第三話
「
無意識のうちにその名を呟けば、彼がこちらに視線をくれた。
――気づかれてしまう。
およそひと月ぶりだろうか。
まさかこのような場で再会することになるなんて。
「白影さま、お知り合いですか?」
そう問いかけたのは、白影とともに部屋に入ってきた男だ。
年はおそらく十七、八くらい。どこか中性的な顔立ちをした、美形の青年である。
「いや、覚えはないが」
白影は首を横にふるなり、
――って、嘘でしょう……? 覚えはないですって?
吃驚するあまりに言葉を失わずにはいられなかった。
まさか本当に? 彼は忘れてしまったというのだろうか。近い将来、自分の妻となる女人の顔を。
たしかにあの日――彼と出会った日、莉璃は直感した。
おそらく彼も、この婚姻を望んでいない。彼は妻となるであろう自分に、まるで興味をいだいていないだろう、と。
だが顔も忘れられているとは、さすがに予想外だ。
――いくらなんでも失礼じゃないかしら。
苛立ちをあらわに彼の琥珀の瞳を睨みつけると、彼は「なぜ見てる」とでも言わんばかりに眉をひそめた。
「ああ、白影さま! 覚えていらっしゃいます? わたくし、
その時、圭蘭が急に声色を変えた。
先ほどまで
祈るように組み合わせた手を顎先にあて、愛らしく微笑んでいる。
しかしその言葉に反応したのは、白影ではなく、彼の部下らしき青年だった。
「圭蘭さま……? なぜここに?」
驚いた様子で目を丸くしている彼に、今度は白影が問う。
「知り合いなのか?」
「ええ、まあ、そうなのですが……白影さまこそお知り合いなのですね?」
「たしかに一度会ったことはあるが……」
白影はその顔に困惑するような色を浮かべている。
「お顔を拝見することができて嬉しいですわ! わたくし、白影さまにお会いしたくて今回の衣装製作に立候補しましたの。中書省にお勤めのあなたさまが、主上の華燭の儀の総監者に就任されると人づてに聞いたものですから」
「え……そのような理由で?」
莉璃は思わず声を上げていた。
「そのような理由で、花嫁衣装を作るというの?」
本来、花嫁の幸せを願って作るべき衣装。
それをそのような動機で製作しようとする者がいるなんて、信じがたかったのだ。
「……何よ、あなた」
圭蘭があからさまに不機嫌になった。
途端に白影とその部下らしき青年、さらにその場にいた皆の視線がこちらに集中する。
けれど莉璃は止まらなかった。
「それが真実であるなら、今すぐ製作を辞退なさるべきでは? あれは花嫁にとって至極大切なもの。真摯な気持ちで製作すべきものよ」
「だから何だというの? あなたいったい何様のつもり?」
眉をつり上げた圭蘭が、莉璃の前に立つ。
「わたくしの目的がどうであれ、あなたに関係ないでしょう? 結局、貴妃のために素晴らしい衣装を作ればいいんだもの」
「けれどあまりに動機が不純すぎないかしら」
すると圭蘭は、声高らかに笑い始めた。
「ふふふっ、おかしいこと。不純ですって? わたくしは選ばれてここにいるのよ。そうでないのに勝手にここに来たわけではないの。理由がなんであれ、あなたにどうこう言われる筋合いはないわ。面倒だから黙っていてくれるかしら」
そして彼女は、「ああ」とぽんと手を叩く。
「どこの誰かと思ったけれど、あなた
貧乏貴族。
面と向かってそう言われるのは初めてのことで、莉璃は一瞬、面食らった。
「鳳家の……?」
白影が今初めて気づいたかのような顔で、こちらを見る。
――やはりわかっていなかったんだわ。
腹立たしさと、家の現状をばかにされた悔しさと、けれどそれが真実であるため受け入れなければと思う気持ちと。
様々な感情がないまぜになり、溜息となってこぼれ落ちた。
「莉璃姫、あなた四星家の二の位だからって、わたくしより上にいるつもりね?」
「そんなつもりはないわ。わたくしはただあなたのような意識で花嫁衣装の制作に関わってほしくないだけよ」
「嘘ね。わたくしに説教をして、自分が上であることを皆に知らしめたいのでしょう?」
どうしてそうなるのか。
考え方があまりに違いすぎて、頭が痛くなってきた。
「まあ、あなたも可哀想よね。鳳家の財政は火の車だともっぱらの噂だもの。そうなれば衣装製作に躍起になるのもしかたがないわ。なにせその結果で家の行く末が決まるのだから、ここでどんな手を使ってでも勝たなければならないんですものね」
圭蘭は襟のあわせに差していた扇を手に取り、はらりと広げる。
「案外、あなたこそ目的を違えているのではなくて? 衣装制作なんて建前で、本当は金持ちの男を漁りにここに来たんでしょう?」
ぶちん。
瞬間、莉璃の頭の中で、大きな音がした。
それはまるで理性の糸が一刀両断されるような、とても激しい音だった。
――そう……どこまでも侮辱するつもりなのね。
気づけば莉璃は、圭蘭の手から扇を奪い取っていた。
それを彼女の首もとに、まるで兵士が剣の切っ先を向けるようにぴたりと突きつけ、言う。
「そろそろ黙りなさい、柳圭蘭」
自分でも驚くような低い声が出た。
「それ以上の侮辱は許さないわ。わたくしはここに、貴妃の花嫁衣装を作るためだけに来たのよ」
そう。ありったけの熱意と、たくさんの仕立て道具を持って、有能な部下である
「王家の花になる覚悟で来たの」
気づけばあたりはしん、としていた。
一切の音が消え、部屋の中を完全なる沈黙が支配している。
莉璃の前に立つ圭蘭は、息をすることさえ忘れているように思えた。
そしてそのうしろにいる白影は。
「――なるほど。さすが腐っても鯛、というわけですか」
ぽつりとつぶやいていた。
「ああ、もうこんな時間です。ではそろそろ終わりにいたしましょう」
そこで割って入ってきたのは零真の声だ。
「皆が困っています。成官吏にご説明を再開していただかなければ、衣装製作に移れません。時間を無駄に使う結果になってしまいますが、よろしいのですか?」
彼は女性のような声音を作ってそう言うと、パンパンッと二度手を打った。
「それで柳圭蘭さま、お部屋の件はどうなされますか? そちらにいらっしゃる官吏の方とお話しされます?」
零真にうながされ、圭蘭はハッとした様子で白影を見る。
「柳家の姫君、成官吏から聞いているとは思うが、部屋はどの家も三つずつと――」
「ええ白影さま、もちろんわかっておりますわ。ただわたくしは部屋の場所がどのあたりなのか聞きたかっただけですの。べつに数を増やしていただこうとしたわけではないのですが……少々行き違いがあったようですわね」
圭蘭は猫なで声で嘘を付いた。
なるほど。つまり彼女は、想いを寄せている白影の前では、まともな振る舞いができるらしい。
「では成官吏、説明の続きを」
促しながら、白影は成官吏の斜め後ろに立った。
「ええ。次は衣装製作の流れについてお話しさせていただきましょう」
ようやく平静を取り戻した大部屋の中に、成官吏のしわがれた声が響き始める。
ふと感じる視線。それは莉璃に向けられた、白影の射るような眼差しだ。
――なによ、気づいてすらいなかったのに……今さらじろじろ見られても困るのだけれど。
居心地の悪さを覚えながら、莉璃は成官吏の説明に耳をかたむけ続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます