第二話

 やがてその場に訪れたのは、耳が痛いほどの沈黙だ。

 聞こえてくるのは自分の呼吸音と、身じろぎした際のかすかな衣擦れの音だけ。

 久しぶりに二人きりでいるのだ、白影はくえいと。

 あらためてそう認識すれば、途端に居心地が悪くなった。


「……お久しぶりですね」

 先に口を開いたのは白影だった。

「そうですわね」

 答えた声は、素っ気なく聞こえてしまったかもしれない。


「では、こう句劾くがい殿の作業部屋に向かいましょう」

 歩き出した白影のうしろを、少し遅れて莉璃りりはついていく。

 上背がある彼にしては、やけにゆったりとした足取りだ。こちらを気遣ってくれているのかもしれない。


「順調ですか?」

「え?」

「衣裳作りです」

「ええ、そうですわね。おかげさまで」


 それ以降、ちっとも会話が続かなかった。

 彼になんと言葉をかけたらいいのだろう? 自ら望んで彼との時間を作ったはずなのに、莉璃の足取りはつい重くなる。

 すると、白影が立ち止まった。


「そんなにお嫌ですか?」

「は?」

「私と一緒にいるのは、そんなにも嫌なのですか」


 こちらを振り返った彼の顔に浮かべられているのは、どこか苦しげな微笑だ。

 気づけば莉璃と白影の間には、それなりの距離が生まれている。


「でしたら無理に声をかけてくださらなければよいものを」

「いいえ、そうではありませんわ」

 たぶんまた、彼は勘違いをしている。

 白影とまともに話をしたいと思ったからこそ、彼に案内を頼んだ莉璃なのに。


「……あなたはずるい方だ」

 白影は早足でこちらに引き返してきた。

「嫌なら嫌とはっきり言ってくださればいいのに、決してうんとは言わないのですから」

 急にのびてきた手が、莉璃の黒髪のひと房をつかむ。

 反射的に後ずされば、廊の壁に背を押し付けるような格好になった。

 白影は壁に両手を付き、その中に莉璃を閉じ込めるようにしてくる。


「莉璃姫、私はあなたの本音を聞きたいのです」

「では申し上げますわ。あなたにずるい、と言われて、今、とても嫌な気分になっております」

 彼の望みどおり、率直な想いを口にする。

「なぜわたくしがそのようなことを言われなければならないのでしょう?」


 ずるい。

 それは莉璃が嫌いないくつかの言葉のうちのひとつだ。

 正しくないとか、わるがしこいとか、とにかく嫌な印象を受ける。

 そう言われるようなことを彼に対して行ったつもりはないというのに、なにゆえそう評されなければいけないのか。


「納得できませんわ。あなたが勝手に勘違いをなさっているだけでしょう?」

「ですからそういうところがずるいと申し上げているのです。私のことを……誰の息子ともわからぬような私に嫌悪感を抱いたのならば、はっきりそうとおっしゃってくださればよいのに。……口では『そんなことはない』と言いながら、しかし態度にはしっかり現れていらっしゃるではありませんか」


 その瞬間、莉璃の頭の中でぶちんと、理性の糸が切れる音がした。

 それは前触れもなく、すっぱりと。

 途端に莉璃の胸中を、怒りと呆れが支配した。


 ――ああ、そうなの。どこまでも決めつけるつもりなのね。


「でしたら言わせていただくわ」

 ぐいと、白影の胸ぐらをつかんだ。

 もうどうしたって止められそうになかった。


「あの夜、あなたの口から語られた言葉で、あなたの出生についての事情や司家の現状を把握いたしました。それらを話してくださって感謝しております。けれどわたくし怒っていますわ。ええ、それはもうかなり」

「それは私が卑しい生まれだからでしょう? そのような男と結婚しなければならないのかと怒って――」

「ばかにしないで。そんな理由でわたくしは怒りませんわ」

 ぴしゃりと言い放った。

「わたくしは、白影さまが勝手にわたくしの思考や感情を決めつけ、勝手に劣等感を抱き、勝手に傷ついていらっしゃることに腹を立てているのです」

「え……?」


 白影はきょとんとした顔で目を瞬いた。

 莉璃の怒りの原因が想定外だったのか、首をひねっている。


「まずあなたが国の女人との間に生まれた庶子しょしだということ。これに関しましては、正直、わたくしにとってはどうでもよいことですわ」

「どうでも? そんなわけはないでしょう?」

「今回の結婚において重要なのは、あなたが司家の嫡子ちゃくしであること。わたくしがほう家の娘であればよい、とあなたが思うように。――ああ、正当な嫡子であるか否かは、嫡子であればよいので関係ありませんわ」


