第35話
来た時と同じように王都の街を歩いていると、リーフェはすぐに見慣れた場所に出た。ここからなら数分で屋敷に着くはずだ。
王都の街を歩いたことなど数えるほどしかないリーフェが迷子にならずに伯爵家に帰り着くなんて奇跡的なことだ。
ただいま、とリーフェが普通に帰宅すると、使用人たちは大げさなくらいに無事で良かったと騒いでいた。
一人で出歩くなんてダメですよ、危ないですからね、というお叱りを受けながらリーフェは考える。
――カレルのところへ行きたい。
あの森で過ごしたように、これから生きていきたい。
それは紛れもないリーフェの願いであるけれど、それは同時にこの屋敷の人々と――父やヒューベルトとの別れでもある。リーフェを懸命に探してきた彼らの心を、踏みにじるようなものだ。
「……お父様はいらっしゃる?」
お説教がひと段落したところで、リーフェは使用人に問いかけた。
「少し前にお戻りになられたところです。一人でお嬢様が出かけたこともご存じですからね」
旦那様からもお叱りの言葉があるかもしれませんよという脅しにリーフェは苦笑いを零した。お叱りでは済まないかもしれないことを、これから話しにいくのだ。
コンコン、とノックをする。
部屋のなかから低い声での返事があって、リーフェは緊張しながらその扉を開けた。
「お父様」
呼びかけると、わずかに目尻の皺が深くなる。
父の表情はいつも変化に乏しくて、だからリーフェはずっと父には失望されていると、嫌われていると思っていた。今ではそのわずかな変化で彼が微笑んだつもりなのだとわかる。
「一人で家を飛び出したと聞いた」
「……申し訳ありません、いてもたっても、いられなくて」
説明になっていないのに、父は「そうか」と短く答える。それきりだった。
リーフェの突拍子もない行動に父も慣れたのだろうか。それとも帰ってきたのだからもういいと思っているのだろうか。さすがにそこまでは顔を見たってわからないので、リーフェはもう一度小さく「心配かけてごめんなさい」と告げた。心配してくれたのだろうと、思ったので。
「お話があるんです」
真剣なリーフェの目に、父は一度目を閉じた。
「座りなさい。ゆっくり話を聞こう」
目を開けて、リーフェを見つめてそう告げる。父の部屋にあるソファに腰かけて、向き合った。こうして話す機会も今まであまりなかったなと思う。
「お父様。わたし、森で迷子になって、魔女さまに助けられたわけじゃないんです」
――自分の意志で、魔女さまの家に行ったんです。
言わずにいた最初のはじまりから、リーフェは話し始めた。
修道院には行きたくなくて、それならいっそ魔女になろうと思って魔女の家に行ったこと、強引に弟子入りしたこと、そこでいろんなことを教わったこと。
父は静かに聞いていて、時折相槌を打ってはいたけれど、驚くようなことも怒るようなこともなかった。
「今の暮らしに不満があるわけじゃありません。わたしはずっと、しあわせでした。お父様に守られて、大切にされて。すれ違っていたようなこともありましたけど、しあわせでした」
でも、と続ける。
リーフェは唇を噛み、そしてゆっくりと頭を下げた。
「……親不孝な娘をお許しください。わたしは、レインデルスの森で暮らします」
すぐに顔を上げることはできなかった。
リーフェはただ静かに、父からの言葉を待った。
「――手紙は、こまめに書きなさい」
長い沈黙のあと、ようやく聞こえたのはそんな言葉だった。
弾かれたようにリーフェが顔を上げる。父は穏やかな顔をしていて、目が合うとリーフェは泣きたくなった。
「おまえは母親にそっくりだ。のんびりとぼんやりとしているのに、決めたことは絶対に曲げない」
だから、やりたいようにやりなさい、と。
そう微笑む父に、リーフェは泣きながら何度も頷いた。
*
湿っぽい別れは嫌だ。
見送ると言ってきかない使用人たちを丁重に宥めて断り、ヒューベルトには手紙を書いておいた。そして朝食の席で父には「いってまいります」と笑った。
ティルザの店に行くと荷馬車が用意されていて「カレルによろしくね」と見送られる。御者席にいるのは人形なのに、馬車は勝手に動き出した。他の人には普通の人に見えるらしい。これも魔法なのだという。
そうしてしばらく馬車に揺られていると、通常よりも少し早く森に辿り着いたような気がする。
――レインデルスの森。
