第14話

 ベッドの端に腰掛け、リーフェは結んだままだった髪をほどく。不器用な手つきでくせっ毛の黒髪に櫛をとおすけど、相変わらず変な方向にはねていたりしていた。


(お師匠さまの作ったアップルパイ、美味しかったなぁ……)


 昼に食べたアップルパイの味を思い出して、リーフェはうっとりとした。

 さくさくしたパイはもちろん、林檎は甘酸っぱくて、口に入れるとしあわせな気持ちになれた。

 まだ半分くらい残っているよ、とカレルは言っていたけれど、一度にたくさん食べるのはどうなんだろうと我慢した。だって昼食もしっかり食べたあとだったし。

 残りはきっと明日のリーフェが食べることになるだろう。

 今日、はじめて買い物をした。

 賑やかな通りも、たくさん並んだ商品も、リーフェは知らない。まるでまったく違う世界に迷い込んだみたいだった。

(ここに来てからは、いつもそんな気持ち)

 ふふ、とリーフェは笑う。

 右も左も分からないところにいるようなものなのに、不思議と不安はない。

 まだ自分で支払いはしていないけど、教えてもらったので次はできる、と思う。

 買い物を一人でできるようになればきっとおつかいにもいける。おつかいに行けるようになったらもっとカレルの役に立てるようになるだろう。

(……はやくお師匠さまの役に立ちたいな)


 夜、眠る前はなんだかいつもさみしい。

 けれどしあわせなことを思い返せばさみしい気持ちは薄らいでいく。

 さみしさはいつだって人を弱くするからいけない。


 ベッドに横になると、リーフェは布団の中で丸くなる。伯爵家にいた頃と比べたら粗末なベッドだし、寝心地は良くない。

 けれど陽だまりの匂いと、かすかに香るハーブの香りがリーフェはとても気に入っていた。

 今夜は月もないから夜の闇はいつもより濃い。

 早く朝が来ればいいのにと思いながらリーフェは目を閉じた。



 リーフェは小さい頃からどんくさい子どもだった。

 ちょっと歩いてはすぐに転ぶし、話しかけられてもすぐに返事はできないし、たくさんの人たちがいるところでは会話にまざることも苦手で、いつも一言も話せないままだったりする。

 それでもリーフェはがんばっていた。

 綺麗にお辞儀できるように、噛まずに挨拶できるように、何度も何度も練習した。

 けれど本番では一度もうまくいったことがない。

 緊張して、心臓がびっくりするくらいに暴れて、気がつけば自分の名前すらうまく言えずに相手は苦笑いを零している。

『リーフェは人一倍のんびり屋さんなんだよ』

 従兄のヒューベルトは失敗してばかりのリーフェをいつも慰めてくれた。

『それは悪いことじゃないから、自分を責めなくていい。リーフェはそのままでいいんだよ』

 彼だけは、リーフェがたどたどしく話しかけても怒らないし嫌な顔をしないから、安心して話しかけられた。

 母親はとうに亡くなっていて、父親は忙しくてリーフェにはほとんどかまってくれない。

 リーフェにとってヒューベルトが誰より身近な家族だった。


 七歳の時だった。

 城では年に一、二度、幼い令嬢たちを集めた茶会が開かれた。まだ社交界には参加できない幼い令嬢たちの交流を深めようというもので、伯爵令嬢であるリーフェにも招待状が届いていた。

『聞いたよリーフェ。今度の城でのお茶会は、ラウレンス王子もいらっしゃるんだってね』

『……そうなんです。だからリーフェは、あまり行きたくないです』

 ヒューベルトに茶会の話題を出されて、リーフェはわかりやすく表情を曇らせた。

 あまり社交的ではないリーフェでも、城から届いた招待状を嫌だと拒む勇気はない。いつもひっそりと息を殺して、失敗だけはしないようにと自分に言い聞かせて過ごしていた。

 しかし次の茶会、王妃と王子が参加するともなれば、他の令嬢たちはきっとそれはそれは気合いをいれてやって来るだろう。

 たくさんの人がいる場所というだけでも苦手なのに、さらに緊張する要素が加わってリーフェは真っ青だった。


『何も印象に残れとは言わない。王妃様とラウレンス王子にきちんと挨拶さえしてくれば、それでいい』


 父はそう言った。

 なんと優しい言葉だろうか。

 きっと普通の令嬢ならばもっとたくさんのことを望まれるに違いない。しかしリーフェはただちゃんと挨拶さえできればいいのだ。

 それくらいなら、とリーフェも思った。

 それくらいならいくらどんくさい自分でもできるはずだ。前の晩は何度も練習して、笑顔を添えることができればと鏡の前で笑う練習もしてみた。

 しかし現実はそんなに甘くない。

 リーフェは王妃と王子に挨拶する時に盛大にすっ転んだ。

 それだけではない。

 近くのテーブルに足を引っ掛けたせいで、上に乗っていたお菓子は宙を舞い、挙句グラスに注がれていたらしいブドウジュースを頭からかぶり、ドレスはジュースのせいでまだら模様。恥ずかしくて顔をあげられなかったし、その場にいた令嬢たちはあんまりにも悲惨な有様に呆然とするかくすくすと笑うかどちらかだった。

『なぁにあの子、ひどい有様よ』

『どの家の子なの?』

『王妃様や王子様の前でなんてみっともない』

 その後リーフェはどうやって挨拶して家に帰ったのかさっぱり覚えていない。頭の中は真っ白だった。


 家に帰ったリーフェを待っていたのは、厳しい顔をした父だった。

 ごめんなさい、とリーフェはすぐに謝ろうと思った。

 きちんと挨拶できなくてごめんなさい。

 お茶会をめちゃくちゃにしてごめんなさい。

 失敗して、何一つうまくできなくてごめんなさい。

 それらは父のため息が聞こえると喉の奥に引っ込んでしまった。

『……おまえはもう、家で大人しくしていなさい』

 失望という感情を声にしたとき、きっとこんな声になる。

 リーフェは胸の前で自分の手をぎゅっと握り、小さく頷いた。

『……はい、お父様』

 どうせがんばっても失敗するから。

 リーフェはただ大人しくしていればいい。

 ローデヴェイグ伯爵家は従兄のヒューベルトが継ぐことになっている。父やヒューベルトの判断次第だが、おそらくはリーフェと結婚して婿養子という形になるのだろう。

 リーフェは何もしなくていい。

 ただ言われた通りに大人しくして、家からあまり出ないで、誰かに迷惑をかけないようにしていればそれでいい。


 けれどなぜだろう。

 大人しくしていたのに。

 誰にも迷惑をかけなかったのに。

 リーフェはあっという間に濡れ衣を着せられて、気がつけば実の父に王都から追い出されている。

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