第28話 ダメだからこそ応援
その程度のことは、あまり野球に詳しくない萌乃にも簡単に分かる。球場の雰囲気も、緊張感と高揚感が糾われた縄のようにお互いに絡み合ってトルネードとなって天へと舞い昇って行っているようであった。
自分も立ち上がって応援しなければ。そう思っても、脚に力が入らなかった。悔しさと情けなさで唇がわななき、目尻に涙が浮かび上がった時だった。
「無理しないで! 萌乃まで倒れちゃったら大変だよ!」
背後から声をかけられた。と同時に肩に手を置かれたので、萌乃は振り返った。声で、相手が誰であるか既に分かってはいても、彼女の元気な顔を一刻でも早く見たかった。
「サッチー!」
幸枝の顔は、どこか憔悴の色が水漏れしていて、けっして元気とは言えない様子だった。それでも精一杯の笑顔を浮かべていた。まさに、どんなに味方チームがピンチであっても笑顔を忘れずに応援して勇気を呼び起こすチアガールの勲章を誇示するかの如く。
「まだ休んでいなくていいの?」
「激しく動いたりしなければ大丈夫だよ。それより、試合の方が大詰めだから、踊って応援できなくたって、見逃すわけにはいかないよ」
萌乃にとっては、単純に吹奏楽部の年中行事として応援に参加しているのだが、幸枝にとってはそれだけが意義ではない。中央高野球部のキャッチャー小山は、幸枝の恋人なのだ。小山も幸枝も三年生。野球部の公式戦として、あるいは吹奏楽部恒例野球応援演奏として、これが高校生活最後の大会だ。勝ち上がれば明日以降も試合や応援は続くが、目の前の一試合一試合が最後のつもりで頑張らなければならない。
ならば、試合のクライマックスに、いくら熱射病だからといって医務室で休んでいるわけにはいかない。踊るのはドクターストップかけられたとしても、野球部の戦いぶり、恋人のリードと一年生投手のピッチング、見て瞳に焼き付けたいと考えるのが青春の正しい燃え方であろう。
「萌乃はもうここで座って休んでいていいから。あとは、私がここに立って応援するから」
「応援って言っても」
踊れないチアガールは、翼を失った鳥のようなものだ。自分自身で踊れないと言っていながら自信満々の態度を崩さない幸枝を、萌乃は訝しげに見上げた。
チアガールの標準装備として幸枝が最初に持っていた黄色いポンポンは、今は代打として制服のまま即席チアガールとなった萌乃に託されている。だから今の幸枝は手ブラのはずなのだが、左手に白い布のような物を持っているのが、萌乃の目に留まった。
三角形に近いような、それでいてどこか丸っぽい立体的な感じの布だった。
「サッチー、それ、もしかして」
「萌乃は気にしなくていいから」
そう言って幸枝は、左手に持った白い布を高く掲げてぐるぐる振り回した。スタイルとしては、プロ野球の応援においてもタオルをぐるぐる回す応援があるので、さほど奇抜ではない。持っている物が白い普通のタオルだったならば。
しかし、しゃがんだままの萌乃はしっかり気付いていた。幸枝が持っているのはアンダースコートだ。激しく踊るチアガールのミニスカートが翻った時にちらりと覗く、「見えてもいいパンツ」だ。
もう踊らないのだから、アンダースコートを穿いている必要は無いといえば確かに無い。脱水症状であるからには、体を締め付ける要素を少しでも取り除いた方が血液の循環は良くなるだろうから、気休め程度かもしれないにしてもアンダースコートを脱ぐことで体も楽になるのかもしれない。
だが、だからといって、脱いだアンダースコートをポンポンの変わりに振り回して応援する、というのは萌乃の発想には無かった。
「二塁ランナーって、一年生ピッチャーの荒森くんでしょ? だったらこの応援は丁度いいよね。踊ってパンツを見せることができないんだし、こうやって応援すれば、荒森くんはパンツを好きなだけ見放題だから、パンツを見せて激励するっていう義理は果たしているよね」
自分のアイディアが名案だと思っているのだ。幸枝は舟のように唇の両脇を軽く上げている。
