第34話 ふたり、ささやかなお祝い

「オーダー通します!

 オムライス、ツー

 ひとつは大盛りで。

 あと、食後にグァテマラと、アイスコーヒーお願いします」


 狭い店内に、ひと花のよく通る綺麗な声が響く。


 平日夕方からの喫茶店は、仕事帰りのサラリーマン客や、ご近所のお客さんたちで賑わっていた。


 カウンター席に2人、4人掛けテーブルの片方に3人、あとは窓際の2人掛けテーブルに2人。


 店内全16席の座席の半分近くが、来客で埋まっている。


 割合としてはリピーターさんと新規のお客さんが半々くらいで、男女問わず、かつ年齢層も幅広い。


 喫茶店経営にはまだまだ疎い俺ではあるが、これはいい傾向のように思えた。


「追加オーダーです!

 カウンターのお客様、コーヒーゼリーのご注文を頂きました。

 これは私のほうでやっておくね」


「了解っ。

 あとこれ、2番テーブルさんにお出ししてくれ」


「はーい」


 ウェイトレス姿のひと花が、トレイにドリンクを乗せて、テーブル席に向かう。


「お待たせしました。

 こちら、アッサムティーとレモンスカッシュになります。

 ご注文は以上でお揃いでしょうか?」


 微笑を浮かべたひと花からの問いかけに、若いふたり連れの男性客たちは、頬を赤く染めながら頷いた。


「ありがとうございます。

 それでは伝票のほう、こちらに置かせていただきますね。

 ごゆっくりどうぞ」


 カランコロン。


 接客に区切りがついたかと思うと、息をつく暇もなく、またドアベルが鳴った。


 新たなお客さんのご来店だ。


 このひとはたしか、昨日も来てくれたお客さんである。


「おひとりさまでしょうか?

 こちらのお席にどうぞー」


 カウンター席に案内されると、リピーターのお客さんはメニューも開かずに口を開く。


「はぁ、腹減ったぁ。

 あ、俺昨日とおなじやつ。

 オムライスの大盛りで。

 あと食後にブレンドコーヒーねー」


 以前の状況から考えると、千客万来といっても過言ではない客入りだ。


 看板料理と薄利多売の経営方針がうまい具合に働いてくれている。


 梅雨がようやく明けて、足下が良くなったことも、弾みになっているのかもしれない。


「優希くん。

 オムライス大盛り追加で!」


「はいよー。

 これ仕上げたら、すぐに作るよ!

 しかしまぁ、忙しいな。

 はははっ」


 俺は賑わいを取り戻し始めた喫茶店に、嬉しい悲鳴をあげた。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 本日最後のお客さんが、玄関ドアを押し開けて店を出る。


「ありがとうございましたー!

 またのご来店を」


 ひと花と一緒にお客さんを見送ってから、ドアの正面に下げた札を、オープンから準備中にひっくり返した。


「ふぃー。

 お疲れさま、ひと花」


「うん。

 優希くんもお疲れさまです。

 今日は忙しかったねー!」


 本日の来客数は全部で20人近くにもなった。


 平日の営業時間が放課後の16時半から20時までの3時間半であることを思うと、なかなか大した客入りじゃないかと思う。


「……これならなんとか、俺たちだけでやっていけそうだな」


「……うん」


 もちろんまだ、経営が安定したとはとても言えない。


 だが確実に以前の状態よりはよくなっている。


 とはいえかなり利益率を抑えてお客さんを呼び込む商売方法をとっているから、来客数から想像するほど稼ぎはよくない。


 きっと安定軌道に乗るまで、当面ゆとりのある生活とは無縁で、貧乏生活をしていかなければならないと思う。


 だがそんなことはまぁいい。


 節約を心がければ済むことだ。


 とにかくこれからも、ひと花と一緒に暮らしていけるという、その一点こそが俺にとっては最も大事なのである。


「……ね、優希くん。

 お祝いしない?

 喫茶店が、なんとかなりそうなお祝い」


「お祝いかぁ」


 思えばこのところ店のことで頭がいっぱいだった。


 今日くらいは少し贅沢をして、ひと花とふたりで、これまでの努力を労いあうのもいいかもしれない。


「あ、あと……。

 あとね!

 わわ私たちがこれからも、い、一緒にいられることの、お祝い……!」


 見れば彼女は顔を真っ赤にしていた。


 ……そうか。


 ひと花も俺と同じで、ふたりでの暮らしを守れそうなことを嬉しく思ってくれているのか。


「……ああ。

 そうだな!

 お祝いをしよう。

 ひと花と俺と、……ふたりでお祝いをっ」


 彼女も同じ想いだったことに嬉しくなってしまった俺は、柄にもなく大きな声を張り上げた。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 家に着いた。


 帰りにふたりでスーパーに寄ったこともあって、時刻はもう21時を回っている。


 寄り道をして買ってきたのは、ショートケーキをふたつとノンアルコールのシャンパンが1本。


 ひと花も女子の御多分に洩れずスイーツ類には目がないようで、こんな小さなケーキを選ぶのにも結構な時間をかけて、うんうんと唸っていた。


「……うん。

 やっぱり優希くんのケーキのほうが、美味しそうな気がする」


 リビングでソファに腰を下ろすなり、ひと花がぽつりと呟いた。


 俺が選んだのは、甘さを抑えたベイクドチーズケーキである。


 そして彼女はスタンダードな苺ショート。


「はは。

 わかったわかった。

 じゃあ俺のも半分、ひと花にあげるよ。

 それでいいだろ?」


「うー。

 それだと優希くんが可哀想じゃない。

 あ、そうだ!

