花を召しませ 〜仕事に生きたいわたくしは、あなたとの婚約破棄を願います〜

新奈シオ

序章 明日の夫となる人は

第一話

 深紅の花嫁衣装。

 それは幸せのあかし。


 花嫁は真っ赤な上衣下裳じょういかしょうを身にまとい、金銀の帯をしめ、刺繍が華やかなかすみの肩掛けをはおる。

 頭には鳳冠ほうかんと呼ばれる豪華な冠とかんざしを。首や耳まわりを飾るのは、衣装に合わせて作った頸鏈けいれん耳環じかんだ。


 やがて鏡にみずからの姿を映した花嫁は、必ずやこぼれんばかりの笑みを浮かべることだろう。

 なぜなら深紅の花嫁衣装は幸せのあかし。

 それに彩られた花嫁は、かつてないほど美しい姿で、愛する人のもとへと嫁いでゆくのだから。


 *   *   *


 神仙も昼寝に興じる、夏の昼下がり。


「そうね……美しい衣裳になりそうだけれど、なにか違うのよね」

「違う……ですか?」

「とても素敵な図案だと思うわ。でも娘には似合わないような気がして……」


 目の前の椅子に座る女人――四十を越えたばかりの彼女は、そう言ってささやかな息を吐いた。

 彼女は名のある貴族の妻だ。

 来春に華燭かしょくの儀を挙げる愛娘のため、極上の花嫁衣装を求めて、先日この店を訪れた客人である。


「似合わないとは……形ですか? それとも色や装飾でしょうか」

 いったい何がいけないというの? 莉璃りりは不安に拳を握った。


 先ごろ十七歳になったばかりの莉璃は、この国有数の名家の一人娘にして、ここ『月華館』――高級花嫁衣装の仕立屋の当主だ。

 貴族の娘は仕事に就かず、良き家へ嫁ぐのが良識とされている今の世。

 けれど莉璃は、二年前、急逝した母のあとを継ぎ、仕立屋となった。

 そしてその頃から時折、図案を見た客に言われることがある。

『素敵だけれどなにか違う』『娘には似合わなそう』と、厳しい評価の数々を。


 ――それでも注文してくださる方もいらっしゃるけれど。


 いったいなぜそう思うのか。色か、形か、装飾や刺繍の柄か。

 どうにか答えを見つけたくて、莉璃は日々、仕事に熱を注ぎ続けていた。


「残念だけど、これならかい家の衣裳のほうがうちの娘には合いそうね」

 手間をとらせてごめんなさいね、と、女人は椅子から腰を上げた。

「お待ちください! お気に召されないのなら、早急に修正いたします」

 しかし女人は、困ったような顔で首を横に振る。

「……ここ月華館は、やはりあなたのお母さまあっての仕立屋だったんでしょうね。月華館の花嫁衣装を着た娘は幸せになれる――その噂も、最近ではとんと耳にしないもの」


 ずきり、と胸が痛んだ。

 今は亡き母が高く評価されたことは嬉しかった。

 しかしかつての良き評判を、自分の力不足で落としてしまったことが悔しかったのだ。

 だがそれでも前を向くしかないのだと、ひとつ深呼吸をする。


「……お力になれずに申し訳ございません。いつかご納得いただける衣裳を作れるよう努力いたしますので、これに懲りずに月華館にいらしてくださいませ」

「そうね。あなたの成長を楽しみにしているわ」

「ありがとうございます」

「それからあなた、もう少し表情をやわらかくしてみたらいいわ。ここに来てから一度だって、あなたの笑っている顔を見ていないもの」

「も、申し訳ございません……!」

 莉璃はひたすらに頭を下げた。


 現実的かつ淡泊な性格で、愛想がない。

 そう評されることが多く、またそれをとくに気にすることなく生きてきた莉璃だが、客に指摘をされれば、話は別である。


「では失礼するわね」

 女人は侍女らしき娘を連れ、店から出て行った。

 それと入れ替わるように、外から店の中に入ってくる者の姿がある。


「あれはそん家の奥方だな? 衣裳は注文していただけなかったのか?」


 やってきたのは莉璃の父――名門貴族、ほう家の当主である双波そうはだ。

 父はその顔に苦い色を浮かべている。


「……注文はいただけなかったけれど、断られるなんてそうないことなのでご心配は無用ですわ。いつもは図案を見せれば喜んでくださる方ばかりですもの」

 先ほどのように『なにか違う』やら『似合わなそう』やら口にする客もいるのだが、それはあえて明かさない。


「それより父さま、いったい何用ですの? わざわざ店にまで来るなんて珍しい」

「今日は大事な用があってな。おまえに紹介したい方をここに呼んであるのだ」


 まさか。

 莉璃は声に出さずにつぶやいた。


「先日、おまえの縁談を決めたと言っただろう? その相手となる方だ」


 やはりそうなの。

 予想どおりの展開に、莉璃の気分は途端に重苦しくなった。


「必要ありません。わたくしは結婚はしないと言ったはずです」

「安心しろ。我が鳳家のための政略的婚姻だが、この上ないというほどに素晴らしい縁をいただぞ」

「そういう問題ではございませんわ」

