第11話 名前を呼ぶのもひと苦労

 学校から帰宅したひと花が、家の鍵をあける。


「……あら。

 春乃くんの靴がない」


 自分よりも先に教室を出た筈なのだが、どうやらまだ優希は帰っていないようだ。


 靴を脱いで玄関に揃える。


 自室に戻って私服に着替えてから、ベッドの縁に腰掛けて、ひと花はおもむろにスマートフォンを取り出した。


「えっと……。

 下の名前……呼び合うきっかけは……」


 画面をタップして、検索画面を開いた。


「あ、これこれ。

 って、『カップルで名前呼びする方法』⁉︎

 カ、カカ、カップルって……!」


 自室でひとり、顔を真っ赤にしながら、ひと花は検索に引っ掛かったページを読み進めていく。


 ・カップルで名前呼びを始める方法


 1.少し遠い場所から名前を呼ぶ。


 2.別れ際に何気なく。


 3.ふたりでスキンシップを取っているとき。


 4.おやすみの挨拶に紛れて。


 5.まずはメールなどから。


 ふむふむ、こんな風にきっかけを作ればいいのか。


 為になるなぁなんて頷きながら、ひと花がサイトの記事を読んでいると、玄関の開く音が微かに聞こえてきた。


 どうやら優希が帰ってきたようだ。


「よ、よし。

 さっそく実践あるのみね。

 って、あれ?」


 頭が真っ白になって、たった今調べたばかりの内容が、どこかに飛んでしまっていた。


「し、仕方ないから、行き当たりばったりよ。

 いざ!

 女は度胸!」


 胸の前でキュッと小さく拳を握って、ひと花は玄関まで優希を出迎えにいった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 家に帰ると鍵があいていた。


 靴もあるし、どうやら俺より先に冬月が帰ってきてるみたいだ。


 何というか、不思議な気分である。


 家に帰れば冬月がいる生活なんて、ほんの少し前まではまったく想像すら出来なかったことだ。


「事実は小説よりも奇なり、ってか」


 学校指定のカバンを玄関脇に置き、靴を脱いでいると、2階から冬月が降りてきた。


 制服を脱いだ彼女は、家でもお洒落な私服を着込んでいる。


 俺にはファッションとかはよくわからないが、きっとセンスのいい服選びなんだろう。


 細身のクロップドパンツに、ゆったりとした白いアウターを合わせた彼女。


 このアウターは、なんて服なのかな。


 その服装は、年の割に大人びてみえる冬月に、とてもよく似合っているように思えた。


「お、お、おかえりなさい。

 ゆゆ、ゆゆゆ、優……、は、春乃くん!」


「ゆゆ?

 よくわからんが、とにかくただいま、冬月」


「わ、私より先に教室をでたのに、お、遅かったのね。

 ゆ、ゆゆゆ、ゆ、ゆう……」


「ちょっと銀行に寄ってきたんだ。

 けどおかしいんだよなぁ。

 生活費が振り込まれてなくてさ」


「……生活費?」


「ああ、親父が振り込んでおくって言ってた当面の生活費が、1円も入ってなかったんだよ。

 まぁ親父も今は、向こうに着いたばかりでバタバタしてるだろうし、明日あたり連絡してみるよ」


「だ、大丈夫なの、それ?」


「とりあえず最初に預かっておいた手持ちのお金がいくらかあるし、すぐにどうこうなったりはしないから、安心してくれ。

 それより……」


 冬月を眺めた。


 ふたりっきりの家に帰ったら、彼女が出迎えてくれる。


 これはまるで……。


「なんだか、新婚生活みたいだな」


 思わず考えていたことを口にしてしまった。


「し、新婚⁉︎」


 冬月の顔が、一瞬にして真っ赤に染まる。


「バ、バッカじゃないの⁈

 私と春乃くんが、け、けけけ、結婚⁉︎

 ちょ、調子に乗りすぎよ!」


 上擦った早口で一気に捲し立ててくる。


 そのあまりの剣幕に、俺はちょっとけ反った。


「み、身の程を知ることね!

 私と春乃くんが、けけ、け、けけけ、結婚するだなんて!

 そんなっ、そんな!」


 冬月はあちらこちらに忙しなく視線をさ迷わせる。


 相変わらずのキョドりっぷりだ。


 かと思ったら彼女は、くるっと背中を向けて階段を駆け上がりだした。


 バタンッ、と乱暴にドアが閉まる音が聞こえてくる。


 玄関に取り残された俺は、彼女のいきなりの豹変に呆気に取られたまま、頭をかく。


「あー、まずったなぁ」


 どうやらまた冬月を怒らせてしまったようだ。


「はぁ……。

 口は災いのもとだなぁ。

 気をつけよ」


 俺も彼女に続いて階段を上がり、自室へと向かった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 夕飯の準備ができた。


