第1章 魔女に弟子入り
第1話
馬車はとっくの昔に王都を離れ、国境近くのストラウク修道院へと無慈悲に向かっている。
馬車に乗っているのは一人の少女と、修道院までの見張りも兼ねた侍女が一人。
今回のためだけに雇われた侍女は愛想がない上、仕事が雑だった。ローデヴェイグ伯爵は、不出来な娘のために余計な金は一銭も使いたくないらしい。
(それもそうよね……今回の件で、お父様には随分と迷惑をかけてしまったし、ローデヴェイグ家の評判も落ちた)
リーフェは、王都ではとんでもない悪女と噂されている。
王太子であるラウレンスの婚約者であるロザンネ・エヴァ・メーヴィス――メーヴィス公爵令嬢に対する、あらゆる嫌がらせの黒幕がリーフェなのだそうだ。
ロザンネはとても美しい令嬢だ。雪のように清らかな白銀の髪、神秘的な紫紺の瞳。ラウレンス王子とは幼なじみで、二人が幼い頃に婚約したのだという。
ロザンネは立場に甘えることなく己に厳しく周囲には聖母のようにやさしい娘で、誰もが未来の王太子妃として期待している。
そんな噂を、若干引きこもりがちなリーフェですら聞いたことがある。たぶん従兄のヒューベルトあたりが話していたのだろう。
リーフェにとっては関わりのない話だ。伯爵家の娘とはいえ、癖の強い黒髪はどんなに手入れしても綺麗にまとまらないし、赤い瞳は気味が悪いと怯えられる。母親が早くに亡くなってしまったからオシャレにも疎く、いつだって流行遅れのドレスを着ていたので友人はおろか知人すらいない。
舞踏会もお茶会も、リーフェにとっては居心地の悪いもので、気づけばあまり参加しなくなっていた。
それがいけなかったのだろう。
リーフェはこれまで人の悪意を知らなかった。貶めようとする人間がいるなど思わなかった。
知り合いがほとんどいない、味方もいない。リーフェのことを詳しく知る人は身内のみ。そんなリーフェは、悪の象徴として仕立て上げるにはちょうど良かったのかもしれない。
リーフェはメーヴィス公爵令嬢への暴行脅迫名誉毀損……あらゆる容疑をかけられた。
それらはどれも口を揃えて令嬢たちがリーフェがやったと証言したものの、何一つ物的な証拠がなかった。かつ、ロザンネ嬢自身がリーフェは無関係なのではと口添えしてくださったと聞いている。本当に清らかで気高いお人である。
結果的に、リーフェは証拠不十分でどうにか罪人とはならなかった。
しかし、父であるローデヴェイグ伯爵は娘を見限った。
『おまえはストラウク修道院に行きなさい。落ち着くまで戻ってくることは許さない』
はい、とリーフェは静かに頷いた。
それは、事実上の勘当、そして王都からの追放だった。
ストラウク修道院は国境近くにある修道院だ。深い森のさらに奥、隣国との間にある岩山の中に建てられたもので、古くから罪を犯した貴人が、死ぬまで閉じ込められる天然の牢獄である。
ストラウク修道院から戻ってきた者はいない。
厳しい規律のもと、ただただ静かに一生を終えるための檻だ。
……だが、リーフェはそんなところに行かなければならないほどのことをやっただろうか?
