第六話
「ああ! 主上は貴妃と御一緒か!」
「しまった……! 急ぎお願いしたいことがあったのだが」
「白影殿、主上を呼んでくださらぬか!?」
「頼む! 主上にお渡しした書類の中に、即刻、手直しをしなければならぬ箇所があるのだ」
いきなり
とにかく急いでいるのだろう。皆、自分たちの要求を我先にと口にする。
「私は主上に提出済みの予算の案件の修正をさせていただきたいのだ」
「儂は門下省が中書省へ差し戻した法案の件で少々」
「僕は禁軍で主上の演習のお約束があるので、そのお迎えに」
「私は以前、主上にお貸しした書類を即刻お返し願いたく」
「私は主上に貸した金のとりたてで」
白影は、うんざりといった様子で顔をしかめた。
「まったく、揃いに揃って……」
すると見たところいちばん年嵩の官吏が、顔を赤くして口を開く。
「なんだその言い草は! それもこれもそなたが主上のご予定をうまく管理できないからではないか!」
「なるほど、私が原因だとおっしゃるわけですね?」
「そ、そうに決まっておる。そなたの管理不足で儂らは今まさに害をこうむっておるのだぞ!」
「ならば一度だけ言いますのでよく聞いていてください」
白影は呆れたように顔をしかめつつ、腕を組んだ。
「戸部から上がって来た予算案の誤りは六十一頁の五行、武官の選抜についての箇所でした。これは一読すれば猿でもわかるほどの単純な計算違いでしたので、すでに修正いたしましたよ。それから差し戻された法案の草稿ですが、二頁目ですでに矛盾点が見つかりましたので『もう一度検分し直しやがれ給料泥棒』との伝言付きで門下省に戻してあります」
白影は休むことなく二の句を継ぐ。
「それから本日、禁軍での主上の演習は不可能となりましたので、すでに変わりの者を手配済みです。一昨年将軍職を引退された
「白影さま、いつの間にそのようなことを?」
問うたのは
「主上が貴妃を訪ねると言いだした時に、こうなることは目に見えていたからな。――それから主上にお貸しした書類は、各州都の工事中の箇所のまとめですね? それなら概要はすべて私の頭の中に入っています」
「すべてといっても、三十枚にも及ぶ書類だぞ!」
「知りたい情報があるならどうぞ中書省の私のところまで。それと主上に貸した金の取り立てくらいは自分でしろ馬鹿野郎が、といったところでしょうか。では失礼」
白影は官吏たちに向けて軽く一礼すると、殿の廊を北に向かって歩き始めた。
「あっ、白影さま、おいていかないでくださいよ!」
「わ、儂らもまだ用があるのだ! 白影殿!」
悠修と官吏たちが、慌ててあとを追っていく。
やがて莉璃の背後に立つ
「なるほど、莉璃さまのお相手はすさまじく有能な方なのですね。たしか『鬼才』と呼ばれていると耳にしたことがありますが」
「鬼才……?」
たしかに今の仕事ぶりを見れば、そう呼ばれることもうなずける。
そのような相手に、莉璃はなんとしてでも仕事を持つことを認めさせる――あるいは彼との婚約を破棄し、彼から逃げなければならないのだ。
あらためてそう認識すれば、たちまち気分が重くなった。
「それより零真、わたくしたちも一度、作業場に戻りましょう」
主上と貴妃は、相変わらず部屋の中だ。
衣裳の打ち合わせはまだ始まったばかりだったのに、と莉璃が肩を落とせば、貴妃付きの女官に声をかけられる。
「おっしゃるとおり、お部屋に戻られたほうがよろしいですわよ」
「ああなるとしばらくは続きますから、お待ちになられるだけ時間の無駄になるかと」
扉の向こうからはまだ茶碗が割れるような音や、調度品が倒れるような音が聞こえてくる。それに時折混じるのは、王が貴妃を懸命になだめる声だ。
「でしたらここで一度、失礼させていただきますわ。主上と蒼貴妃にどうぞよろしくお伝えくださいませ。お話の途中でしたので、ぜひまたうかがわせていただきたい、と」
「ええ、必ずやお伝えいたしますわ」
女官たちに別れを告げ、莉璃と零真は殿の出入口へと向かった。
しかしその直後、背後からいきなり腕をつかまれ、ひやりとする。
何? と振り返ると、そこには北に歩いていったはずの白影が立っていた。
急いで引き返してきたのだろう。彼の呼気はやや乱れている。
「白影さま……どうかされましたの?」
「言い忘れましたが、今夜、訪ねます」
「は?」
「ですから今夜、あなたの部屋を訪ねると言っているんです」
つかまれた右腕をやんわり引き寄せられ、琥珀色の瞳が近くなった。
「なぜですの? 用があるのなら今、ここでうかがいますが」
「とくに用はありません。強いて言うならあなたとの仲を深めるためでしょうか」
「――絶対に来ないでくださいませ」
彼が考えをあらためてくれなければ、仲が深まることなどありはしない。だというのに訪ねてこられても迷惑だ。
「もしいらっしゃっても鍵は絶対に開けませんわ。どうかご了承くださいませ」
莉璃は腕をつかむ白影の手をはねのけた。
しかしそれでも、彼は首を縦に振らない。
「とにかく訪ねますので、そのつもりでいてください」
そう宣言するなり、ふたたび北に向かって歩いていく。
凛としたうしろ姿や、陽光を反射してまぶしく光る白銀の髪、規則正しい沓音が、あっという間に遠ざかって行った。
「それでも訪ねるって……」
いったい何を考えているの、と唇を噛んでいると、零真が隣に立った。
「まるで夜這いの予告ですね」
「おかしなこと言わないでちょうだい」
「ですがお二人は婚約者同士。何かあってもおかしくないでしょう?」
「わたくしは衣装作りで忙しいの。もし来たとしても、追い返してやるわ」
さあ行きましょう、と、莉璃は
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