 そう。意味があるのは、あくまでその部分。

 いずれ司家の当主となる身の白影と、四星家しせいけの二の位である鳳家の娘である莉璃。

 互いの家が望んでいるのは、その二人の結婚ということなのだ。


「ですからあなたにどのような血が流れていようと、わたくしには関係ありません」

「ですが、気になるでしょう」

 白影は食い下がった。

「気高き血を持つあなたであるからこそ、そうでない私などの妻になることは、お嫌でしょう?」

「そこが自分勝手な思い込みであり、勘違いだと申しているのですわ」


 溜息を吐きつつ、白影のむなぐらをつかんでいた手を離す。


「白影さまは、思い込みが激しいわ。なぜ勝手にそうと決めつけるのですか」

「我が屋敷の侍女たちに言われたことがあるのです。いくら当主の息子とはいえ、卑しい女の血が流れている子。この家の跡取りにはふさわしくない、と」

「え……?」

「そうと知れれば将来、嫁取りに苦労するだろう、と」

「それは……本当ですの?」

 信じられなくて、つい聞き返していた。

 そんな、と、少し遅れて衝撃がやってくる。

 まさかそんなにもひどいせりふを言われたことがあるのか、と。


 少なくとも莉璃には信じられなかったのだ。

 いたわしい生まれである者に対して、追い打ちを掛けるようなことを言う口さがない連中が存在していることを。


「それは……いつの話ですの?」

「私が司家にひきとられた直後です」

 ということは彼が六歳の頃の話。


 ――だからこの方は、こんなにも。


 激しい劣等感を抱いているのだと、莉璃はようやく合点がいった。


 六歳と言えば、まだ子供。多感な時期だ。

 侍女たちの陰口は鋭い刃となって、彼の心に突き刺さったに違いない。そしてそれは、今も抜けないまま、おそらくそこにある。

 そう考えれば途端に、白影が不憫に思えてきた。


 彼の胸に刺さった言葉の刃を、どうにか抜いてやることはできないだろうか?

 そうしてあげたいと考えるが、方法がまったくわからなくて、もどかしくなる。


「ですからあなたもそう思っているのだ、と……」

 白影はふいに視線を逸らした。

「あの時の侍女たちのように、私を忌々しく思っているのだと、そう考えたのですが……」

「わたくしをみくびらないでくださいませ」


 莉璃はふたたび白影のむなぐらをつかんだ。

 それをぐいと引き寄せ、互いの鼻が触れあうような距離で、彼の琥珀色の瞳を見つめる。

 お願い、届いて。

 お願いだから、悲しい呪縛から解放されて。

 そう強く願いながら。


「わたくしは、出生や育った環境で人の中身までもを判断するような人間ではありませんわ」

 そう。そんなにも心が乏しい人間ではないと、自負している。

「莉璃姫……」

「だってそれらは、生まれた時に不可抗力的に与えられた環境ですもの」

 自分ではどうしようもないものなのだから、彼が負い目に感じる必要などまったくないのだ。


「……真面目で、強い信念があって、それを貫こうと努力もされていて」


 おそらく自分の仕事ぶりに対してはものすごく自信家であるのに、出自の劣等感からか、莉璃に対してはかなりの及び腰で。

 暴走して無理な口づけをしてしまえば、莉璃の前に顔を出すことすらできなくて。


「そんなあなたのことを、好ましく思っておりますわ」

 いつしか莉璃は、珍しく微笑んでいた。

「わたくしの結婚相手があなたでよかったと、そうも思っております」

 あくまで、わたくしが仕事を持つことを許してくださるのならば、という条件のもとですけれど。

 そう言いながら白影のむなぐらを離せば、今度は彼が、莉璃の頬に手を伸ばしてきた。


「何をなさるおつもり?」

 白影は、少し苦しげに唇を噛んで、そして深い息を吐いた。

「あなたは……あなたという方は……」

 やがて莉璃の瞳を、ひたと見つめてくる。


「……信じます」

「え?」

「あなたのことを……あなたの想いを、信じます」

 彼の指が、莉璃の唇にのばされる。

「謝罪させてください。本当に申し訳ございませんでした」

 問わなくても察しがついた。あの夜の口づけのことを謝っているのだ、と。

「あのような形であなたにふれるなんて、私はなんということを……」


 そこで莉璃は、これみよがしに不満げな表情をつくる。

「そうですわね。それに関しては大いに反省していただきたいですわ」

「またあなたの部屋にいれてくださいますか?」

「もう二度とあのようなことをしないと約束してくださるのなら」

 けれど白影は、首を縦に振らなかった。

「約束はできません。自分勝手にはいたしませんが、またしたくなるかもしれませんので」

「は?」

 それはいったいどういうことかと、予想外の答えに戸惑い、目を瞬く。

「そのような時は、してもよろしいですか?」

「な、なにを急におかしなことを……」

 莉璃は声をうわずらせた。

「それに、またしたくなるかもとは――」

 いったいなぜですの?

 そう問おうとしたが、言葉は喉の奥でかき消えた。


「この声は……圭蘭けいらん姫?」

「と、悠修ゆうしゅうですね」

 どこかから聞き覚えのある声が響いてきたからだ。

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