「冬月ぃー。

 晩ごはん、出来たぞー」


 階下から声を掛けると、冬月が降りてきてダイニングテーブルの席についた。


 彼女は赤い顔をしたままそっぽを向いている。


「い、いつも、ご飯の用意してくれて、ありがとう。

 あ、後片付けと洗い物は私がするから!」


「ああ、別に気にしなくてもいいんだけど、じゃあお願いするよ。

 とりあえず、冷めないうちに食べようか。

 いただきます」


「いた、いただきます!」


 ふたりして手を合わせて、ご飯をいただく。


 今日のメニューは、クリームソースで頂く牛カツである。


 ちょっと豪勢な料理だが、冷蔵庫にちょうど2枚、ステーキ用の牛肉が残っていたから使うことにした。


 牛カツにクリームソースというと意外かもしれないが、実はこれが結構あう。


 箸でひと切れ摘み上げて、噛み付いた。


 サクッと揚がった衣の心地よい歯触り。


 そのまま奥歯で、衣ごと赤身の残った牛肉を噛み締めると、じわっと染み出してきた肉汁と濃厚なクリームソースが口の中で溶け合って、なんとも堪らない旨さへと変わっていく。


 ……うん。


 この牛カツは、なかなか満足な出来だ。


 ◇


「これ、凄く美味しい……」


 料理の出来に内心ガッツポーズをしていると、テーブルの対面に座った冬月が小さく呟いた。


 見れば彼女は目を丸くしている。


「……優希くんって、本当に料理が得意なのね」


「喜んでもらえたなら嬉しいよ。

 それより冬月。

 いま、俺のこと『優希』って、名前で……」


「あっ⁉︎

 ち、違うの!

 つ、つい言っちゃっただけで。

 だってずっと、頭のなかで繰り返してたから!」


「……繰り返してた?」


「だ、だから違うの!

 それは、優希くんと仲良くなりたいから……。

 って、ぅああ……!

 ち、違うんだからぁ!」


 冬月が慌て始めた。


 耳まで真っ赤にしながら、はぁはぁと荒い息を吐いている。


「と、とりあえず落ち着け、冬月。

 深呼吸だ、深呼吸!」


 言われた通り、すぅはぁと大きく息をし始めた冬月を眺めながら、さっきの彼女の言葉の意味に思いを巡らせる。


 ずっと繰り返し考えていた?


 俺を名前呼びすることをか?


 でもなぜそんなことを?


 そういえばいま、確かに冬月は『優希くんと仲良くなりたいから』と言っていた。


「……はっ⁉︎」


 唐突に彼女の考えが理解できた。


「そうか……。

 そういうことだったのか」


 つまり冬月は、これから俺と『家族』になろうとしてくれているのだ。


 家族ならお互いを苗字で呼び合うなんて、おかしな真似はしない。


 それに以前、俺は冬月に親たちの再婚を祝福してやりたいと言ったことがある。


 きっとそれを覚えていてくれたのだろう。


 いや、元々彼女も、親同士の幸せを心から願っていたのかもしれない。


 だからその幸せを邪魔しないためにも、俺と冬月も、これから家族になっていこうと……。


 俺は冬月の親を思う優しさに胸が暖かくなった。


 だが同時にそれとは相反するような、僅かばかりの寂しさも感じてしまう。


 俺と冬月が家族になる。


 それはつまり、もう俺たちが恋人になる可能性はなくなってしまう、ということだ。


 俺は、冬月の恋人になりたかった……。


 だがもう見事にフラれてしまったことだし、これからは意識を切り替えて、俺もみんなのために冬月と『家族』になる努力をしていくべきなのかもしれない。


「……落ち着いたか?」


「え、ええ。

 ごめんなさい、春乃くん。

 私としたことが、少し取り乱しちゃったわ」


「……春乃?

 違うだろ、冬月。

 そうじゃない。

 もう一度、俺のことを『優希』って呼んでみてくれ」


「……はぇ?

 はぇぇえ⁉︎」


 一旦は落ち着きを取り戻した冬月が、ふたたびキョドり始めた。


 顔を真っ赤にした彼女は、胸のあたりで拳を握り、まぶたをギュッと強く閉じている。


「じゃ、じゃあ呼ぶわよ……。

 呼ぶからね!

 ……ゆ、ゆゆ、優……、優希……くん!

 あ、あ、あ……。

 もうだめ。

 わ、私、心臓がドキドキし過ぎて……」


 彼女は俺の頼みに応えてくれた。


 なら今度は俺の番だろう。


 でもさすがにちょっと恥ずかしくなってきた俺は、斜め上に視線を逸らす。


「うん……。

 これからは、こうして名前で呼び合おうか。

 ……ひ、ひと花」


「…………」


 冬月、改め、ひと花からの返事がない。


「……ひと花?」


 不審に思った俺は、逸らしていた視線を戻して彼女の顔を眺めてみた。


「……ふわ。

 …………ふわぁ……」


 俺に名前で呼ばれたひと花は、目をとろんとさせ、口を半開きにして、蕩けきった顔をしていた。


「ふ、冬つ……ひと花⁉︎」


「は⁉︎

 ちがっ、これは!

 も、もう知らない……!」


 その後、夕食の間、ひと花は俺と目を合わせてくれなかった。

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