第27話 最後にして最大の山場


 一年生チアガールたちも、吹奏楽部員たちも、ベンチ外野球部員たちも、みな疲れている様子を纏っていた。七回の攻撃は長かったので、休み無く演奏し続けたし、踊り続けた。相手の攻撃になったので、ひとまず休憩だ。


 だが、萌乃にとっては休む暇ではなかった。


 マウンド上には、相変わらず一年生投手の荒森がいる。


 荒森が投げている時に、スタンドから活力を与えることができるのは萌乃だけなのだ。


 マウンド上の荒森投手も、萌乃の存在に気付いていた。走者が出ていないため、一瞬くらいなら余所見をする余裕はある。時折ちらりとらりと三塁側スタンドの方へ目線を送った。そのタイミングに合わせて、萌乃は踊った。別に腕や腰の動きはどうでも良い。脚だけを高く上げて、制服のプリーツスカートが程よくめくれて、荒森に下着が見えれば良いのだ。ひっきりなしに踊り続ける必要もない。その時だけピンポイントで脚を上げればいい。たぶん、荒森だけではなく、一塁側ベンチに控えている実業高校ナインたちにも丸見えだろう。


 荒森は白いパンツから力をもらって。実業ナインはパンツに気を取られて集中力が乱れて。ということでもなかろうが、荒森は元気を取り戻して大型一年生らしい快投を見せた。八回表は三者連続空振り三振で仕留めて、最後にはマウンドでガッツポーズを決め、三塁側スタンドの、もっと具体的には萌乃の方に向かって力強い雄叫びを挙げた。


 八回裏の中央高の攻撃は、2アウト満塁までは行って盛り上がったものの、次の打者が初球をあっさり内野ゴロを打ってしまい、惜しくも無得点だった。


 七回の表裏に一瞬エアポケットに入ったかのように乱打戦の様相となったが、八階の表裏が結果的には共にゼロだったことにより、試合は再び前半の投手戦のような引き締まった緊迫感を取り戻しつつあった。


「ここ抑えよう」


「荒森しっかりー!」


 九回の表。三塁側スタンドで誰かが叫ぶ。一点ビハインドで、劣勢であるという事実は変わらないものの、このまま負けるとは誰も思っていない。九回裏に同点、あるいはそのまま一気に逆転劇があるものと信じている。


 萌乃は汗で額に貼り付いた前髪を、右手の甲で荒々しく拭った。持ったままの黄色いポンポンが涼やかな音を立てる。


 別にポンポンを揺らして踊る必要は無い。ついに九回までやってきた一年生ピッチャー荒森を応援するには、脚さえ上げることができればよい。味方チームが守備についている時に、孤高のマウンドを守る一年生を応援できるのは、中央高校吹奏楽部三年生の小泉萌乃しかいない。


 スタンドに詰めかけて応援する生徒たちの着ている白いワイシャツが雪のように見えるからアルプスと称されるなら、萌乃はたった一人だけであっても、ショーツの白で三塁側スタンドをアルプスにするくらいのつもりだ。


 マウンド上の荒森は明らかに肩で息をしていた。相手チームに対して、疲労しているという様子は見せない方が良いはずだが、隠したところで球速や球威の衰えで丸見え状態なのだから、それだったらいっそのこと下手に隠蔽したりせず、少しでも楽な状況で荒森が投球できるようにした方が得だ、と判断したのだ。


 荒森は右ピッチャーなので、マウンド上では自然と三塁側方向へ顔が向く。常に視界のどこかにスタンドの萌乃が入る。萌乃もまた、隠蔽したりせず、白い下着が丸見えになるような踊り方で、面識の無い後輩を励ます。


 本当にそれで元気が出たのか。もしそうだとしたら男子高校生の性欲というのは現金な性格であるものだが。いずれにせよ萌乃の気持ちは白いメッセージとして荒森にも伝わったのだ。一年生投手はマウンド上で仁王立ちし、実業高校の攻撃をいずれも平凡な内野ゴロの三者凡退に仕留めた。


 スタミナに課題があるとされていた荒森が、一点リードされる展開ではあるが、九回まで見事に投げきった。自分の手柄ではないのだが、萌乃にとってはどこか誇らしく思えた。


 次は、中央高打線が一年生投手の粘投に応える番だ。球場全体も、白熱した一点差ゲームがいよいよクライマックスということで、疲れを吹き飛ばして改めて座り直して試合の決着を見届けるぞ、という空気が靄のように漂い始めている。


