第26話 だからどうした!


 萌乃もトランペットを左手で握り締めたまま肉声で叫んでいた。点数は一対七で、まだまだ圧倒的不利である状況に変化は無いのだが、とりあえずのコールド負けだけは阻止した。上位進出を期待されていた中央高野球部の意地と粘りが形になった。


「やりましたね、小泉先輩。まだまだ応援も続くから頑張りましょう!」


 普段はどことなくぶっきらぼうな田辺の声も、興奮のせいか少し弾んでいた。


 野球部を応援すべき吹奏楽部が、強敵相手にも諦めずに立ち向かうひたむきな選手たちの姿に逆に励まされてしまった。グラウンドの選手とスタンドの応援団の気持ちが一つになれば、勇気百倍だ。


 今度は実業高校側の守備のタイムがかけられた。ベンチからは伝令が出て、内野陣がマウンド付近に集結する。相手チームのタイムの輪が解けてから、次のバッターのテーマ曲演奏開始なので、萌乃も田辺も気合いを新たにして熱を帯びたトランペットを握って待っていた。


 と、スタンドの前方にいた西野教諭が立ち上がり、階段を上がって行った。


 なんとなく気になった萌乃が目線で追っていると、西野教諭は幸枝の側へ歩み寄った。


 幸枝は立っていた。顔を伏せてその場に突っ立っていた。立ってはいるけれども、全身が脱力していた。明らかに体調不良であることが、萌乃にも分かった。


◇◇◇


 一点返して、なおもツーアウト走者二塁。追加点のチャンスは続く。


 実業高校一回目の守備のタイムは終わり、選手たちはそれぞれのポジションに散り、マウンド上には背番号1番だけが残った。


 次のバッターが打席に入る。


 三塁側スタンドからは、今までよりも力を取り戻した吹奏楽の演奏が始まる。


 チアガール三人も、黄色いポンポンを元気に振って、ナインに勇気を与えるべく踊りだす。


 レフト側上段に位置どっている幸枝だけは、踊らずに苦しげな息で西太后と話していた。


「……無理みたいね。休みなさい」


「すみません。ご迷惑おかけします」


「仕方ないわ。ちゃんと水分とっていなかったの?」


「自分で持ってきたお茶を、少しずつ飲んではいましたけど。それでも辛かったです。父兄の方が差し入れてくれたコーラは飲まなかったです。炭酸苦手なので……」


「医務室へ行きましょう。たぶん暑さのせいによる脱水症状だと思うけど」


「試合……どうなるでしょうか?」


「斎藤さん、試合よりも自分の体の方を心配しなさい」


 いつも厳しい西太后だが、眼鏡の奥の瞳は幸枝の身を案じる思いやりの優しい光を湛えていた。鬼のように厳しい顧問教諭であっても、生徒の心身の健康を優先に考える原則を忘れる人ではない。


 西野教諭が幸枝の肩を支え、二人で医務室に向かおうとした時だった。


「サッチー、どうしたの?」


 背後から声をかけられた二人は振り返った。階段を駆け上がってきたばかりで息を切らしている萌乃が立っていた。トランペットは自分の席に置いてきていた。


 西太后の眼鏡が金属バットよりも鋭く光った。目が鋭角につり上がる。


「小泉さん。あなた、演奏中に勝手に移動したら駄目でしょう。トイレは相手チームの攻撃中に行くように言ってあるでしょう」


 口調も刺々しかった。吹奏楽部員が等しく萎縮してしまう西太后のお言葉ではあるが、今の萌乃は怯んでいる場合ではなかった。


「サッチー、具合悪いんですか?」


「脱水症状みたいね。今から医務室に連れて行くわ。小泉さんは早く自分の持ち場に戻って演奏を続けなさい。あなたまで体調が悪いというわけではないのでしょう?」


 病人に対しては優しくても、普通の者に対してはいつも通り厳しさを崩さぬ西太后だった。


 もちろん疲れてはいるけど、萌乃は元気だった。幸枝の身に何か異変が起きたらしいことを窺い知り、そのまま落ち着いて演奏を続けることができず、衝動に駆られるようにして駆けつけてしまったのだ。


