第29話 白い五角形
幸枝の決断は迅速だった。自分のパンティーを守ることをすっぱりと諦め、報復攻撃とばかりに、隣に立つ萌乃の制服スカートの裾を握って捲り上げた。
「あああっ! サッチーひどい!」
萌乃は内股になってスカートを戻そうとするが、片手は幸枝のスカートを捲るために使用済みのため、もう片方の手だけでは自分のスカートを防御するのは難しかった。
二人とも、意識の重心は自らのパンツではなく、グラウンド上にあった。
背番号1番の三塁ベースコーチが回す腕に背中を押されるようにして、二塁ランナーは三塁ベースを蹴ってホームに突入した。センターからは山なりのバックホームがきわどいタイミングで帰ってきた。
萌乃と幸枝。二人はお互いに相手のパンツをモロ出しにさせたまま、その場に立ち尽くして白い五角形である本塁のクロスプレーを見届けた。
主審の右手、握った拳と親指が天に突き上げられた。
◇◇◇
一際大きな歓声が球場を包んだ。試合終了が宣告された。エースナンバーを背負いつつも出番が無いままに最後の夏が終わった対馬は、一瞬天を仰いだ。本塁に滑り込んで憤死した荒森はすぐには立ち上がれなかった。一塁ベースを少し回ったところで、最後のバッターとなった小山が頭を抱えてしゃがみ込んだ。
歓声はやがて、熱い接戦を演じた両チームを讃える温かい拍手に変わった。グラウンドとベンチに散っていた両チームの選手達が、激しい攻防の果てに土で半ば覆われたホームベースを挟み整列する。小山も対馬も荒森も、三塁側の列に吸い込まれる。
サイレンが悲しげに鳴り響き、萌乃と幸枝も周囲より遅れて拍手を始めた。手の怪我が治っていない幸枝は音を出さずに、それでも小さな仕草で右手と左手を打ち合わせて拍手をしていた。
二人とも、心に穴が開いてしまったような気分に襲われていた。まるでスカートの下にパンツを穿いていないかのような落ち着かない欠落感だった。掌を打ち鳴らす音がまるで秋の風のように乾いて聞こえた。季節はこれから夏本番に向かうが、青春の夏が一つ幕を引いたのだ。
相手チームの校歌が流れる。風が緩やかに吹き抜ける。三塁側スタンドのここかしこですすり泣きの声が漏れ聞こえる。
七対六で勝った実業高校の校歌斉唱が終わると、両チームの選手たちがそれぞれのスタンド応援団に対して挨拶をする。中央高の選手達も、泥にまみれたユニホーム姿のまま、スタンドに向かって一列に並んだ。顔を覆って泣いている選手もいる。キャプテンの号令で選手たちは一斉にいがぐり頭を下げた。緊張感から解き放たれた戦場に舞い降りた労りのメッセージのように、三塁側スタンドの応援団から拍手が送られる。楽器を演奏していた吹奏楽部員たちも全て、楽器ではなく自らの掌を打ち鳴らして気持ちを表す。
野球部三年生部員にとっては、最後の夏は扉を閉じた。吹奏楽部の三年生部員にとっても、重要イベントの一つが終わってしまった。
萌乃の隣で、幸枝が深い溜息をついた。
「終わっちゃったね」
幸枝の言葉に対して思わず頷いた萌乃だったが、慌てて首を横に振り直した。
「確かに野球部の応援は終わっちゃったけど、私たち吹奏楽部にとっての本当の戦いはこれからだと思わない?」
幸枝もまた、少し涙が滲みながらも輝きを取り戻した目で萌乃を強く見返した。
「そ、そうだよね。私だってもうすぐ手が治って演奏もできるようになるから、吹奏楽コンクールの時にはトランペットのポジションは譲らないんだからね!」
「私だって病み上がりのサッチーには負けないよ。今度こそ実力でポジションをゲットしてみせるよ」
対抗して萌乃も力強く言い放った。そしてお互いに顔を見合わせ、微笑みを交わした。野球応援のトランペットポジションを巡り、細く曲がりくねった羊腸の小径を辿った二人の関係も、今はもう元通り、いや、元以上に強固な友情へと昇華したかもしれない。
「小泉先輩と斎藤先輩、このボクを差し置いて何を言っているんですか?」
そう言って会話に割り込んできたのは一年生トランペッター田辺だった。
「あ、田辺くん、ごめんね。トランペット一人にさせちゃって」
ポンポンを持ったまま、萌乃は両手を合わせて謝った。
「二人とも、応援をそっちのけでなんてことやっているんですか。スカートめくり合ってパンツ丸出しで……」
萌乃は青くなり、幸枝は赤面した。あの騒然とした中で、高校三年女子コンビの痴態に気付いて注目していた人物が、よりによって身近に居た。
「た、田辺、見てたの?」
「見てました。ついでに記念としてスマホのカメラで写真も撮っておきましたよ」
爆弾発言が飛び出して、まるで猛烈な台風に見舞われて薙ぎ倒される稲の穂のように、萌乃と幸枝は戦いた。
「田辺くん。削除しなさい! 先輩としての命令よ」
「そ、そうよ。今すぐ、この場で、私たちが見ている前で削除してっ!」
三年生の先輩二人がかりで一年生の後輩に言い募っても、暖簾に腕押し状態だった。
「まあボクは削除してもいいですけどね。でももう二人のパンツがバッチリ写った写真、荒森にドンマイってメッセージと一緒に送っちゃいました」
悪い伝染病が蔓延するのは世の常だが、こういうエロ系のネタもスマートフォンのメールという機能を媒介してあっという間に広まってしまうものだ。下手をすれば荒森をハブとしてあっという間に男子生徒たちの間に猖獗してしまう危険性もある。
「みんなに広まっちゃったらどうするのよ。責任取ってよね田辺くん」
「そうよ。アンスコじゃなくてパンツをタダで見せるなんて許せないわ。せめて料金を払ってよね。カフェ・トゥルヌソルのとうふチーズケーキおごり決定」
「荒森は独り占めしたがるタイプだから、無駄にみんなに広まる心配は無いと思うんですよね、たぶん」
「たぶんじゃ困るのよ」
トランペットの三人が喧々囂々している間に、スタンドで応援していた人びとが三々五々立ち上がり、撤収する。惜しかったものの試合に負けてしまったのでやや意気消沈気味ではあるが、両校ナインが繰り広げたナイスゲームを讃える気持ち、最後まで諦めない中央高野球部のガッツから勇気のお裾分け、などがブレンドされて、雨上がりの空に虹が出たかのようなさっぱりした雰囲気が三塁側に漂っていた。
ただ一人、陰で西太后の異名をとる西野教諭は、敗北に落胆して動きの鈍い吹奏楽部員たちにヒステリックに怒鳴り散らしている。
「ダラダラしていないで迅速に行動しなさい。帰ったら、気持ちを切り換えてコンクールに向けての練習を早速始めますからね!」
勝っても負けても、吹奏楽部に君臨する女帝は健在だった。
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