第16話 喫茶店と那月さんのオムライス
那月さんの車に乗せてもらって15分ほど行くと、煉瓦造りの小さな喫茶店にたどり着いた。
家からだと各駅停車の電車で二駅と、徒歩で10分ほどの場所だ。
閑静な住宅街の風景に溶け込むような、ひっそりとした佇まいである。
「さぁ、着いたぞ。
ふたりとも、車を降りてちょうだい。
あ、優希はこの荷物を持ってな」
那月さんから段ボールの箱が手渡される。
覗き込むと、中にはまだ切られていない長い食パンや卵なんかの食材が、たくさん詰められていた。
「那月さん。
これは?」
「うちの店から持ってきたんだ。
軽食のレシピなんかも聞いてるから、ついでにレクチャーしてやろうと思ってな。
どうせあんたたち、なんにも用意してないんでしょ?
でも明日からは、ちゃんと自分たちで買ってくるんだぞ」
なるほど。
たしかになにも準備していない。
那月さんには頭が下がりっぱなしだ。
「じゃあ、えっと……。
呼び方は、ひと花ちゃん、でいい?」
「あ、はい。
私も那月さんって呼ばせて頂きますね」
「オッケー。
それでいいわ。
じゃあひと花ちゃん、お店のシャッターを開けてくれるかしら?」
促されたひと花が、鍵を取り出してシャッターと店の玄関を開けた。
そのまま木製のドアを開く。
カランコロンと軽快なドアベルの音がして、まだ明かりの灯されていない暗い店内に、日の光が差し込んでいく。
車を降りて段ボールを抱えたまま、じーっとひと花の後ろ姿を眺めていると、彼女がくるりと身体ごとこちらを振り返った。
俺と目が合ったひと花の目が泳ぐ。
「あ、あー、あー。
ん、こほん。
よ、ようこそ、優希くん。
ここがお母さんの喫茶店。
そしてしばらくの間、私たちの喫茶店になるお店よ。
よ、よよ、よろしくね!」
なにを照れているのだろう。
ひと花は顔を赤く染めていた。
「ああ、ひと花。
こちらこそ、よろしくな」
よっと荷物を抱え直してから、彼女の隣まで歩いていく。
俺たちは那月さんに見守られながら、揃って小さな喫茶店ほ店内へと、初めの1歩を踏み入れた。
◇
「えっと……。
たしか電気はここを……」
ひと花が奥の壁まで歩き、スイッチをぱちっと鳴らすと、店内の照明がついた。
駐車場に車を止めてきた那月さんが、遅れて店の中に入ってくる。
「さぁ、まずあんたたちは店内の掃除でもしておいてちょうだい。
カウンターのなかはあたしが確認しておくわ」
「はい、わかりました。
じゃ、じゃあ優希くん。
お掃除しながら、お店の説明をするね。
掃除道具はこっちにあるから」
店舗の最奥にある、鍵付きの更衣室に案内される。
畳にして2畳半ほどのその狭いスペースには、小さなロッカーと掃除道具に、あとはお店の備品なんかが整理されて置かれていた。
「は、はいこれ。
私がハタキでほこりを落としていくから、優希くんは掃除機を掛けながらついてきてね。
それが終わったら、フロアのモップ掛けとテーブル拭きとトイレ掃除をして、玄関前をほうきで掃くの」
「ああ、わかった」
ひと花に言われた通り、彼女の後ろをついて回る。
喫茶店はカウンター席が6席に4人掛けのテーブル席がふたつ。
あとは玄関に近い大きな窓のそばに、2人掛けのテーブル席がひとつ置かれていた。
このほか冬場以外は、外の玄関脇のスペースにも2人掛けのテーブルをひとつ出しているらしい。
掃除をしながら店内をぐるりと見回してみた。
赤茶けた煉瓦造りの店構えに相応しく、内装はどちらかと言えば落ち着いたアンティーク調の装いだ。
ダークブラウンで木目の綺麗なウッドカウンターやテーブルは、どれも使い込まれていて年季を感じさせるものの、シックな雰囲気を醸し出している。