 どっちも半分こにしましょうよ。

 ね。

 それがいいわ」


 名案だとばかりに、パンと手を叩く。


 俺としては別に彼女ひとりで全部食べてくれても一向に構わないのだが、ひと花はなんだか楽しそうにしているし、ここは提案にのっておくとしよう。


 皿にケーキを乗せてフォークとともに差し出す。


 グラスをふたつ棚から取り出して、ソファの隣に腰を下ろした。


 シャンパンの栓を抜くと、ポンっと小気味のいい音がする。


 並べたグラスに発泡性の液体を注ぐと、静かなリビングにシュワシュワと泡が弾ける音が響いた。


「さてと……」


 グラスを手に持った。


 ひと花も俺に倣ってシャンパンの満たされたグラスを持ち上げる。


「……なんだか色んなことがあって、ずっとてんてこ舞いだったけど、やっと落ち着いた気がするよ。

 なぁ、ひと花。

 いままでありがとう。

 あと……。

 これからも、よろしくなっ」


「そ、そんな。

 私こそ、よろしく……!」


「ああ。

 じゃあ、乾杯っ!」


 コツン、とグラスを重ねあった。


 ぐいっと煽って、ひと息に飲み干す。


「――ぶはっ⁉︎

 って、これ!

 お酒じゃないか!」


 弾ける泡の感覚が喉を通り過ぎたかと思うと、カッと熱くなった。


 慌ててシャンパンのボトルを取ると、ラベルにはアルコール度数12度と書かれている。


「ちょ⁉︎

 ひと花、ストップ!

 これ、ノンアルコールじゃないぞ!」


「…………ふぇ?」


 見ればひと花はもう、グラスのシャンパンを飲み干していた。


 顔が赤い。


 でもいつもの照れによる赤面とは違って、なんだか頬がほんのりと朱に染まった感じだ。


「……ひっく。

 あら?

 これ、美味しいわね」


 ひと花がシャンパンボトルに手を伸ばす。


 かと思うと自分のグラスに大胆に注いで、ごくごくと喉を鳴らして飲み干した。


「ま、待てひと花!」


「ぷはぁー!

 美味し。

 …………ひっく」


「だからダメだって。

 それはお酒だぞ!

 ほら、こっちに寄越――」


「いやっ!」


 シャンパンを取り上げようとしたら、ボトルを抱えこんだひと花に背中を向けられた。


 ◇


 なんだかおかしなことになっている。


「ねぇ、優希くぅん……。

 こっち向いてぇ。

 はい。

 あーん……」


 並んでソファに座ったひと花が、フォークに刺した苺ショートを差し出してくる。


 口を開けると、ケーキが放り込まれた。


「美味しぃい?」


 黙ってもぐもぐと口を動かす。


「んふっ♡

 優希くんってば、照れちゃってぇ。

 このっ。

 このぉっ」


 頬をつんつんと突いてきたかと思うと、腕を絡めてしな垂れ掛かってきた。


「…………ひっく」


 ちょっと酒臭い。


 あれからシャンパンをほとんどひとりで飲み干したひと花は、ベロンベロンに酔っ払っていた。


「ねぇえ。

 今度は私にぃ、食べさせて欲しいなぁ」


 トロンと潤んだ瞳でおねだりしてきた。


 さっきから彼女はもう、ずっとこんな調子なのだ。


「……はぁ。

 あっつい」


 ひと花がブラウスのボタンを、おもむろにひとつ外した。


 はだけた服の隙間からちらりと覗いた鎖骨が、なんだか妙に艶かしい。


 俺の忍耐力はもう限界に達しようとしていた。


「はぁやぁくぅ♡

 あーん……」


 心頭滅却したまま、黙って彼女の要望に応える。


 心を無にするのだ。


 こう見えて俺も健全な男子だし、そうでもしなければ、酒に酔ったひと花に不埒な真似をしてしまいかねない。


「はぷっ。

 んぐ、んぐ……。

 んふっ♡

 美味し。

 …………ひっく」


 機嫌をよくした彼女が、ますます俺に密着してきた。


 二の腕に柔らかな感触が押し付けられる。


「ちょ⁉︎

 ひ、ひと花!

 さすがにそれはまずい。

 い、いったん離れよう!

 なっ?」


 肩を押して距離を取ると、ひと花はふくれっ面をしてみせた。


「……ぶー。

 優希くんは、いっつもそうなんだから!

 逃げてばっかり。

 ……私が勇気を振り絞って告白したときだって。

 もういいわよっ」


「……え?」


 勇気を振り絞って告白?


 それはあの日、ひと花が俺のことが好きと言ったときのことだろうか。


「…………ふわぁ。

 あふ」


「な、なぁ、ひと花。

 ちょっと確認していいか?」


 うつむいていじけ始めた彼女の肩を掴んで、こちらを振り向かせた。


「ま、待って……。

 いま、なんか、カクンってきた。

 眠くて……。

 …………すぅ」


 ひと花がまぶたを閉じて、寝息を立てはじめた。


「ちょ、ちょっと待ってくれ。

 起きろひと花!」


「む、無理ぃ……。

 ごめんなさい……」


 頭がコテンと傾く。


 そのままひと花は、すやすやと眠りについてしまった。


 もう肩を揺すっても、頬をぺちぺち叩いても起きやしない。


「ま、まじかぁ。

 一体、なんだってんだよ……」


 ひとり起きたままの俺は、さっきの彼女の言葉にもやもやしたままだ。


 とはいえ寝てしまったものは仕方がない。


 俺は後片付けをしてから、ソファで寝こける彼女をなんとか抱えて、自室のベッドへと運んだ。

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