第3話
グラスに一杯の水。
リーフェには砂漠の中でようやく手に入れた命の水のようにも感じた。大袈裟だがそのくらい美味しかったのだ。
「ありがとうございます」
冷たい水はカラカラだった喉を潤してくれる。
「ただの井戸水だよ」
魔女の家はリーフェにとってはとても狭い場所だった。
天井からはよくわからない植物(おそらく薬草の類なのだろう)が吊るされているし、棚に入り切らなかった瓶などは家のあちこちに転がっている。
キッチンは雑然としているものの、汚れているという印象はなかった。おそらく物が多いのだ。暖炉の上には何故か牡鹿の立派な角が飾られている。
窓の傍にあるテーブルは唯一整えられた場所で、リーフェはそこに座らされていた。
「それで、貴族のお姫さんが魔女なんかに何の用かな。惚れ薬やとっておきの媚薬をご所望かい? それとも憎たらしい誰かを殺して欲しい? それならとびっきりの毒薬があるけど?」
深く被ったローブのフードから覗く口元が、にんまりと笑みを作る。
「あら、どうしてわたしが貴族の娘だとお分かりに?」
「見りゃわかるよ。上等な外出着に爪の先まで手入れされた白い手。それに加えて洗練された仕草。君をどこかの村娘だなんて誰も思うまいさ」
ぽろぽろと魔女の口から出てくる根拠に、リーフェは目を丸くした。
上等と言われたものの、リーフェが着ている外出着はこれでもシンプルなものだ。なんせ行き先は修道院だったから、持っているもののなかでもひときわ地味なものが選ばれた。
「魔女さまはそんなことも一目で分かってしまうのね。でも残念ながら、わたしはもう貴族の娘ではございませんの」
「へぇ?」
魔女が首を傾げると、ローブから黒髪がこぼれ落ちる。やはり魔女は黒い髪をしているんだな、とリーフェは変なところに感心した。
「親からは勘当されました。今はただのリーフェです」
「なら、ただのリーフェさんとやらは魔女に何を望む?」
魔女に危害を加えないもの。
魔女の力を求めるもの。
その二つの条件が揃わなければ、深き森の魔女の家には辿り着けない。
リーフェがここにいるということは、魔女に何かしらの用があったからだ。
魔女の問いに、はい、とリーフェは居住まいを正した。
「わたしを弟子にして欲しいんです」
「…………は?」
たっぷりと時間をかけてようやく返ってきた声がそれだった。
(若い方のように見えたけど、やっぱりお年を召していて耳が遠いのかしら)
「わたしを、弟子に、して欲しいんです」
リーフェは一音一音大きな声でもう一度言う。魔女はうるさそうにリーフェと距離をとった。
「聞こえてるよ聞こえた上で自分の耳を疑ったんだよ」
はあぁ、とため息と一緒に魔女は答える。
耳を疑うなんて。そんなに変なことは言っていないのに、とリーフェは不思議そうな顔をしている。
レインデルスの深き森の魔女といえば王都でも名の知れた魔女である。そんな彼女のもとにやってくるのは、なにも依頼者だけではないと思うのだが。
「……悪いけど、うちは弟子をとってないよ。暗くなる前に帰ったら?」
しっし、と犬猫を追い払うような仕草に、リーフェはまったくめげなかった。このくらいは予想の範囲内である。
「あら。帰る場所なんてありません。言ったではありませんか。わたし、勘当されたのです」
「知り合いの家に身を寄せたっていいだろう?」
「残念ながら、知り合いはほとんどおりませんし、そもそもわたし、王都には戻れませんの」
王都に戻ってもリーフェはまたあちこちから袋叩きにあうだけである。父だって修道院行きから逃げ出したリーフェを家に入れてはくれないだろう。
「戻れない? どうして?」
「話せば長くなりますわ」
にっこりとリーフェは笑顔で拒絶した。
「……それなら、お茶でも淹れようか」
(あら)
つまり長くなってもいいから話せ、ということだろうか。
魔女はフードをすっぽりと被っているからリーフェの笑顔の拒絶は見えなかったのだろう。
(……面白い話ではないのに)