一打同点という状況なので、バッテリーは必要以上に慎重になっていた。二塁ランナーに対して牽制球を繰り返し、ホームベースに向かってはなかなか投げようとすらしない。二塁走者の荒森もまた、心がホームベースに向かって前屈みになっているため、リードが大きい。牽制球で慌てて帰塁するのだが、タイミングは常にギリギリだ。
バッターは、今日の試合ではタイムリーヒットも打っている小山である。当然のことながら、小山と付き合っている幸枝の応援には気合いが入った。
「コヤマーン! 打てぇーっ!」
踊りはしないが、投票日前日の選挙カーのごとく大声で名前を連呼し、手に持った白いアンダースコートをぐるぐる回す。女子高生チアガールがまさか自分の穿いていたアンダースコートを脱いで振り回しているなどと思う人はいないだろうから、遠目から幸枝のこの様子を見れば、白いタオルを回しているのだと勘違いしてしまうだろう。
そのコヤマンと実業高校バッテリーとの対決は、お互いに腹の探り合い、といった様相だった。初球は外角のボール球から入って、小山もじっくりと見送る。ピッチャーは第二球目をなかなか投げず、二塁走者の荒森の方ばかりを気にする素振りを見せ、荒森を牽制すると同時にバッターを焦らして打ち気を逸らそうと企てる。部活で鍛え上げた肉体と肉体のぶつかり合いであると同時に、心理戦としても既に激しい衝突が行われているのだ。
二球目が投じられた。大きく外れた、というよりはわざと外した球だった。立ち上がって受け取ったキャッチャーはすかさず二塁へと矢のような牽制球を送る。慌てて、逆をつかれた荒森がスパイクシューズで地球を削りながら二塁ベースへ滑り込む。タイミングは完全にアウトで、三塁側からは悲鳴っぽい声が、一塁側からは期待が高まる声が聞こえた。
だが、キャッチャーと二塁にベースカバーに入った選手との息が合わなかった。送球が横に逸れて、センター前へボールは転がった。一塁側と三塁側、悲喜交々の様子が目まぐるしく入れ替わる。
荒森は立ち上がって三塁を狙おうとするが、センターの選手がすぐにバックアップに入ったので、三塁ベースコーチが両腕をクロスしてバツ印を作っていたのを見て自重して、二塁に留まった。
三塁ベースコーチには、この試合の最初からずっと、背番号1番を背負った対馬が立っている。今、同点になるかこのまま一点及ばず負けるか、中央高校は重大な岐路に立たされている。相手チームの細かい幾つかのミスにも助けられて二塁に走者いる。この二塁走者荒森を本塁へ生還させることができるかどうか、三塁ベースコーチ対馬の判断も重要だ。
「危なかったぁ。アラモリー、気をつけろコラー!」
幸枝が、まるで監督のような偉そうな口調で怒鳴った。二塁ランナーに聞こえているかどうかは不明だった。荒森は、マウンド上にいる相手ピッチャーの一挙手一投足に注目していた。少しでも隙があったら三塁ベースを陥れようと虎視眈々と狙っていて、幸枝の怒鳴り声に対するリアクションらしきものはどこにも無かった。
バッターとの勝負が長期化したため、小山のテーマ曲がループしてまた最初から演奏される。ポジションを勝ち得た吹奏楽部員たちは、直射日光で熱された楽器を抱えて、小山の打席が終わるまでエンドレスで演奏を続けることになる。トロンボーンのスライド管が外れてしまいそうなくらいに限界まで伸ばされ縮められる。田辺がたった一人で奏するトランペットも、萌乃と幸枝の不在分も補う程に高らかに音色を紡ぐ。
「ねえ、サッチー」
しゃがんだまま、萌乃は上目遣いで幸枝に尋ねる。
「小山くん、打ってくれるよね? あの荒森くん、ちゃんとホームへ行けるよね?」
吹奏楽部のトランペットのポジションを巡って対立し合って意地を張り合い、せっかく今まで築いてきた友達関係を瓦解させてしまっていた萌乃と幸枝の二人だったが、そんな葛藤があったことなど痕跡すら残さずに、二人の間には穏やかな空気が通っていた。
幸枝は、萌乃の問いに対して優しい微笑みを返した。
「そうね。コヤマンは私の彼氏なんだから、ここは一発打ってくれると思う。でも、荒森くんはちょっとダメっぽそうだよね」