 それでも現実の空は夏の色を映えさせていて、冴えた透明感を貫いて容赦なく暑さを地上へ降り注がせている。時折鳥の群が追い立てられるように空を横切ったとしても、地上には斑点程度の日陰すらも形作ることはない。無窮の夏空はトパーズよりも黄色く輝く太陽の独擅場であり、澄んだ青さすらもその引き立て役でしかない。


 ベンチ前では中央高ナインが円陣を組み、互いに汚れたユニフォームを寄せ合って結束を確かめ、気合いを注入する。その間、スタンドの応援団は水分補給をしたりトイレに行ったり、ラストスパートの応援に備える。


 祈るような気持ちを抱きながら、三塁側に陣取った吹奏楽部の演奏が始まった。一瞬、最後までトランペットを吹きたかったという思いが去来しながらも、萌乃は未練を振り切って、疲れで筋肉がパンパンに張った太腿を振り上げて踊り始めた。


 最初のバッターは、さすがに疲れの色が濃くなってきた相手投手の球を強烈に叩いた。しかし打球は守っていた野手の真っ正面に飛んでしまい、セカンドライナーだった。打って、アッ、と観客が息を呑んだ時にはもう白球はグラブの中だった。呆気なく一死となった。ブラスバンドの演奏もあからさまに意気消沈して尻切れとなった。トロンボーンの音が蛇口をきちんと閉め損なった水道水のようにだらしなく漏れ流れる。が、当たり自体は悪くなかったので、まだ行ける、という気を喚起させる鋭くも美しい打球だった。アウトはアウトでも、比較的有意義なアウトだった。


 この回二人目の打者もまた粘り強く食らいついた。ライナー性の打球が、今度は飛んだコースも丁度内野手と内野手の間で、白い球は緑の芝生を転がって外野手のグラブに拾われた。レフト前ヒットで一死、走者一塁。いわゆる同点のランナーが出た。、三塁側からは張り詰めた拍手が響く。一塁側からは張り詰め度が九割くらいの溜息が漏れる。まだ一点リードしているから、実業高校側がある程度余裕を持っているのは事実だ。


 最終回ではあるが、反撃の糸口の走者が出た。次の打順になるため、曲が変わる。


 右バッターボックスに立ったのは、背番号10番だった。


 ここまで一人でマウンドを守ってきた荒森は、大きな仕草で素振りをした。投げるだけでなく、打つ方でも自分で決めてやるという意気込みが大柄な体全体からオーラとなって滲み出ていた。……のだが、実業高校バッテリーがサイン交換する前から、荒森は金属バットを寝かせた。


 作戦としては手堅い、高校野球のセオリーともいえる送りバントだ。長打力があるとはいえ、打率が高いとはいえない一年生バッターなので、中央高ベンチは相手にアウトカウントを一つ与えるというデメリットを承知した上で、確実さを求めたということだ。


 幾度か一塁へ牽制球を投げたり投げるふりだけしてみたりしてから、ピッチャーが荒森への初球を投じる。


 実業高校バッテリーは、送られて一打同点の形を作られるのを警戒したのだろう。送りバントしにくい低めを初球として選択した。が、バッテリーの思惑を更に上回る形で、飢えた狼のような執拗さを以て、荒森は難しい球に食らいついた。長身を折り畳むように体勢を崩しながら辛うじてではあるがバットに当てて、やや強いゴロをピッチャー前へ転がした。体勢を立て直して一塁へ走り始める荒森を尻目に、バッテリーは迅速な動きを見せていた。


 全く迷うことなく、キャッチャーは二塁を指差した。打球を拾ったピッチャーはまるで背番号に眼球が付いているかのような正確さで振り向きざまに二塁へ投球した。サイドスローで送られた白球は矢のように疾走し、ベースカバーに入ったショートの選手がそれをしっかりキャッチしてアウト。更に一塁へ転送。打者走者の荒森はバントのために一塁へ向かってのスタートが遅れていた。あっという間のダブルプレー成立、……かと思われた。


 すでに封殺された一塁走者が必死のスライディングを敢行したため、ベースカバーの遊撃手は体勢を崩し、一塁への送球がやや高くなってしまった。蒼穹の下、球場から一瞬のどよめきが起こる。一塁へベースカバーに入っていた二塁手が必死でジャンプして腕を限界まで高く挙げたが、それでも全然足りないくらい、送球は高すぎて暴投の烙印を刻みつけて一塁側ファールグラウンドを転がった。