「も……もえ、の……」


 具合の悪そうな半眼のまま、幸枝が上目遣いで萌乃を見た。潤んだ瞳は、風に煽られた蝋燭の炎のように危うかった。


「西野先生、お願いがあります」


「斎藤さんを医務室に連れて行きたいというのね。それは、顧問である私が行きますから、小泉さん、あなたは持ち場に戻りなさい」


「違います」


 怯まず、臆さず、萌乃は西太后の真っ正面から対峙した。清朝末期の本物の西太后に対して換言することができる者など、まずいなかったであろう。


「私を、サッチー……斎藤の代わりに踊らせてください!」


「「え?」」


 西野教諭と幸枝の両者から疑問の声が出て、吹奏楽部の演奏以上の和音となった。


「萌乃、どうして……せっかくペットのポジションを……」


「小泉さん、どういうことですか?」


 西太后が片手で眼鏡のツルを直す。奥の眼光が刀の綾模様のように煌めく。


「私のトランペットは実力不足だから、あまり野球部に勇気を与えることができないかもしれないけど、チアガールの踊りは、あの荒森くんっていうピッチャーにとって大事なんです。特に、サッチ……斎藤のポジションがいないと、荒森くんが元気を失くしてしまうんです!」


「……小泉さん、何を言っているの……?」


 当たり前ながら、西野教諭は、わざとパンチラ踊りをすることによって荒森を励ますという密約の存在を知らなかった。だから萌乃の言葉の意味を汲み取ることができずにいたのだが、幸枝には意味が通じた。


「に、西野先生、私からもお願いします。萌乃に、踊りをやらせてあげてください!」


「え? でも小泉さん、あなた、トランペットはどうするの? 踊りの練習だってやっていないし、ユニホームだって着ていないでしょう」


「トランペットは田辺くん一人でも大丈夫だと思います。彼の演奏、パワーありますから。それに、踊りは一年生の時にやったことありますし、学校の制服のまま踊るから平気です。ポンポンだけサッチーから借ります」


「でも小泉さん、スカートのまま踊ったら、下着が……」


「それどころじゃありません。時間が無いんです。今、この瞬間に野球部を応援しなくちゃ、次にチャンスがやってくるかどうか分からないんですよ!」


 西野教諭は下着が見えることを心配したが、萌乃の立場からすると、下着が見えなければ荒森に対する激励にならないのだ。強い口調で言い募って結論を急ぐことで、その部分を誤魔化し切った。


「……分かったわ。やりたいようにやりなさい。あなたまで倒れられたら困るから、こまめに水分を補給しなさい」


 西野教諭は諦め口調で言い残し、幸枝は黄色いポンポンを萌乃に託し、二人は医務室へ向かった。


 萌乃が両手にポンポンを握ってスタンバイした時には、既に演奏は始まっていた。堰が切れて蓄積していた憤懣が奔流となって一気に流れ出したかのように、目覚めの鐘のような音を残して打球が外野を転がった。


 三塁ベースコーチ対馬が、右腕をぐるぐる回す。本来は対馬の女房役である二塁走者の小山が大きく膨らみながら三塁ベースを蹴って本塁へ突入する。ボールは返って来ず、ベンチへ戻った小山はチームメイトからヘルメットを散々叩かれる手荒い歓迎を受ける。


「やったー!」


「行ける!」


「続け!」


 スタンドのどこかで誰かが叫ぶのが、三塁側のスタンドとベンチの全員に聞こえていた。


 つい先程までは、コールド負けムードが漂っていた三塁側スタンドだったのだが。今は、グラウンドでの野球部員たちのプレイに励まされて元気を取り戻していた。本来は、野球部員たちを応援するために来ている吹奏楽部員たちが、逆にグラウンドから熱い勇気をもらっていた。


 時間を追うごとに如実に疲れの色が滲んでいた演奏も、最初の頃のような勢いが戻り始めた。割れていた音が、気力と音量でカバーされる。たった一人の一年生が奏するトランペットの音色が高らかに空を制する。三人の一年生チアガールも、ここが踏ん張り所だというのは明らかなので、疲れた体に鞭打って汗まみれの筋肉を鼓舞し、機敏な動きで腕を振り上げ、腰を振る。萌乃の位置からでは見えないが、顔には自然な笑顔が浮かんでいた。


 スタンドの応援が元気になったことを、グラウンドの選手達も肌で感じ取っていた。次の打者は空振り三振だったが、勢いに呑まれて動揺している相手キャッチャーが捕球をミスして後逸した隙を見逃さなかった。振り逃げが成立し、走者二塁一塁となって更にチャンスが大きく膨らんだ。


