第2話
レインデルスの森にある魔女の家を訪ねたければ、ただひたすらに魔女に乞え。
どうか、どうか、罪なき私をお招きください。私は貴女に危害を加えるものではなく、貴女に邪な感情を抱くものではなく、ただただ貴女の力をお借りしたいだけなのです、と。
本当かどうかもわからない噂話だが、今のリーフェは信じる他なかった。
走りながらひたすらに願う。
(どうか、わたしを招いてください。どうか、わたしを助けてください)
全力疾走なんて人生初だった。伯爵令嬢としてそんなはしたない真似をするわけにはいかないし、リーフェはほぼ引きこもりのような生活をしていたので運動なんてほとんどしたことがない。
走り慣れていない足はすぐにがくがくと震え出したし、外出用のワンピースは汗でじっとりと湿っている。ドレスなんて着ていたらとてもじゃないが走れなかった。
息が苦しい。肺が痛くなってきた。
それでもリーフェは足を進めた。時折振り返ってみては、御者や侍女の姿がないか注意を払う。もうとっくに彼らはリーフェがいなくなったことに気づいているだろう。
もし見つかって連れ戻されてしまえば、ストラウク修道院はより強固な檻になる。修道院内でさえ監視がつくかもしれない。それはなんと窮屈な生活だろう。
(そんな生活はいや)
今までリーフェは何不自由なく生きてきた。
彼女の生活はローデヴェイグ家の者たちによって常に居心地がいいようにと整えられていた。
与えられているものに満足していたし、必要なもの、あったらいいなと思うもの、それすら考えることもなく当たり前に何もかもある生活がどれだけ恵まれていたのか、リーフェはわかっているつもりだ。
だからリーフェは死ぬまで『ローデヴェイグ家の娘』であろうと思った。
整えられた環境が鳥籠であると知っていながら気づかないふりをして、父に従順であれと自分に言い聞かせてきた。それが自分に課せられた生き方だと信じて。
しかし王都を追い出され、監獄のような修道院に入れられるのに、どうしてリーフェはまだ父の言う通りにしなければならないのだろう。
だってもう、『ローデヴェイグ家の娘』ではないのに。
「どうか、お招きください。何も持たぬ非力な娘をお助けください。わたしはただ――」
ただ、あなたの弟子になりたいだけなのです。
祈るようにリーフェは小さな声で呟いた。心の中で願うだけでは足りないような気がした。
人々は魔女を恐ろしい存在だと言う。
奇妙な術を使って人の心を惑わしたり、人里離れた土地に住み妙な実験をしていたりするのだという。
愛する人の記憶を奪う薬、人を一瞬にして魅了する薬、聖人のように清らかな人が狂うような劇薬。それらはちっぽけな人間の一生を簡単に狂わせてしまうものだ。
普通の薬師では作ることができない、魔女の秘薬。あるいは、魔女の劇薬。
リーフェは魔女が恐ろしいとは思わなかった。
ただの人のほうがよほど恐ろしい。今回の一件で、リーフェは嫌というほど実感した。己の保身のため、あるいはただの好奇心のため、はたまたお節介すぎる正義感から――人は罪もない人間を極悪人に仕立て上げることができるのだ。
武器を作る人に罪はなく、武器を使って罪を犯した者が悪い。
ならば魔女のことを、悪者だとは言えないのではないか。
「……あら?」
疲れ果て、走るというよりはずるずる足を引きずるようにして歩いていたが、木々の緑の合間にくすんだ赤い屋根が見えた。
レインデルスの森に住むのは、深き森の魔女だけだ。森の入口近くなら木こりの小屋があるかもしれないが、ここは随分奥まで進んだ場所である。
リーフェの赤い瞳は喜びでいっぱいになり、キラキラと輝いた。ここまでの疲れなんて一瞬で吹き飛んでしまいそうな気がした。
すっかり軽くなった足取りで(実際には全然軽くなっていないし相変わらず足は引きずっていたが)リーフェは家に近づく。
それほど大きくない、けれど魔女一人が住むには十分すぎるほどの家だった。
壁にはところどころに蔦が這い、まるで家を守るように葉を茂らせている。木製の扉には特に『魔女の家』とわかるような目印はない。
家の傍には畑があり、春を過ぎたこの季節、にょきにょきと地面から葉っぱが顔を出している。リーフェにはあれがなんの野菜なのかわからない。
意を決して扉をノックする。
返事はない。
(……お留守、なのかしら?)
もしかしたら森の魔女は耳が遠くて聞こえていないのかもしれない。リーフェはもう一度ノックした。
「すみません。こちらは深き森の魔女さまのお宅で合っております?」
いつもよりも大きめの声でリーフェは家の中に声をかける。返事はなかった。
(やっぱりお留守? でも畑には誰もいないし……)
森のどこかにいるのなら、リーフェが探し回っても見つからないだろう。このまま玄関先で待たせてもらおうかと、ずるずると座り込む。
思い出したかのように走り続けてきた疲れが蘇ってきた。
こんなところに座り込むなんて、とリーフェは笑う。きっと父や家の使用人たちが見たら顔を顰めるか真っ青になるかのどちらかだろう。
でももういいのだ。リーフェは伯爵家とは無縁のただの小娘だから。
ふふ、とリーフェが笑った時だった。
ガチャリ、と寄りかかっていた扉が開く。
そのまま後ろに転げそうになったリーフェの背中は、誰かの足にぶつかった。誰かといっても、ここにはおそらく一人しかいないだろう。
「……あら、ごきげんよう。森の魔女さま」
見上げた先にいたのは思っていたよりも若そうな魔女だった。森の緑よりもより深い緑色のローブをすっぽりと被り、下から見上げているリーフェにすら顔はよく見えない。
「……珍しいお客さんだね。うら若きお嬢さんが魔女になんの用?」
声は思っていたよりもずっと低めだった。でも心地いい低音を、リーフェはすっかり気に入った。
「話せば長くなるのですけど――とりあえず、お水を一杯いただけないかしら?」
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