第7話 ふたり暮らしの幕開け

 朝になった。


 親父と巴さんが旅立ちの身支度を整えてから、リビングに俺を呼び出す。


 ちなみに冬月も呼ばれたのだが、2階の自室から降りてこない。


「ふぅ……。

 まったく、あの子にも困ったものねぇ。

 私はともかく、寛さんの見送りにもこないなんて」


「まぁまぁ巴さん。

 色々なことが急に起こり過ぎて、ひと花ちゃんもまだ混乱してるんでしょう」


 頬に手のひらを添えてため息を吐く巴さんを、親父が宥める。


「それはそうと、優希。

 ちょっと話しておきたいことがある」


「なんだ親父?」


「俺たちがドバイに行っている間のことだ。

 前に話してある通り、だいたいのことは那月にお願いしてある。

 学校、税金、その他諸々な。

 だが緊急の場合は、俺に国際電話してこい。

 急ぎでない困りごとなら、取り敢えずは、まず那月に相談しろ」


 秋山あきやま那月なつき


 彼女はまだ若いながらも、都内の高級商業地に自分の店を構える一流の料理人で、俺の従姉いとこだ。


「那月さんかぁ……。

 そういえば、結構長い間会ってないなぁ」


 最後に会ったのはいつだったか。


 たしか小学校の卒業式以来、会ってない気がするけど、那月さんは俺のことを弟みたいに可愛がってくれていた。


「あと、巴さんの喫茶店をお願いする」


「……ん?

 それはなんの話だ」


 親父が変なことを言い出した。


 思わず首を傾げていると、巴さんが話を引き継いで、説明を始める。


「私が経営してきた小さな喫茶店があるの。

 ここからそう遠くはないわ。

 戻ってくるまでの間、そのお店を優希くんとひと花のふたりで切り盛りして欲しいなって」


「……は?」


 思わず間抜け面を晒してしまう。


「放課後だけでいいんだ。

 お前もひと花ちゃんも、部活動はしていないだろう」


「い、いや、そんなこと急に言われても。

 俺、どうやって喫茶店をやればいいのかなんて、全然わからないんだけど……」


「その辺りは大丈夫よぉ。

 だいたいはひと花が知ってるから!

 でもまぁあの子は手先が不器用だから、コーヒーの1杯も満足に淹れられないんだけどねぇ」


「ははは。

 その点は大丈夫ですよ。

 こう見えて、うちの優希は手先が器用で料理もできる」


 当人たる俺をほっぽって、目の前で親父が笑いながら安請け合いをしている。


「いやいやいやいや!

 そんな簡単じゃないだろ。

 それに管理者?

 責任者?

 食べ物を扱う店って、そういうのがいるんじゃないのか。

 あと火元を管理する人間とか」


「防火管理者のことね?

 それはたしか30人以上座れるお店だと必要だと思うのだけど、うちのお店はそんなに入らない小さなお店だから大丈夫なの」


「あとは、食品衛生責任者だな。

 なぁに心配は無用だ。

 それも那月のやつに頼んである。

 いやぁ、持つべきものは頼り甲斐のある姪だなぁ。

 はっはっは!」


 呆れてものが言えないが、そういえば親父はこんな人間だった。


 楽観的というか、こうと決めたら準備もそこそこに突っ走り始めて、それでも後から成果を追いつかせてしまうような、そんな生きざまをしている。


 それに巴さんも、親父の再婚相手だけあって、なかなかの放任主義らしい。


「とにかく任せたぞ、優希」


「お願いね、優希くん。

 はいこれ、お店の鍵よ。

 あと……」


 巴さんがリビングの出入り口に顔を向ける。


「……ひと花!