「追いつけるぞ!」


「勝てる!」


 野球部がプレイで勇気を示し、それによって力を取り戻した吹奏楽部の応援で、グラウンドのナインが更に発憤したプレイを披露する。両者が補い合って自転車の両輪となって、DNAのスパイラルの如く高処へと飛翔し始めていた。萌乃もまた、この上昇気流に乗せられて力の限りに踊った。


 西太后に対して大口を叩いた割には、体は二年前の動きを覚えてはいなかった。吹奏楽部員にとってチアガールはトラウマであり、できるだけ早く消し去りたい黒歴史なのだから、終わってしまえばすぐに、携帯電話に届いた迷惑メールを一括削除するかのように簡単に忘れてしまっていた。


 だが、それで構わなかった。誰も、中央高チアガールの踊りに質など求めていない。スタンドのビジュアル面での派手さを演出するのだけが目的で、枯木も山の賑わいでしかないのだ。


 本当の目的はただ一つ、まだ一年生なので精神面の弱い荒森投手を励ますために、パンツ丸見え踊りをすることだ。


 本来ならば、チアガールの幸枝が踊ることにより、アンダースコートを見せるはずだった。幸枝は手の骨折という怪我を抱えて必ずしも体調は万全ではなかったはずだが、その中で精一杯踊り、恥ずかしさを忍んでアンスコを晒した。しかし暑さという天然の敵の前に、幸枝は退場してしまった。幸枝の穴を埋められるのは、事情を知る萌乃以外にはいない。


 学校の制服のまま踊るのは、チアガールのユニホームで踊るよりも窮屈だ。それに、アンダースコートなど当然はいていないから、スカートが翻れば、その奥にのぞくのは本当のショーツだ。


 見せびらかすものではないが、みえても良いアンダースコート。それであっても、スカートがめくれた時にちらっと見えれば、男は興奮するものだ。チラリズムという専門用語もできているらしい。見えても良いアンダースコートでさえ男の性欲を刺激するのに、見せるべきものではないパンティーが見えてしまうような踊りをあえてしているのだから、萌乃としては顔からプロミネンスが噴出するほど恥ずかしい。


 だが今は、中央高野球部の反撃ムードというイケイケの空気に背中を押される感じで、そのままノリに任せたかった。こんなことをしていれば、後で頭の固いことで有名な高野連から中央高に対して何か言われるかもしれないが、萌乃はそのような懸念など歯牙にもかけずに唇を窄めて吹き出した吐息一つで消し飛ばしてしまった。


 本来は三番手で、絶対的なトランペットの実力からいってもギリギリだった萌乃がポジションを得てしまったこと。親友幸枝の怪我を、喜ぶような形になってしまったこと。すれ違ってぎくしゃくした幸枝との関係を、上手く修復できないまま引きずって、今日まで来てしまったこと。野球部の応援はともかくとして、吹奏楽部のコンクール用の演奏については練習不足で全く自信が無いこと。


 色々な不安定要素が雁字搦めになって、どこかで断ち切って吹っ切れたいと萌乃は常々思っていた。今、体調不良で抜けた幸枝の穴を埋めて、自分がパンチラ踊りを頑張れば、狭霧のようなモヤモヤを全て払拭して精算できるような気がした。


 もしかしたら、いや、たぶんほぼ確実に、荒森以外の人も萌乃のパンツが見放題であることに気付いているだろう、と萌乃自身も自覚していた。


 だからどうした!


 という気分だった。見られるのは恥ずかしい。恥ずかしいからといって怯みはしない。これは勇気を与える踊り。だから自分が勇気を奮い起こして羞恥心を凌駕して踊らなければ、見ている人に勇気が届かせるられないではないか。最初の躊躇を克服して、萌乃の信念はより一層堅固になった。


 萌乃のパンツ踊りが野球部ナインに活力を与えたため、かどうか因果関係は不明にせよ、その後も一気呵成の連打が続いた。七回裏の長い攻撃がようやく終わった時には、スコアは六対七にまでなっていた。


 一点差にまで追い上げて、試合の行方は分からなくなった。


「よし、あと八回、九回あるから、逆転できるよ!」


 三塁側スタンドの誰かが言った。それは三塁側に陣取っている人びと全員にとっての心の声を代弁したものだった。


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