第20話 家庭教師はひと花先生
麗らかな土曜の昼下がり。
今日は週に一度の喫茶店の休業日だ。
ひと花と昼食を食べ終えた俺は、勉強道具を持って彼女の部屋のドアをノックしていた。
「き、来たぞー」
なんだかそわそわしてしまう。
「あ、開いてるわよ。
どうぞ」
「あ、ああ。
それじゃ、お邪魔します」
ガチャリとドアを開いて、部屋に入った。
彼女の部屋にお邪魔するのは、実はこれが初めてだ。
というより、女性の部屋に入ったのは生まれて初めてである。
思わずあちらこちらと、室内を見回してしまう。
ひと花の部屋は綺麗に整頓されていた。
窓際に設置したベッド。
壁にくっつけた勉強机と、その隣には多目的に使える棚がある。
部屋の真ん中には毛足の長めなラグが敷かれていて、その上に丸いローテーブルが置かれていた。
ベッドの枕の隣にはクマのぬいぐるみがあるし、部屋の所々に可愛らしい小物なんかが置いてある。
案外女の子っぽい部屋だ。
ひと花は見た目だけは割とクールな感じだから、その印象に引きずられて、ついもう少し飾り気のない部屋なのかな、なんて勝手な想像をしてしまっていた。
「ちょ、ちょっと。
あんまりジロジロと見ないで」
「ご、ごめん。
つい……」
「とりあえず、そこのテーブルにどうぞ」
ローテーブルに座ると、彼女も向かい合わせで腰を下ろした。
「それで優希くん。
勉強を教えてって、どの教科が苦手なの?」
実は来週から1学期の中間テストが始まるのだ。
だというのに俺は喫茶店のこともあって、まったく勉強が出来ていなかった。
……いや、それは言い訳だな。
俺たちが喫茶店をはじめたのなんて最近のことだし、ひと花なんかはお店で働きながらも、しっかりと勉強しているらしいのだ。
「全般的に苦手だな。
あ、でも現国だけは嫌いじゃないぞ。
あれは割と勘でいけるからなぁ」
「……あきれた。
そんなので今までどうしてたのよ。
いままでの試験で、一番成績の悪かった教科はなに?」
「……数学だな」
「じゃあ数学から勉強しましょう。
教科書は持ってきてるわよね。
えっと。
数学の試験範囲は、っと……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、ひと花!
2年に上がってから、俺たちどっちも文理選択のクラス分けで文系を取ったじゃないか。
だから数学はもう、勉強しなくてもいいと思うんだけど……」
「そんなわけないでしょ。
つべこべ言わない。
はい、教科書を出してっ」
観念して筆記具を取り出す。
中間テストがやばいからって、勉強を見て欲しいとお願いしたのは俺なのだ。
これ以上見苦しい真似はやめておこう。
「じゃあ、ひと花。
いや、ひと花先生。
よろしくお願いします」
ペコリと頭を下げた。
すると彼女は腕組みをして、掛けてもいない眼鏡の位置を、指でくいっとあげる仕草をしてみせる。
「よろしい優希くん。
ちゃんと真面目に授業を受けるんだぞ」
ひと花は澄まし顔だ。
美人教師のような物言いがなんとも言えず、彼女に似合っている。
「……ぷふっ。
なぁんてね」
「ははは。
本当に先生みたいだったよ」
ひとしきり笑い合ってから、ひと花の家庭教師が始まった。
◇
ひと花は思いのほか、勉強を教えるのが上手かった。
いま教わっている数学の場合でも、ちゃんと例を挙げたりして意味を説明してくれる。
なんでもよくクラスメートの山田亜美なんかにせがまれて、勉強を見てやっているらしいんだとか。
山田も困ったやつだが、それ以上にきっと、ひと花の面倒見がよいのだろう。
とは言え俺もこうして彼女から教わっているのだから、山田のことをとやかく言う資格はない。
「んー……。
なんなんだよ、この相加平均とか相乗平均って。
平均は平均でいいじゃないか」
「そんな訳にはいかないのよ。
色々使い道が違うんだから。
えっと……。
相加平均はわかるわよね?」
「わからん」
自慢じゃないが、数学はめちゃくちゃ苦手なのだ。
「もうっ。
そんなことで胸を張らないで。
んと。
相加平均っていうのは、普通の平均のことよ。
4と6の平均は、足して2で割って5ってやつ」
「なるほど。
それはわかる。
じゃあ、相乗平均ってのはなんだ?」
「ほんと、全然授業聞いてないでしょう?
だめよ、優希くん。
相乗平均というのは、そうね。
例を挙げたほうがわかりやすいかしら」
ひと花がむむむ、と考え込む。
「あっ、そうだ。
お店の売り上げを例えにすれば良くわかるかも。
例えばね。
一昨年の喫茶店の売り上は前年比2倍に、去年は前年比0.8倍に落ち込んで、でも今年は頑張って前年比5倍なったとします。
この場合、毎年平均でどれくらい売り上げが伸びたことになるか分かるかしら?」
「そりゃあ、2倍と0.8倍と5倍を3年で割るんだから、平均の伸びは2.6倍なんじゃないのか?」
「ぶっぶー。
それだと最初に説明した相加平均と何も変わらないじゃない。
こういう成長率みたいなのの平均は前年比のことも考えなくちゃいけないから、相乗平均を使うの。
この場合は、平均すると2倍になるかな。
えっと、式は……」
さっぱり理解はできないが、だからといって教えてもらっている手前、投げ出したりは出来ない。
俺はうんうん唸りながら、なんとかして理解しようと足りない頭を捻った。
◇
みっちりと数学を教えてもらって、いまは3時のおやつの時間だ。
リビングに場所を変え、買い置きしておいたショートケーキと紅茶で一服する。
「……ぅぅ。
もう勉強は、なにも頭に入らない。
限界だ」
「なに言ってるの。
甘いもので糖分を補給したら、まだまだがんばれるわ。
……ん〜。
このケーキ、美味しいっ」
ひと花は大きな苺の乗ったショートをフォークで口に運んでは、幸せそうに頬を手で押さえている。
「そういえば、ひと花はさ。
いったいいつ勉強してるんだ?」
「私?
私なら毎朝30分の予習と、寝る前に1時間、その日の授業のおさらいをしてるけど」
「たったそれだけ?
たしかひと花って、学年でもトップの成績だよな?」
「トップは言い過ぎかな。
でもだいたい5位圏内には入ってると思うけど」
「いやそれでも大したもんだって」
「わ、私のことはいいのよ!
そ、それより優希くんは、自分の心配をすることね!
だって理解力が低いんだからっ」
ひと花が少し顔を赤くして、そっぽを向いた。
でも俺にはもう、この態度や口の悪さは照れ隠しだってわかっている。
「へぇへぇ。
理解力が低くて悪うございましたね。
っと、ひと花。
俺のケーキも食べていいぞ。
こっち、チョコのやつだし」
皿ごとケーキを差し出すと、彼女はバツの悪そうな顔でこちらを振り向いた。
たぶんこの表情は、自分がいい放った暴言のせいで気まずくなっているのだ。
一度理解さえしてしまうと、案外ひと花はわかりやすい。
「ほら。
家庭教師のお礼も兼ねて。
な?
ひ、と、花、先生」
わかってしまえば、こうやってからかう余裕だって出てくる。
「も、もうっ。
バ、バカっ。
あまり調子に乗らないでくれるかしら!」
思わず俺は怒ったフリをする彼女に、微笑みで返してしまう。
「……そのケーキは、罰として頂いておきますっ」
ひと花はまた顔を赤くして、俺の差し出したケーキを受け取った。
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