 隠れてないで、出てらっしゃい」


 ドアの裏側に潜んでいた人影が、ビクッと震えた。


 どうやらいつの間にかやってきた冬月が、隠れて聞き耳を立てていたようだ。


「そういうわけだから、ひと花。

 優希くんとふたりで、お店のこと頼んだわよ。

 ほら、返事なさい」


「……ん。

 わ、わかった」


 どうやら冬月はやる気のようだ。


 となると喫茶店についてこの場で反対しているのは、俺だけということになる。


 ちょっと考えてみた。


 ◇


 冬月ひと花との喫茶店経営……。


 俺が厨房でコーヒーを淹れ、料理をつくり、ウェイトレス姿の彼女が、接客をする。


 冬月は普段のあの落ち着いた人当たりの良さで、笑顔だ。


 彼女にはきっと、黒と白の制服がとても似合うと思う。


 あの艶めくロングの黒髪は、仕事の邪魔にならないように結いあげたりするのだろうか。


 髪を下ろしているところしか見たことはないけど、どんな姿でも冬月は、綺麗に違いない。


 高校のやつらには、喫茶店のことは秘密にしないとな。


 いやでも店は学校からそんなに離れてないし、誰か見知った生徒が来てしまったらどうしよう。


 ……まぁ、なんとかなるか。


 忙しい時間は、冬月とふたりで助け合って働く。


 そしてお客さんの少ない時間帯なんかは、カウンター席に座って休憩している彼女に、淹れたばかりの香り高いコーヒーを、すっと差し出してやったりするのだ。


 冬月もカウンター越しに、笑顔を返してくれて――


 ◇


「……うん。

 いいかも、しんない……」


「……?

 なぁに、あなたたち。

 急ににやにやしだして、ちょ、ちょっと気味が悪いわよ?」


「「……はっ⁉︎」」


 正気に返った。


 リビングドアの裏から顔を出していた冬月が、慌てて身を隠す。


「それで優希。

 喫茶店のこと、任せていいか?」


 結局俺はさっきの妄想の魅力には抗えず、喫茶店のことを引き受けた。


 親父と巴さんは、これでひと安心と胸を撫で下ろして、ドバイへと旅立っていった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 今日から冬月とのふたり暮らしが始まった。


 麗らかな陽気の日曜日である。


 あのあと冬月は、旅立つふたりに見送りの挨拶をしてから、さっさと2階の自室に閉じこもってしまった。


 従姉の那月さんが顔を出しにくるのは、今度の土曜日らしい。


 それまでは喫茶店も開けなくていいから、ふたりきりの暮らしに慣れておけとの、親父たちからのお達しだ。


「うむむ。

 しかしこれは、どうしたもんかなぁ……」


 実はさっき、朝食を準備して冬月を誘ってみた。


 するとダイニングまで降りてきた彼女は、俺の顔を見るなり顔を真っ赤にして、キョロキョロと視線をさ迷わせ、落ち着きなく前を向いたり後ろを向いたりを繰り返した挙句、結局朝ごはんも食べずに自室へと戻っていったのだ。


 これではいけない。


 こんな調子では、冬月とふたりで喫茶店を切り盛りするなんて無理だ。


 仲良くなる、とまでは難しくとも、普通に接してもらえるくらいにならなければ、この先の生活だって思いやられる。


 第一、店や家でのことがなくても、彼女に嫌われたままでは俺が辛すぎる。


「はぁぁ……。

 そもそもなんで、俺だけが冬月に嫌われてるんだろうなぁ」


 思わずため息が漏れた。


 開いてしまった彼女との心の距離を埋める方法を、あれこれ頭のなかで模索する。


「うーん……」


 例えば名前で呼んでみるとかどうだろうか。


 ちょっと口に出してみよう。


「ひ、……ひと、花……。

 ぅぉ……。

 こ、これは……」


 とても無理だ。


 ぼそっと呟いただけでも、顔が赤くなってしまうくらい恥ずかしい。


「……取り敢えず洗いもんしてから、ちょっとのんびりするかぁ」


 朝食後の空いた食器を持って、流しへと向かった。

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