話すつもりがなかったので、リーフェはちょっと困った。けれど頑なに話したくないというほどのことでもないし、王都やその近隣の街では知れ渡っている話だ。
魔女はキッチンでお湯を沸かしている。大きめのティーポットには青い染料で細やかに模様が描かれていた。ティーカップも揃いの模様である。
「素敵」
「そう? あいにく食器にこだわりはなくてね。あるものを使ってるだけだよ」
一応お客さん用ではあるけどね、と魔女は言いながらティーカップにお茶を注ぐ。すっきりとした清涼感のある香りがする。お茶の色は、ほんのりと淡いイエローだ。
「ハーブティー?」
「そう。ミントとカモミールが入ってるよ」
カップを差し出され、リーフェはありがとうございます、と微笑みながら受け取る。カップ越しにあたたかさが伝わってきて指先がぬくもる。走り回ったあとの汗で身体が冷え始めていたらしい。
「……おいしいです」
「それは良かった。知り合いの魔女が作っているお茶でね」
「まぁ、魔女さまはハーブティーもお作りになるの?」
「魔女の本業じゃないよ。これはただの趣味だ」
ただの趣味、と魔女は言い放つが、リーフェにはそのただの趣味すらない。すごいことなのに、とリーフェはもう一口ハーブティーを飲む。
「実はわたし、王都では魔女と呼ばれておりましたの」
「……魔女?」
リーフェの言葉に、魔女の声が警戒するように低くなる。男の人みたいな声だとリーフェは思う。
「ええ。このとおり、癖だらけの艶のない黒い髪ですし、赤い目は気味が悪いと言われて。その上、人付き合いも苦手だったものですから……実は魔女なんだと思われていたみたいですね」
リーフェが魔女だなんて荒唐無稽な話を、本気で信じていた人がどれだけいたかはわからないが。
「まさかそれだけで王都に居られなくなったって?」
警戒していた魔女は呆れたようにため息を吐き、自分のティーカップの中に蜂蜜をひとすくいいれた。甘党なのだろうか。
「いいえ、それはおまけみたいなものですわ。ええと……魔女さまは王都の事情に疎くていらっしゃる? ラウレンス王子のご婚約者様はご存知かしら?」
「いいや、興味ないことは聞き流すんでね」
王子の婚約者を興味がないと切り捨ててしまえるのがなんとも魔女らしい。王都では誰もが未来の王太子妃に注目していたというのに。
「ロザンネ様とおっしゃるんです。とても素敵な方ですわ。そろそろご結婚かしらと言われているんですけれど、近頃嫌がらせを受けていたようで」
ふぅん、と魔女は相槌を打つ。これもあまり興味はなさそうだ。遠い王都の見知らぬ人間がどんな目にあっていようと魔女には無関係なのだから当然かもしれない。王都に住んでいたリーフェすら、自分には関係のない話だと思っていたのだから。
「その数々の嫌がらせの主犯が、なんとわたしなんですって」
まるで明日も天気が良さそうですね、と世間話をするくらいの口調でリーフェは告げる。
「君が? やったの?」
「それが、まったく身に覚えがないんです。だってわたし、ほとんど家から出ませんし」
「……だろうね。そんな感じだもの」
「まぁ。魔女さまはそんなこともお見通しなのね」
「君はそのくらいわかりやすいってことだよ。……いや、わかりにくいかな。その濡れ衣が原因で王都にいられなくなったんだろう? それならそんな噂を流した奴らにやり返そうとは思わないの?」
なんでいろんなことをすっ飛ばして「魔女の弟子になる」なんて結論が生まれるのだろう。
魔女は魔女だから、いろんな人間を知っている。
不当な扱いに腹を立てればやり返そうとする者が多いし、大抵の人間は失ったものは取り戻そうとする。それらが途方もなく難しい時、人間は魔女に力を求めるのだ。
「やり返す? いいえ、そんなことはいたしません」
「なぜ?」
魔女の長い指が疑問を零す口元へ添えられる。
「だって、怒るのって疲れるし辛いでしょう? わたし、せっかくなら楽しく生きたいと思いますもの」
リーフェの答えに、魔女は静かに微笑んだ。
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