第19話

 まるで今生の別れのようだと、リーフェは思う。

 手を包み込んでくれていたぬくもりは去って、それが寂しい。手を離さないでいてほしいと願ってしまう。

(王都に帰る……でも、わたしはまだお師匠さまの弟子だもの)

 これは別れではない。

 会いたくなったら、また会いに来ればいい。

 そう自分に言い聞かせるのに、胸はざわつく。

「……戻ってきたみたいだね」

 窓の向こうを見てカレルが立ち上がる。

 リーフェが外を見ると、馬を連れたヒューベルトがこちらに近づいてくるのが見えた。

 窓からカレルは自分の姿が見えないように離れる。念の為にフードは被り直したが、鬘までかぶる気はないらしい。

 出迎えなければとリーフェも立ち上がり、玄関に向かう。不思議な気分だ。この家でリーフェが来客を迎えることはなかったのに、最後の最後で体験している。

「そうだ。リーフェ、鍵はまだ持ってる?」

「はい、首から下げてます」

 木苺を摘みに行く時と同じように、リーフェは紐を引っ張って鍵をカレルに見せる。着替える時ですら肌身離さず持っているものだ。

 するとカレルの手が伸びてきて、その鍵を掴んだ。

「じゃあ、返して」

「……え?」

 リーフェの口から呆けた声がこぼれた。

 カレルはしっかりと鍵を掴んだまま離さない。まるでリーフェが聞いた言葉が空耳などではないと言い聞かせるみたいだった。

「ど、どうしてですか? これがないとわたし……」

 この家に、戻ることができない。

 鍵がある限り、リーフェはレインデルスの森で迷うことはなく、確実にこの家に帰ることができるけど、それを失えばもう一度この家にたどり着けるかわからない。

 森の魔法は強力で、魔女の力を求めない者、求めていても条件を満たさない者、魔女が拒む者はことごとく弾かれてしまう。どうやってもこの場所にはたどり着けない。

「もう必要ないでしょ」

 断言するカレルの声に、リーフェは怯みそうになる。しかし鍵を掴むカレルの手を掴み抵抗した。

「必要です! なくなったらお師匠さまに会えなくなります!」

「それが正解なんだよ」

 きっぱりとカレルは言い切る。

「魔女になんて、関わらないで生きていくのが正しい」

 鼻先をかすめそうなほどの距離にカレルの顔がある。その顔は真剣そのもので、リーフェの願いなど聞き入れてくれそうにない。

「そんなこと……」

(そんなこと、言わないでほしい)

 リーフェはこの家にやって来たことを、カレルに出会ったことを、少しも後悔していない。

 それなのにカレルはまるで、魔女そのものが毒であるかのように語る。

 じわりと滲んだ涙を飲み込む。

 キッと反抗的な目でリーフェは師を見つめた。

「嫌です! 返しません!」

「悪用されても困るんだってば」

「悪用なんてしません!」

「君なら絶対なくすでしょ」

「なくしません!」

 そのあたりの信用がまったくないのはリーフェ自身もよくわかるが。

(でも、これでお別れなんて嫌……)

 ぎゅっとカレルの手を握りしめる。その手に握られている小さな鍵を渡したくないという気持ちを込めて。

「……君ってほんと、おバカさんだよねぇ」

 カレルが苦笑する。

 間近で見つめる彼の顔はとても整っているのだと、リーフェは今更になって思った。

 ほのかにやさしさを滲ませて、それでいて寂しげに笑う師の胸中を知る術はない。

「……お師匠さま?」

 どうしてそんな顔をするんだろう。

 リーフェはカレルの手を掴んでいた手を離して、カレルの頬に触れようとする。

「聞き分けのない子にはおしおきが必要かな」

 カレルは伸ばされてきたリーフェの手を掴む。鍵は離さないまま、二人の距離は相変わらず呼吸すら混じり合いそうなほどに近い。

 そのことにリーフェはまったく危機を感じていなかった。

 しかし。

 カレルの深緑の瞳が近づいてくる。もう近づけるほどの距離なんてないのに。

 心臓がきゅっと締め付けられる。呼吸が止まる。身体は魔法がかけられたみたいに動かなかった。

 唯一動く瞼を、ぎゅっときつく閉じた。

 近づく体温に身を竦ませていると、額にやわらかいものが触れる。

「……え?」

 目を開けると、微笑む師の顔が見える。

「君はもう少し警戒心を身につけるべきだね」

 いつものようにお説教みたいな助言を告げて、カレルはぽん、とリーフェの肩を押した。

 不意をつかれたリーフェは簡単に後ろへと倒れる。すぐそばにあった玄関の扉はいつの間にか開いていた。

「バイバイ、リーフェ」

 ひどくやさしい別れの言葉と共に、玄関の外に放り出されたリーフェの目の前で扉は閉まる。

 首から下げていたはずの鍵は消えている。紐が切れてしまったのか、名残さえもない。


「リーフェ?……どうしたんだ?」


 駆けつけてきたヒューベルトが尻もちをついたリーフェを助け起こす。

 リーフェはカレルに突き放されたことに呆然としていた。



 玄関の外でかすかな会話がかわされる。そうしてしばし二人が動かない気配があったが、数分後には人の気配も消え、窓の向こうで馬と共にリーフェとヒューベルトが立ち去ったのを確認した。

 それから息を潜め、ただ魔女の家のそばから人がいなくなったことを確認する。かつてのように、カレルは一人になった。

「……思ったより、突然だったなぁ」

 息を吐き出して、ぽつりと呟く。

 いずれやってくる別れだとは思っていたが、いざその時になるとあっという間すぎて、カレルも少しは困惑する。

 辛くはない。

 元に戻っただけだ。

 そう思うのに、一人いなくなった空間は今まで以上に静かだった。

 足元に置かれた籠に気づく。そこには真っ赤な木苺がたっぷりと入っていた。それを見て思わずくすりと笑う。

「ほんと、食い意地がはってるなぁ……」

 きっとリーフェはタルトもパイも食べたくてたくさん摘んできたんだろう。

 しゃがんで一粒口の中に放り込み、咀嚼する。

「……甘酸っぱ……」

 記憶にある木苺は、こんなに酸っぱくなかったはずなのに。

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