第三話

「あら、どうしたの? ずいぶん疲れているように見えるけれど」

「え? いえ、そんなことはありませんが……もしそうと感じられたのでしたら申し訳ございません」


 府庫で用を済ませたのち、莉璃りり零真れいしんは急遽、貴妃のもとをたずねた。

 突然の謁見の申込みだったが、衣装の図案のできあがりをことのほか楽しみにしてくれている貴妃は、こころよく二人を迎え入れてくれた。


 ――できることなら府庫で新たな図譜を借りて、花の特定をしたかったけれど。


 いくら探しても昨日以上の資料は見つからず、結局、貴妃の記憶をたよりに金色の花の絵を描いてもらうことにしたのだ。


「もし疲れているならあちらの長椅子で休んでいてちょうだいね。わたくし、絵心があまりないから、描くには時間がかかると思うの」

「お気遣い感謝いたします。ですが本当に何でもありませんの」

「そう? でも実際、たいへんだったのではなくて? 今朝から後宮では大騒ぎだもの。あの司白影しはくえい殿に婚約者がいた、って」

「……やはりお耳に届いていらっしゃいましたか」


 あの節操なし男の悠修ゆうしゅうのせいだ、と、莉璃は肩を落とす。


「だってあの司白影殿でしょう? 若手の出世頭であの容姿で……わたくしの女官たちも、彼が来るたびいつも騒いでいるのよ。ねえ?」


 貴妃が振り返れば、背後に立つ女官二人が首を縦にふった。

「あんなにも素敵な方とご結婚なされるなんて、莉璃姫さまは本当にお幸せな方ですわ」

「なんといっても有能でいらっしゃるでしょう? 『鬼才』などと呼ばれているとの噂も聞きますが、多くの方から頼られていらっしゃるらしいですわよ」

 二人は「本当にうらやましいですわ」と、見事に声を揃える。


 やがて貴妃は筆を滑らせながら口を開いた。

「白影殿の父君は実質の宰相位。ここ十数年で司家は有力貴族の筆頭となり、その勢いは四星家しせいけを凌ぐほどだわ。歴史は浅いけれど、これからは司家の時代だと考える者も多いもの。嫡男である白影殿への縁談の申込みは相当数だったはずよ」

「そうなのですか?」

 険しい顔で聞き返せば、貴妃は「ええ」とうなずく。


「四星家ではりゅう家の圭蘭けいらん姫も彼との結婚を熱望したと聞いたわ。柳家から正式に申し込んだようだけれど、司家側に断られたとか。ほかにも新興貴族のせん家やらい家や……年嵩としかさの官吏の中には、白影殿がどこの家の娘と結婚するのか賭けている者もいるみたい」

「賭け、ですか」

「年よりの道楽よ。第一線をしりぞかれた方々は暇なのね、きっと」


 賭けが成立するほどの注目事。

 しかも柳家が正式に縁組みの申し入れをしていたとは知らなかった。

 だからこそ圭蘭は、白影とともにいた莉璃に、あれほど敵意をむき出した態度をとったのだろう。


 ――わたくしは、あまりに無知だったわ。


 日々、花嫁衣装の仕立てに心血を注いでいた莉璃は、縁談が持ち上がるまで白影の存在すら知らなかった。

 興味があるのは王家の花に関する情報だけ。政や貴族間の勢力争いについては疎かったのだ。


 今さらだが、とんでもない男を相手にしているのかもしれないと胸が騒ぐ。

 婚約話が公になってしまった以上、仕事を持つことを認めてくれなければ彼とは結婚しない、との莉璃の希望が、簡単に通るとも思えなかった。


 まずい。早くどうにかしなければ、待ち受けるのは最悪の結末だ。

 このまま白影との縁談が進んでしまえば、いずれ必ず仕事を奪われ、もう二度と花嫁衣装の製作をすることができなくなってしまう。


 ――それだけは耐えられないわ。


 あれこれ考えて焦燥感に駆られた時、部屋に響いていた音がぴたりと止んだ。

 貴妃が動かしていた手が止まったのだろう。彼女は満面の笑みをこちらに向けてくる。

「できたわ! あくまで記憶の中の印象だから、雑になってしまったけれど」

「ありがとうございます。さっそく拝見させていただきますわね」

 莉璃は貴妃の手から一枚の紙を受け取った。


「これは……」

 そこには紙面狭しと、躍動感あふれる筆致で何かが描かれていた。

 一見したところ北の大地を思わせる険しい山々のようにも見えるが、貴妃に依頼したのは金色の花の絵のはずだ。これはいったいどういうことだろう。


「これは……冬の山々でしょうか。雄大で厳しさが伝わってきて……素晴らしいですわ。筆ならしのために風景画を描いてくださったのですわね」

 そうに違いないと確信して言えば、隣に座る零真が耳元で囁いた。

「莉璃さま、いくらなんでも失礼ですよ。それは鳳凰ほうおうの絵です。背中に長い尾のようなものがあるでしょう? おおとりの後ろ姿です」

「え? あ……そうね。ええ、たしかに零真の言うとおりだわ。とても生き生きした鳳凰で、今にも飛び立ちそう」


 莉璃と零真は顔を見合わせ、目で会話をする。

 これは何? 何の絵なの? と、懸命に頭を働かせながら。


 すると貴妃が申し訳なさそうに肩をすくめた。

「ごめんなさい。それ、金色の花の絵なの……」

「……が、画力が天才級ですね」

 絵心がないにもほどがある。

 それはどこからどう見ても、とても花の形とは認識できない代物だった。

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