第4話 チャンス到来の予感

 その日の昼休み、ひとは学食の隅っこの席に、ひとりぽつんと座っていた。


「お、おい。

 あそこに座ってるの、冬月ひと花だ」


「ほんとだ。

 はぁぁ、相変わらず綺麗だ……。

 目の保養になるなぁ」


 男子たちがそわそわしている。


 学校で一番と言われるほどの容姿を持つ彼女は、ただ座っているだけでも周囲の注目を集めてしまう。


 それにひと花が食堂にひとりでいる姿は珍しい。


 彼女が学食にいる場合は、大抵はクラスメートで仲の良い山田亜美や豊崎裕子ゆうこらと一緒に、昼食を摂るときだ。


 だがこの日ばかりは、ひと花は誰かと談笑する気になれず、友人らの誘いを断わってひとりで食堂までやってきたのだった。


「…………」


 長机の一番端に陣取ったひと花は、注文の列に並ぶ生徒たちをぼんやりと眺めつつも、心ここに在らずといった様子だ。


「……ふぅ」


 ため息まじりに頬杖をつく。


「はぁぁ……」


 知らず識らずのうちに、またため息が漏れた。


 いまのひと花は、いつになく物憂げで色っぽく、男子生徒たちの視線を普段にもまして釘付けにしていた。


 それどころか女子生徒までもが、凛々しげな日頃の彼女と、いまの彼女のギャップに頬を赤らめている。


「見て見て、冬月先輩よ!

 かっこいい……。

 アンニュイな雰囲気がよく似合うわねぇ……。

 憧れちゃう」


 1年生の女子たちが、キラキラと瞳を輝かせてひと花を見ている。


 だがそんな生徒たちの視線など、いまの彼女は気にもならなかった。


 彼女が考えるのは、優希のことだけだ。


 ひと花はいま、とても落ち込んでいた。


 ◇


 ――あの告白のことは忘れてくれっ!


 昨日優希に言われたその言葉が、ずっと耳から離れない。


 何度も何度も頭のなかで同じ台詞がリフレインしては、彼女の気持ちを沈ませる。


「はぁぁ……」


 ひと花はつややかな黒髪が乱れるのも構わず、テーブルに突っ伏した。


 髪先を指で弄りながら、小声で呟く。


「こんなに私の心をかき乱しておいて……。

 いまさら、そんなこと……」


 忘れろと言われても、忘れられるわけがない。


 ひと花が優希を想う気持ちは、そんなに弱いものではないのだ。


「うぅ……。

 春乃くんは、ひどいわよ……」


 いや、本当にひどいのは優希ではない。


 ひどいのは自分のほうだ。


 そう思い直して、またため息をつく。


「なんで私って、いっつもこうなんだろう……」


 テンパって告白を断ったことも。


 その後の素っ気ない態度も。


 こんな風では、自分が優希を嫌っていると思われても仕方がない。


「……気持ちを切り替えなきゃ」


 だが、しでかしてしまった失敗は、もう仕方がない。


 そんなことでいつまでもくよくよしているより、もう一度優希を振り向かせる努力をしたほうがずっと建設的だと、彼女は思い直す。


 幸い自分たちは隣の席同士なのだし、母親の再婚のおかげで、これから彼と接する機会はますます増えていくはずだ。


 チャンスを伺い、なんとしてでも優希とお付き合いしてみせる。


 ひと花は割と前向きな女だった。


「……よし!

 もう落ち込むのはやめる!」


 突っ伏していた身体を起こし、席を立ってから、彼女はお昼ごはんの列に並んだ。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 その日の夜、ひと花は自宅で夕飯の準備をしていた。