 一塁ベースコーチがプロペラのように激しく腕を回す。九死に一生を得た打者走者の荒森は、自分のバント失敗を取り返すべく二塁へ全力で駆けた。


 マウンドを守る唯一のピッチャーであるにもかかわらず、思わず、怪我の危険が大きいヘッドスライディングを行ったところに荒森の気持ちが滲み出ていた。


「セーフ!」


 判定が出ると、三塁側スタンドから黄色い悲鳴が湧き上がる。演奏している吹奏楽部の女子部員も、飛び跳ねて喜びながらの演奏になっていた。


 しかし。


 萌乃は喜びよりも安堵の気持ちの方が大きかった。送りバント失敗ダブルプレーでチャンスを潰していたはずのところを、相手の暴投エラーにより荒森が二塁に達し、結果的には二死二塁という形ができた。送りバントが成功したのと同じ結果だ。良かった、と思った瞬間、気が抜けてしまった萌乃は、急激に疲れを感じてその場にしゃがみ込んだ。


 一旦座って楽な姿勢になると、もう立ち上がるのが億劫に感じられた。暑さに灼かれて、ブラジャーの肩紐のアジャスターや背中のホックのあるあたりに汗がたまって痒い。踊ることなど想定していなかったから、スポーツブラではなく普通のブラジャーを着用してきていた。太腿はムチムチというよりは、筋肉繊維を疲労させる物質でダークマター色に染められた筋肉が張ってパンパンだった。自分の体の一部なのだから自分の意志で動かすことができるパーツであるはずなのに、過酷な労働に耐えかねて革命を勃発させようと企てているプロレタリア階級のごとく、脚は言うことをきかなくなっていた。


「も……」


 もうちょっとなのに。もう少しで、同点に追いつくことができるのに。肝心な時に体力が限界に来て踊れなくなってしまうなんて。まさか声に出して嘆くわけにもいかず、萌乃はしゃがんだまま奥歯を噛み締めた。


 中学時代に中距離走をやっていたとはいえ、今はもう陸上部の現役ではない。ブランクの影響は思っていたよりも大きかったのか、中学時代の体力造りの貯金は考えていた程には残っていなかったのだ。そもそも、体力勝負が辛いから、陸上はやめて吹奏楽部に入ったのだ。


 忸怩たる思いが、立ち上がれない萌乃の背中に重くのしかかる。一年生の時もチアガールをやらされたが、その時には試合の最初から最後までなんとか踊り切っていた。それなのに今回は疲れ果てて立つのすら厳しいという状況になるというのが悲しくも納得しがたかった。


 一年生の時にはいやいやながらにチアガールをやらされていたので、西野教諭の目を盗んで怠けた踊りをして体力を温存していた。それに、味方チームの攻撃の時だけ踊り、相手チーム攻撃の際はしっかりと休んで体力回復に努めていた。


 だが今回は、途中から急遽、幸枝の後をうけて即席チアガールになった。踊りには慣れていない。準備運動もしていなかった。幸枝の分も頑張ろうと自らの意志で引き受けたチアガールなので、真剣に踊っていた。相手チームの攻撃時にも、マウンド上の荒森を激励すべく休みなく踊りを継続した。既に幸枝が脱水症状で気分が悪くなっているが、例年以上に今日は気温の高い炎天下となっている。萌乃にとっては不幸なことに小さな悪条件ではあっても幾重にも重なり、肝心な時にしゃがみ込んでしまうという失態をおかしてしまった。


 もう次のバッターが打席に入り、マウンド上の投手はしきりに二塁走者の荒森を気にしながらもキャッチャーとのサイン交換をしている。


 やや遠ざかり気味の意識を呼び起こして、萌乃は周囲を見渡してみる。萌乃以外の三人のチアガールはここぞとばかりに溌剌と踊っている。もちろん、試合開始当初よりは疲れが溜まっていて、若さ溢れる一年生といっても動きのキレなどは無くなっているはずなのだが。試合は、相手エラーという運にも助けられて一打同点のチャンスという場面である。野球部員たちの奮闘ぶりに元気をもらった応援団は最後の力を振り絞ってという感じではあるが音量も大きく清澄になっていた。


 ここが、この時が、この試合における、最後にして最大の山場だ。


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