深き森の魔女が住まう、神秘にして禁忌の森だ。
リーフェの手には何もない。伯爵家からは何も持ってこなかったし、ティルザが道中で食べなさいねと用意してくれたものは既にリーフェの腹の中。
そして、カレルが以前くれた鍵もないからリーフェは再び自力で魔女の家に辿り着かなければならない。
レインデルスの森にある魔女の家を訪ねたければ、ただひらすらに魔女に乞え。
どうか、どうか、拒むことなくお招きください。私は貴方に危害を加えるものではなく、貴方に邪な感情を抱くものではなく、ただただ貴方の力をお借りしたいのです、と。
でもそれではおかしい。
リーフェは別にカレルの力を借りたいわけではないのだ。彼に乞うはただひとつ。
「わたしは! お師匠さまに会いたいんです!」
森に向かって叫びながらリーフェは走る。
以前よりも体力はついたから、すぐに息切れするようなことはない。森の中に目印なんてやさしいものはないから、あの時と同じようにただただ走って魔女の家を――カレルのもとへと目指すだけだ。
木々の緑の合間にくすんだ赤い色を見つめた瞬間、リーフェは嬉しくて嬉しくて叫び出しそうになった。
(お師匠さまは誰か来たって気づいている? わたしだって気づいている? でもなんでもいい、なんでもいいから)
早く会いたい。
家の横の畑を通り過ぎる。土はしっとりと濡れていて、今日はもうとっくに水やりが終わってしまったのだとわかった。魔女の家の壁にはところどころに蔦が這い、葉を茂らせている。その少し古びた木製の扉を、勢いよくリーフェは開けた。
「お師匠さま!」
扉を開けた瞬間飛び込んできたのは、ローブのフードを被ろうとするカレルの姿だった。こんなに早く客人が到着すると思わなかったのだろう。そもそも魔女の家の扉をノックもなしに開けるような豪胆な人間なんてそうそういない。
「――リーフェ!?」
驚いたカレルの目が大きく見開かれる。
リーフェは胸がいっぱいでいっぱいでどうしようもなくて、思わずカレルの胸に抱きついた。
「ちょ、うわっ」
家に飛び込んできたそのままの勢いでリーフェに抱きつかれ、カレルは受け止めきれずに倒れた。その拍子に被りかけだった鬘もフードも落ちてしまう。
「ちょっと、なにしてんの!? なんで戻ってきたの!?」
カレルを押し倒したままぎゅうぎゅうとその首に抱きついてくる弟子に、カレルは困惑しながらも問いかける。その声が怒っているように聞こえるのはリーフェの気のせいではないだろう。
リーフェ、と急かすように名前を呼ばれたので、リーフェはそっと起き上がる。カレルの顔の両脇に手をついてその顔を見下ろした。
「お師匠さま、わたし、ここで暮らします」
「いや君、人の話聞いてる?」
きっぱりと言い切るリーフェに、カレルは呆れたような顔をした。
というかどいてよ、というカレルの言葉は聞こえなかったふりをする。だってリーフェは、ちょっと怒っているのだ。
「だって、選ぶことを教えてくださったのはお師匠さまじゃないですか!」
誰かに決められたようにではなく、自分の意志で、自分のやりたいことを。
ここでリーフェにそれを教えたのは他でもないカレルだ。だから最後までちゃんと責任をとってほしい。
「ローデヴェイグの屋敷にいれば綺麗なドレスを着られるし、豪華な食事が出てくるし、なんの苦労も知らずに生活できます。……それでもわたし、しあわせにはなれると思います」
赤い瞳でまっすぐにカレルを見つめて、でも、と続ける。
「わたし、お師匠様にハンドクリームを塗ってもらうほうが、ずっとずっとしあわせだって思ったんです。……いたらない弟子ですけど、どうか末永くおそばにおいてください」
リーフェを見上げながら、カレルは自分の手で顔を覆い、「はぁあああああ」と長いため息を吐き出した。
お師匠さま? と首を傾げるけれど、カレルの長いため息はなかなか終わらない。
指の隙間から、カレルの深緑の瞳が覗く。その瞳にどきりとリーフェの心臓が大きく鳴る。
やがて長いため息が終わると、手のひらという壁がなくなって、カレルは呆れたような表情を見せた。
それはまるで負けを認めるように。ひそかに愛を告げるように。
「……君って本当にお馬鹿さんだよね」
くしゃりと笑いながら、カレルはそう告げた。
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