「あちらから申し込んでくれたのだ。まさに棚から牡丹海老だな」

「牡丹海老って……」

 隣国のことわざなのだろうが、正しくは牡丹餅。

 うろ覚えもいいところである。


麗華れいかがいた頃は、この月華館のおかげでなんとかやっていられたが、今となっては店も火の車。おまえも仕事をやめて結婚するのにちょうどいい頃合いだろう?」

「勝手に決めないでくださいませ」

「家のことは心配するな。そのうち颯季そうきが帰ってきて私のあとを継いでくれる」


 颯季とは莉璃の三つ年上の兄のことだ。

 母が亡くなった二年前、彼は「世の中を見てくる」と書き置きを残して失踪してしまい、連絡一つ寄越さないまま今に至る。


「とにかく、今回の縁組みが成功すれば我が鳳家も安泰。間近に迫った破滅からも逃れられるというものだ」

「だからといってわたくしを犠牲にするのはどうかと思いますわ」


 そもそも鳳家が没落した原因は、当主の能力不足。

 つまりほかでもない父にあるのだから。


「そうは言っても莉璃。こうなったらもうおまえの結婚に頼るしかないのだ。溺れる者は犬をもつかむと言うじゃないか」

「それでは犬が死んでしまいます」

 つかむのは犬ではなくわらである。


「……うちの状況がまずいということは、もちろんわかっておりますわ」

 そう。鳳家の経済状況を立て直さなければ、いずれ一家は破滅。

 数は少なくなったが、いまだ留まり続けてくれている家人たちのことも、路頭に迷わせる結果となってしまう。


 ――わたくしの結婚がなによりの解決策だというのも、わかっている。


 だが莉璃には夢がある。

 それはいずれ『王家の花』となり、この国一の花嫁衣装の仕立屋と認められ、亡き母が大切にしていた月華館を繁盛させること。

 そして母がそうしていたように、仕立て業で生業を立て、自分の手で鳳家を支えていきたいのだ。


 ――結婚をすれば、仕事をやめなくてはならなくなるもの。


 この先も花嫁衣装を手がけ続けたい莉璃にしてみれば、なんとしても避けたい道だ。


「父さま、やはりわたくしは結婚はいたしません」

 今回の縁談はあきらめてほしいと、父の瞳をひたと見つめた。

「まあそう言うな。それに相手は世の女人たちが思いを寄せる『司白影しはくえい』殿だぞ」

「司、白影……?」

 誰かしら?

 初めて耳にする名に、莉璃は首をひねる。

「いいか? これから彼が来るから、今日ばかりは愛想良く笑って、彼を迎え入れるんだぞ」


 その時、月華館の扉が外側から叩かれた。


「旦那さま、お客さまがご到着です。司白影さまがいらっしゃいました」

 瞬間、莉璃の心臓がどきりと跳ね上がる。

 本当に来たのだ、その方が。

 そう思えば戸惑いや不安に胸が騒ぎ、すぐさまこの場から逃げ出したくなった。


「父さま、わたくしはお会いするつもりは――」

 ありませんから、と口にするより先に店の扉が開き、太陽の光が差し込んできた。


「司白影、ただいま参上いたしました」

「……! 銀色……」


 莉璃が視線をやった先には、息をのむほどに美しい、白銀色の髪の青年が立っていた。

「おお白影殿、中に入りなさい。久しぶりだな。昨年、父君のところで会って以来か」

 父が入室をうながすと、司白影は美しい所作で一礼し、こちらにやってくる。

「莉璃、彼が司家の白影殿だ。歳は二十一になる」


 研ぎ澄まされた刃のような美貌だ、と莉璃は思う。

 すっとした目元に輝く双眸は琥珀。透き通るような白肌と抜群に整った顔立ち。

 中でも印象的なのは、やはりその髪色だ。結い上げられ、小さな冠が載せられたそれは、曇りのない銀色をしている。


「白影殿、こちらが我が娘の莉璃だ。十七になる。愛想には欠けるが、気の強い――いや、なかなかしっかりした娘で――」

 父の声でハッと我に返った。

 いけない。この縁談を断るつもりでいることを、彼に伝えなければ。

 しかしわずかに白影が速い。彼は莉璃の前でひざまずくと、両手の指を胸の前で組み合わせる拱手をとった。


「はじめまして、莉璃姫。私は司白影。あなたの未来の夫となる男です」

 どうぞお見知りおきを。

 そう言って彼が顔を上げたとき、初めて視線が交わった。


 その刹那、莉璃は気づく。

 彼の瞳の奥に見え隠れする感情が、完全に冷めきっていることに。


 ――ああ……あなたもそうなの。


 おそらく彼も、この婚姻を望んでいない。

 彼は妻となるであろう莉璃に、まるで興味をいだいていない様子だった。


 ――この方にとっても、これは政略的結婚。


 ならば破棄するのはそう難しいことではないだろうと、その時、莉璃は期待したのだ。

 のちにその期待が、粉々に打ち砕かれることになるとも知らずに。

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