 といっても冷凍食品をレンジで温めるだけである。


 実はひと花は、料理が苦手なのだ。


 学校では才色兼備などと謳われている彼女は、たしかに見目みめも頭も良く、人当たりも柔らかで、運動もできる。


 だがそれはあくまで彼女の一面に過ぎず、実際のひと花は家事全般が苦手で手先も不器用だし、精神的にもまだ幼いところのある、普通の女子高生であった。


 ――チン。


 電子レンジがなる。


 お茶碗にご飯をよそい、インスタントの味噌汁にお湯を注いでから、温めた冷凍食品とスーパーで買ったお惣菜をテーブルに並べていく。


「いただきます」


 手を合わせてから、ひと花は晩ごはんをもそもそと口に運んだ。


 やっぱりこんな食事はどこか味気ない。


 以前食べさせてもらった、優希お手製のお弁当の味を思い出したりしながら、ひとり侘しく食事をする。


 ◇


 ガチャリと玄関の鍵が回される音がした。


 巴が帰ってきたようだ。


「ただいまぁ。

 はぁ、今日も疲れた、疲れた」


 仕事から帰宅した巴は、肩をとんとんと叩きながら食卓へとやってきた。


「お帰りなさい、お母さん。

 こんな時間に帰ってくるなんて、珍しいね」


 いまの時刻は18時半過ぎ。


 巴はひとりで小さな喫茶店を経営していて、店は営業時間が20時までだから、閉店後の後片付けなんかをしていると、いつも彼女の帰宅時間は21時頃になるのだ。


「ええ。

 ちょっとやることがあるから、お店早く閉めちゃったの。

 それより、ひと花。

 お母さん、お腹空いちゃったぁ」


 巴はテーブルの上の晩ご飯を眺めて、お腹を押さえる。


「はいはい。

 じゃあお母さんは、そこ座ってて。

 冷凍食品とインスタント味噌汁でいいよね」


「うふふ、ありがと。

 やっぱり持つべきものは、親孝行な娘よねぇ」


 母娘ははこふたり、食卓に向かい合って食事を始めた。


 巴が喫茶店での苦労話を語り、ひと花が学校での出来事なんかを楽しげに話していく。


 彼女たちの普段の風景だ。


 ふと会話が途切れたときに、巴が切り出した。


「ねぇ、ひと花。

 ちょっとお話があるの」


「なに?」


「んっとね。

 お母さん、ちょっと迷っていて、まだ言ってなかったんだけど……」


 巴がこほんと咳払いをした。


「……寛さんが海外赴任になるの。

 ほらあの人、大手のゼネコン勤務でしょ。

 なんでもドバイで、人工島の造成に関わることになったらしくてね。

 お母さんにもついてきて欲しいって……」


「……へ?

 あ、そうなの。

 ん?

 ――ええ⁉︎」


 ひと花が茶碗と箸を持ったまま固まった。


「そ、それでどうするの⁈」


「ひと花もまだ高校生だし、私もお店を畳むわけにいかないでしょう?

 だから最初はいかないつもりだったんだけど……」


 巴が頬に手のひらを添え、うっとりし始めた。


「……んふ。

 寛さんってば、『俺には、君が必要なんだ!』なんて凄く熱烈に誘ってくるし。

 きゃあ、きゃあっ♡」


「ふ、ふーん……」


 いい歳をしてはしゃぎ、悶えはじめた母を冷めた目で見つめながら、ひと花は続く言葉を待つ。


「それにね。

 寛さんが、お店のことは任せておけって太鼓判を押すものだから、お母さんとしてはついていきたいなぁって。

 あ、もちろん、ひと花が反対しなければよ?

 それで、……どうかしら?」


「ど、どうって言われても……」


 急に尋ねられたひと花が、困り顔になる。


「もし……。

 もしお母さんが海外に行っちゃったら、私はどうなるの?」


「日本に残ることになるわ。

 でもこのマンションは賃貸だから解約になるわね。

 寛さんがね。

 いずれ家族になる相手なんだし、ひと花もうちにおいでって。

 だから、えっと……。

 しばらくは、優希くんと二人暮らしになるかしら」


 ひと花の耳がピクッと動いた。


「……は、春乃くんと……、ふたり暮らし⁉︎」


「あら、嫌?

 優希くんいい子じゃない。

 誠実そうだし、物腰も落ち着いて穏やかだし」


 もちろんだ。


 そんなことは母に言われずとも、とうに知っていると、ひと花は思う。


 加えて語るなら、彼はかっこよくて優しくて、そんじょそこらの男なんて相手にならないくらい魅力に溢れている。


「ぐふ。

 春乃くんと……、二人暮らし……。

 ふたり、きり……。

 学校から帰っても、いつも一緒……」


 なんて素晴らしいのだろう。


 妄想が止まらない。


 きっとそれは夢のような毎日に違いない。


「ひ、ひと花……?

 どうしたの、あなた。

 急にニヤニヤしだして、怖いわね。

 あ、よだれ垂れてるわよ?」


「うへ。

 うへへ……。

 はっ⁉︎」


 さきほど悶えていた自分を棚にあげ、巴が眉を潜めて愛娘を眺める。


 この親にしてこの子ありである。


 妄想から引き戻されたひと花は、テーブルにバンと手をついて立ち上がった。


「ど、どうしたのよ、ひと花?」


 不気味な様子に、巴は引き気味だ。


 だがひと花はそんな母の様子など気にも止めず、唇の端のよだれを袖で拭ってから、ぱあっと花が咲くような朗らかな笑顔で告げた。


「いってらっしゃい、お母さん!

 留守は、私に任せておいて!」

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