答えは否、である。
何もしていない。
リーフェは本当に何もしていないのだ。
しかし噂は尾ひれどころか背びれまで生やして一人歩きして、リーフェが何度否定の言葉を口にしても人々は「白々しい」と眉を寄せた。
何を言ったところで信じてもらえなかった。
リーフェはもともと口下手で人付き合いが苦手で、すっかりリーフェが諸悪の根源だと思い込んでいる人々を納得させられるような弁解などできるはずもなかった。
だからリーフェは誤解を解くことは諦めた。
けれど悪役にされようが追放されようが、それらは何ひとつとして、自分の人生を諦める理由にはならない。
馬車の小さな窓から見える景色が緑一色になっていた。
それもあと一時間ほどしたら岩山の雄々しいものへと一変するのだろう。
「……ねぇ、ちょっと、ごめんなさい?」
今までほとんど口を開かなかったリーフェは、おずおずと侍女に声をかけた。
「なんでしょう?」
侍女の声は冷たい。きっと北国に降り積もる雪だってもうちょっとあたたかく感じるだろう。
「気分が悪いの。馬車に酔ったんだと思うんだけど、少し休めないかしら……?」
「もう少し我慢していただければ修道院に着きます」
「でも、これから道はもっと荒れるのでしょう? 修道院の方々に会って早々、失礼があってはいけないわ。お父様の顔にも泥を塗ってしまうもの。少しでいいから、馬車を止めて休ませてくださらない?」
父や修道院のことを口にすると、侍女はしかめっ面になりながらも「仕方ありませんね」と折れてくれた。それもそうだ。彼女はリーフェを送り届けたら王都に戻る身。何かあった場合の非難はすべて彼女に浴びせられる。
侍女が声をかけると、馬車は止まる。リーフェが声をかけたところで御者は馬車を止めない。立場としては伯爵令嬢であるリーフェが上のはずなのに、まるで囚人だ。
(まるで、ではなくて、囚人そのものね)
内心苦笑しつつ、リーフェは馬車を下りる。
癖の強い黒髪は侍女が適当に梳いただけで仕事を放棄してしまったので下ろしたままだ。俯くといい感じに影を作るので顔色も悪く見えるだろう。
御者もずっと手綱を握っていたので疲れているのだろう。森の空気を思いっきり吸いながら腕を回したり腰を捻ったりしている。
近くには川もあった。泳いでいる魚が見えるくらい水が澄んでいる。
「あそこまで行ってもいいかしら? きっと水辺は空気がいいからすっきりすると思うわ」
「……落ちないように気をつけてくださいね」
リーフェが落ちてしまったら、出発がさらに遅れてしまう。御者や侍女は一刻も早くリーフェを修道院に送り届け、こんな森を抜けたいのだろう。
ここはレインデルスの森。
深き森の魔女が住まう、神秘にして禁忌の森だ。ストラウク修道院へ行くにはどうやってもこの森を通過しなくてはならない。
(別に、そんなにおどろおどろしい雰囲気ではないけど……)
リーフェは王都の屋敷を出たことがないので森がどんなところか知らなかったけれど、話に聞いていたような恐ろしい場所には見えなかった。
木漏れ日はキラキラしていて綺麗だし、空気は澄んでいてとても心地いい。
「……あの、荷物の中に酔い止めの薬があったはずだから、取ってきていただけるかしら? それを飲んでもう少し休めば大丈夫だと思うの」
「わかりました」
真顔のまま侍女は馬車へ引き返す。
川のそばまでやってきたリーフェの姿は、御者には見えない。リーフェの言った酔い止めの薬は、荷物の奥の奥へと隠すように入れておいたから見つけるのに時間がかかるはずだ。
(……騙してごめんなさい!)
リーフェは心の中で謝ると、木が多く茂る方へと走る。足音をたてないように細心の注意を払い、馬車が見えなくなるまで離れると全速力で走った。
きっと誰もが、リーフェが逃げ出すとは思っていなかった。
生まれてから十七年、誰にも逆らわず誰とも競わず、ただひっそりと流されて生きてきたような娘だ。
けれどリーフェにだって嫌なものはある。
やってもいないことで、これから先死ぬまで修道院で寂しく暮らすなんてあんまりだ。
リーフェ・ラウラ・ローデヴェイグは実は魔女なのだそうだ。
陰気なこの容姿のせいで、そう言われていたことは知っている。もちろんリーフェは魔女ではない。
けれど。
(修道院に行くくらいなら、魔女に弟子入りして本物の魔女になるほうがずっと楽しそうだわ!)
リーフェは走った。
レインデルスの森にいるという、深き森の魔女に会うために。
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