、仕事が終わらなくて」

 そんな答えを求めているわけではないのだけれど。


「わたくし、とにかく忙しいのです。白影さまは主上の華燭の儀の総監者で、わたくしたちを管理する立場ですもの、おわかりでしょう?」

 疲労を滲ませた声で言えば、白影はようやくこちらの話に耳を傾け始めた。

「こうして遊んでいる暇はないのです。どうか今夜は帰ってくださいませ」

 返事を待たずに彼に背を向け、卓子の上にある図譜に手をのばす。

 これ以上、話をするつもりはないと、態度で示したつもりだった。


 すると白影は、さっそく立ち上がった。

 こちらの願いどおりに帰ってくれるのだろうか?

 莉璃は半信半疑で視線を動かす。


「な、なにをなさっているの!」

 驚くあまりに声が跳ねた。

 あろうことか白影は、莉璃の背後に腰を下ろし、胸元のあわせから取り出した書類に目を通し始めたのだ。


「私のことはお気になさらないでください」

「そういう問題ではないわ。わたくしの質問にただちに答えてくださいませ」

「私は私で仕事をさせていただこうかと考えたのですが、何か問題でも?」

 だからなぜここでそれを始めるのか。

 理解に苦しんでいると、白影が急に溜息を吐く。


「私なりに譲歩したつもりなのですよ。あなたはきっと、もうどうしたって宮廷から下がるつもりはないのでしょう? でしたら今回だけはあなたの仕事を認めさせていただこうかと。そして認めた以上、あなたの邪魔をしないようにと、私なりに努めているのです」

 だからあなたに話しかけるような真似は一切しない、と。

 仲を深めたいがため同じ空間で過ごすことを希望するが、自分のことは気にしなくて結構、と、白影は言う。


「図案の締切まで日がないということは、もちろん知っています。ですからどうぞ仕事に邁進してください。たとえ王家の花に選ばれたとて、あと半年後には辞めることになる――それでもよいのなら」

「よいわけありませんわ」

 そう答えながら、莉璃は不思議に思っていた。

「なぜ今回ばかりは許す気になられたのですか?」

 即刻、宮廷を辞せ、と、あれほど言っていた彼なのに。


「そうしなければあなたは今すぐにでも私との婚約を破棄しようと動かれるでしょう?」

 それを阻止するための苦肉の策ですよ、と、白影は顔をしかめた。


「あなたが今回の仕事に没頭している間に、どうにかあなたを手に入れられないかと考えまして」

 だから今晩も莉璃を訪ねたのだという。

「これから毎夜、あなたを訪ねます。ですがあなたの邪魔は決していたしませんので、ご心配なく」

「わたくしが、はいそうですか、と言うとお思い? 謹んでお断りさせていただきますわ」

「となると、鍵を使って勝手に入らせていただくことになりますが、よろしいですね?」


 ――まったく、この方は……!


 莉璃は怒りを通り越して呆れてきた。

 たとえ声をかけられなくとも、この場に彼がいるというだけで気が気でないのに、それが毎晩? ありえない。


「とにかく面倒だわ……いったい何がしたいというの?」

 愚痴のようにつぶやいた言葉に、白影が反応した。

「ですからあなたと過ごす時間を持ちたいだけです。それから……そうですね、基本、邪魔立てはいたしませんが、時折この美しい髪を愛でさせていただければ幸いです」

 そう言うやいなや、彼は莉璃の洗い立ての黒髪を手に握る。


「勝手にさわらないでと言ったはずですが」

「これくらいは許してくださいとお願いしたはずですが」


 またしても堂々巡り。

 彼は真剣な顔のまま、莉璃の髪を撫で始めた。


「……ひとつ教えてくださいませ。今夜、もしわたくしが寝ていたらどうするつもりだったんですの?」

「あなたの寝顔を堪能したのちに帰りました」


 どちらにしろ勝手に鍵は開けていた、ということか。


「もし私のような男と同じ空間にいるのがつらい、というのならおっしゃってください。――と言っても、あなたを望む気持ちは変わらないので、どうすることもできないのですが……」


 ――ほんとうに、なんなのかしら、この方は。


 常識外れで、自分をわかっていなくて、妙に生真面目で。

 自己評価がかなり低いくせに、息つく間もなく強引に迫ってくる。


 ――よくわからないわ。


 脱力した莉璃は、がくりと肩をおとした。 

 いけない。こんなことをしている場合ではないのに、どうしても彼に翻弄されてしまう。自分はここに貴妃の花嫁衣装を作りに来たのに、仕事に集中できずにいる。


「……わかりましたわ。わたくしも譲歩するといたします」


 あれこれ考えたのちにそう言えば、白影が小首をかしげた。

「といいますと?」

「あなたがここを訪ねることを受け入れますわ」

 そうしなければ今後も無駄な時間を過ごすことになるのは明白だった。


 ならば命令を聞かない犬でも飼ったと思い、覚悟を決めたほうがいい。

 もしや一緒に時を過ごすうちに、彼が莉璃の仕事を認めてくれることもあるかもしれない。

 そうなれば一路順風。莉璃だとて、仕事を辞めなくて済むのなら、彼と結婚することが最善なのだ。


 ――わたくしのうしろにいるのは銀毛の大きな犬。髪をさわられたところでどうということはないわ。


 自分に暗示をかけるように言い聞かせ、再び卓子に向き直った。


「そのかわり誓ってわたくしの仕事の邪魔はしないでくださいませ」

「お約束いたしましょう」


 白影が黙ったことを確認してから、ようやく仕事を再開する。

 図譜の一冊を開き、その中に金色の花の情報を求め、頁に視線を落とした。

 けれどやはり気になってしまい、おそるおそる背後を振り返れば、こちらを見ていた白影と視線が交わる。


「――面倒な方」

 蔑むように言ってやったのだが、彼はそれが何か、と言わんばかりに微笑んだ。


「その面倒な男を、早く夫と認めていただきたいものです」

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