ドアベルが特徴的な木製玄関ドアの隣には、大きな窓があって採光もよい。
晴れた穏やかな昼下がりなんかに、あの窓際の2人掛けテーブルで、外の世界を眺めながらコーヒーの1杯でも飲んでみたくなった。
◇
「おーい。
あんたたちー」
俺たちが清掃をひと通り終えた頃合いを見計らって、カウンターのなかから那月さんが手招きをしてきた。
「お昼にしましょう。
ふたりともこっちに来て、カウンターに座りなさい。
那月さん特製オムライスを、食べさせてあげる」
言われてみれば、もう時刻は正午を回っていた。
「うわっ。
いいんですか、那月さん?」
「うむうむ。
いいぞぉ、優希。
さぁ、ひと花ちゃんもカウンターに座って」
「はい。
ありがとうございます!」
並んでカウンターに座ると、もう作り終えられていたオムライスが、すっと俺たちの前に差し出された。
ふんわりと優しい卵の香りに混ざって、ケチャップの酸味のある匂いが漂ってくる。
忘れていた食欲が刺激され、途端にお腹の虫が鳴き始めた。
…………くぅ。
隣からも微かな音が聴こえてくる。
さりげなく視線を向けると、ひと花がうつむきながらお腹を押さえていた。
「〜〜ッ⁉︎」
顔が真っ赤だ。
いまのはどうやら彼女のお腹の音らしい。
でも指摘するのも野暮な話だし、気付かなかったことにしておこう。
「さ、はやく食べな」
「やった。
いただきます!」
「い、いただきます」
スプーンを手にして、料理を眺める。
見た目はスタンダードなケチャップオムライスだ。
でも那月さんの作ったオムライスが、そんじょそこらのものと同じ訳がない。
匙を当てるとまるで抵抗なく、先端が黄色い卵に沈んでいく。
中から顔を出したケチャップライスの鮮やかな赤色と、ぷるぷるの卵の黄色いコントラストが実に美しい。
オムライスをひと掬いして、口に運んだ。
頬の内側にツンとしたケチャップの酸味を感じる。
かと思えばすぐにマイルドな卵が舌全体を包み込み、ハラハラと
「うま……。
めちゃくちゃ美味い!」
ともすればベチャっとして水っぽくなりがちなケチャップライスが、まったくそんなことはなく、一粒一粒のお米の弾力まではっきりわかるくらい、見事に口の中で解けていく。
そのライスを包み込む卵は雲みたいにふわふわで、しかも火の通りに不均一さがまるでない。
「すごい……。
こんなオムライス食べたの、私はじめて」
「那月さん。
本当においしいですよ、これ。
小学生の頃に食べさせてもらったのよりずっと!」
俺も料理をするからわかる。
これは材料の力なんかじゃない、料理人の腕だ。
キラキラした瞳でカウンター越しに那月さんを見つめると、彼女ははにかんだ笑顔を見せながら頬をかいていた。
「小学生の頃って、優希お前なぁ。
あたしだって、あれから渡仏して修行したり、帰ってきてから自分の店を構えたりで、いまやミシェランふたつ星シェフなんだぞ?」
そうなのだ。
この太陽みたいに明るい従姉は、名実兼ね備えた一流の若手フレンチシェフなのだ。
そんなひとが作ってくれた、オムライスなんて庶民的な料理を食べられるなんて、俺は幸せ者だと思う。
「あはは。
優希、そんなにがっついて食べなくても、オムライスは逃げないぞ」
「で、でも、うますぎて」
「相変わらず仕方のないやつだな、お前は。
ほら、水だ。
ひと花ちゃんもどうぞ」
「あ、ありがとうございまふっ!」
見ればひと花も、かなりの勢いでスプーンを動かしていた。
俺たちは上機嫌な那月さんに見守られながら、昼食を楽しんだ。
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