あまりにも率直すぎる幸枝の意見に、萌乃は大きく双方の目蓋を見開いた。今の幸枝ならば、萌乃の気持ちに共感し、二人とも大丈夫だよやってくれる! と太鼓判を押してくれるものとばかり思い込んでいたから不意打ちの一撃として精神への衝撃は、地震の規模を示すマグニチュードで8くらいの大きな数字が出そうなほどのものだった。間髪いれずに幸枝は言葉を続ける。
「でも、ダメだからこそ、一生懸命みんなでこうやって応援しているんだよ。絶対大丈夫っていう保証があるなら、わざわざ応援する必要なんか無いんだからね。全身全霊をかけた応援だからこそ、私だってほら、出血大サービスって感じでパンツ見せつけているし」
正しくはパンツではなくアンダースコートであるが。
「だからっていって、ダメじゃないコヤマンは応援する必要が無い、っていう意味じゃないよ。コヤマンも荒森くんもみんな含めて野球部を応援するために、私たちチアガールが来ているんだし」
幸枝はあくまでも臨時チアガールである。正規の所属はあくまでも吹奏楽部である。
グラウンド上では、なかなかホームに向かって投球しようとしない実業高校エースに対してイライラしたのか、バッター小山が一度打席を外して、素振りをして自分のスイングを確かめてから再びバッターボックスの白い長方形エリアの住人となった。小山を応援する演奏の中で、トランペットを奏するのは一年生の田辺だけだが、孤軍奮闘して存在感を示し、萌乃が抜けた穴を埋めて演奏のバランスを見事に保っている。
この時、幸枝はもう完全にチアガールとなっていた。踊っていなくても、魂はチアガールとして自覚を持っていた。
「チアガールって、野球部だけを応援しているんじゃないんだ、って、医務室で休んでいる時に気付いたんだ。もちろん、スタンドで一緒に応援しているみんなのことをも励ましているし、それより何より、自分自身を鼓舞していたんだ。これから将来、大学受験とか就職とか色々な苦難が待ち受けているけど、チアガールをやった厳しい経験を胸に刻んで負けないで乗り越えて行こう! って」
太陽に向かって微笑む真夏の向日葵のように、朗らかに幸枝が言う。
「そうだね。一緒に応援しようよ、サッチー」
完全に二人は仲良しに戻っていた。吹奏楽部であるにもかかわらず、二人は全く楽器を持たず、自らの声帯を震わせることによってグラウンドの野球部員たちに純白で濁り無い気持ちを届けることができる。楽器を失った吹奏楽部員は、翼が折れて空を喪失した鳥ではないのだ。
カウントはノーストライクでツーボール。ボール先行でバッテリーとしては苦しい状況、はっきり言えばストライクが早く欲しい状況だった。待ち構えていた小山のバットが一閃した。
基本に忠実なセンター返しのバッティングだった。
歓声が一際大きくなる。三塁側スタンド全体が揺れるほどに。吹奏楽部員たちの中にも演奏を忘れて肉声を張り上げている者がいる。
打った瞬間、萌乃の興奮が疲労を凌駕した。その場に立ち上がると、いまだに黄色いポンポンを持った手で幸枝が穿いているチアガールユニホームの裾を掴み、大きく捲り上げた。
見えても良いアンダースコートを脱いでいる幸枝は、ミニスカートの下は自前のショーツだ。見えては良くないパンツである。
「きゃっ! ちょっと萌乃何するのよ!」
悲鳴は周囲の大歓声に掻き消されて当事者の二人以外の耳には届いていなかった。土壇場でやってきた同点のチャンスに、興奮は最高潮だ。西太后を恐れる部員たちの演奏も、もはや合奏ではなく各楽器がバラバラに音で昂揚を殴り書きしていた。混沌の中でトランペットの音は消えてしまっていた。
同性の萌乃にまさかのスカートめくりをされて慌てふためいた幸枝は太腿をもじもじとすり合わせながら両手で裾を押さえようとしたが、萌乃は力で対抗して離そうとしなかった。こうなればもう、チアガールが踊っている際のパンチラではない。パンモロだ。色はピンクだった。
二塁走者の荒森が走る。走る。三塁ベースコーチの対馬は、躊躇うことなく右腕をぐるぐる大きく回した。白い包帯の軌跡が幾重もの円を空中に描く。
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