第34話
王都を騒がせた一件は一夜にして収束した。
エステル・ルイーセ・プレスマンは王太子ラウレンスに怪しい薬を盛ろうとしたと捕縛され、その他の余罪も追及されたのに、ストラウク修道院に行くことになるらしい。
しかしそれらはもうリーフェには関わりのないことだ。
夜会の翌朝、リーフェはいつもの通りに目を覚まして、いつもの通りに朝食をとる。午前中には庭に出て水やりの手伝いをして、そして午後はのんびりと過ごすことになるだろう。
穏やかだ。
本当に、穏やかな暮らしだ。
こういう普通の毎日が続いていく。伯爵家での暮らしは苦労もなく危険もなく、ただリーフェをやさしく包み込むように過ぎていくのだ。
(……でも、わたしはこうして生きていくの?)
このままでも十分に満たされていると思う。
父や屋敷の皆に見守られてゆったりと過ごして、たまにロザンネとお茶をする。きっとこれから、そんなふうに自分は生きていくのだろうと容易に想像できる。
たぶん父が決めた誰かと結婚することになるのかもしれない。それとも周囲がそうなるだろうと予想している通り、ヒューベルトと結婚して伯爵家を継ぐことになるのだろうか。
そこに不満があるわけじゃない。
きっとそれでも、リーフェはしあわせになれるだろう。
(でも、足りない)
足りないのだ。
リーフェはぎゅっと拳を握りしめる。
メイドたちは昼食のデザートは何がいいですかと微笑みかけてくれるけど、リーフェはそんなことどうでもよくて。
荒れていた手はもう随分と良くなって、ハンドクリームを塗らなくてもよさそうですねとメイドたちは嬉しそうにしていた。けれど、大きな手がやさしく自分の手を包み込みながらクリームを塗る、そのときのぬくもりとふわりと香るカモミールの香りが恋しくて恋しくて仕方ない。
『……早く戻りな』
昨夜のカレルの顔を思い出しては、あれでさよならなんて嫌だと心が叫ぶ。
(会いたい。もう一度、お師匠さまに会いたい)
すっとリーフェが立ち上がると、メイドたちは驚いて目を丸くする。
「お、お嬢様?」
「ちょっとわたし、出かけてきます!」
それならお供を、それなら馬車をと慌てるメイドたちの制止を振り切り、リーフェは屋敷を飛び出した。
*
カレルは姉弟子の手伝いで王都に来ていると言っていた。それならきっと、滞在しているのもそこなのだろう。
(あの綺麗な人が紅柘榴の魔女さまで、紅柘榴の魔女さまは王都に住んでいらっしゃるはず……)
カレルもそこにいるかもしれない。問題が解決したのは昨夜の話だ。だからまだ森には帰っていないかも。
(紅柘榴の魔女さまのところへ行けば、会えるかもしれない……!)
場所なんて知らないけれど、とにかく王都のどこかに店はあるのだ。屋敷にいては会えるものも会えないのだから、とにかく外に出ようとリーフェは王都の街を歩く。
紅柘榴の魔女の店に辿り着けるのは条件を満たした者だけだ。しかしリーフェはそんなこと知らないから、王都の街のどこかに堂々と店があるのではなんて勘違いしていた。
「誰かに聞いてみたほうがいいのかしら……?」
当然それらしき店がまったく見つからずにリーフェは途方に暮れて、周囲を見回した。
しかしどうだろう。少し前から人気がさっぱりなくなってしまったのだ。道を聞こうにも誰もいないので困り果てる。
昼間の王都の街はこんなに静かなのだろうか? あまり出歩かないリーフェですらなんだかおかしいと思い始めた。
恐怖は感じない。このしっとりとした空気はリーフェも知っている。
「……森に似てる……?」
時に人を拒み、時に人を助ける。
この空気はレインデルスの森ととてもよく似ていた。周囲にあるのは煉瓦造りの建物ばかりで、木々なんてまったく見当たらない。似ても似つかない景色のはずなのに。
不思議に思いながら歩いていると、一軒の店が目に入った。看板らしい看板はない。それなのにリーフェはここだと思った。
――探していたのはこの店だ、と。
ゆっくりと扉を開けると、ドアベルがカランカランと軽快な音を奏でる。
備え付けの棚にはいろいろな物が並んでいた。瓶に入った薬草や鉱物には見覚えがあった。森の魔女の家でも見たものと同じだと思う。
「いらっしゃいませ……あら?」
奥から一人の女性が出てきた。
鮮やかな赤い髪は、昨夜見たものよりもいっそう赤く、しかしそのうつくしい顔立ちは変わらない。
「えっと……紅柘榴の魔女さま?」
「あなた、カレルの……どうしてここに?」
互いに目を丸くしながら問う。
そしてしばし見つめ合ったあとで、リーフェはカウンターの傍の席をすすめられた。
「あの、魔女さま。お師匠さまは……カレルさん、はこちらにいらっしゃいますか?」
リーフェはおずおずと問いかける。狭い店の中には当然カレルの姿はない。奥にいるのだろうか。
「ティルザよ。名前で呼んでくれていいわ。……あなた、カレルに会いに来たの? ここに?」
「こちらに滞在しているのかなと思って……」
不思議そうな顔をするティルザに、リーフェはこくりと頷いた。
ちょうどその時に奥から出てきた少女からお茶が差し出される。ふわりと香るハーブティーは、カレルのところで飲んでいたものと同じもののような気がする。
(……でも、お師匠さまが淹れてくれた紅茶とは味が違う)
茶葉はたぶん同じものだ。この少女が淹れてくれたのだろう。
「そうね、うちにいたわ。でも残念だけどもう森に帰ったの。今朝早く」
まるで逃げるみたいにね、とティルザは笑った。
「そう……そう、ですか」
ティーカップを両手で包み込みながら、リーフェは目を伏せた。
間に合わなかった。やっぱり、昨夜のうちに納得できるまで話をするべきだったのだ。
足りない。何か足りない。物足りない。心が訴えてくるそれは、カレルと一緒にいるときはびっくりするほど静かで大人しい。だからつい忘れてしまうけど、カレルと離れた途端にまた騒ぎ出すのだ。
「会いたいの?」
誘惑するような問いかけに、リーフェは顔を上げる。
ティルザは頬杖をつき、こちらを見て微笑んでいた。やさしいのにどこか魅惑的な、艶やかなのにどこか楽しげな笑みに、リーフェは頷いた。
「会いたいです」
素直なリーフェの返答に、ティルザは「ふふふ」と笑う。
「それは、会えたらそれだけで満足なの?」
再びの問いに、リーフェはぱちぱちと瞬きをした。
(会えたら)
会えるかもまだわからないのに、会えたあとのことなんて考えていなかった。
でも、会えたら。
(……満足、するの?)
だって、カレルに会えなくなると途端に胸の奥で足りない足りないと騒ぎ出すことをリーフェはもう知っているのに。
じゃあリーフェはどうしたらいいんだろう。
どうしたら、この物足りなさは埋まるんだろう。
答えは、とっくにリーフェの中にあった。
「……わたし、お師匠さまのところにいたいです」
伯爵家での生活に不満があるわけじゃない。十分にしあわせだと思っている。
けれど足りないと感じている何かは、きっとカレルのことなのだ。カレルがいないと、ダメなのだ。
リーフェの答えを聞いたティルザは「そう」と小さく笑って告げた。
「じゃあ協力してあげる。明日またうちにいらっしゃい。森まで送ってあげるわ」
「え、でも……いいんですか?」
姉弟子というのだから、ティルザはカレルに味方するものとばかり思ったのだけど。
「当然よ」
ティルザは微笑み、そして当然のことであるかのように告げる。
「だって、紅柘榴の魔女は乙女の味方だもの」
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