第25話 ワンサイドゲーム


 中央高バッテリーの荒森と小山も、さすがに二人連続初球をホームランされてしまっては、慎重にならざるをえなかった。初球は大きく外角に外すボール球だった。相手の一番打者も分かっていたらしく、全く手を出す素振りも見せなかった。


 二球目もボール。三球目もボール。スタンドで観ている萌乃も「あれ?」と思い始めた頃には四球目も投じられてボール。ストレートの四球で、一番打者は一塁へとゆっくり向かった。


 この試合で両チームを通じて初めてタイムがかけられた。バッテリーと内野手がマウンドに集まり、三塁側ベンチから飛び出した控え選手が伝令としてマウンドの輪に加わる。


 ピンチだ。萌乃も、田辺も、他の吹奏楽部員たちも呆然と様子を眺めている。


 マウンド上では、キャッチャーの小山が長身の荒森と正面から向き合って何かを言っている。荒森は頷きながら聞いている。


 キャッチャーの小山がマスクを持ったままの右手で、三塁側スタンドのレフト寄り上段を指差した。荒森がそちらに視線を向ける。


 つられるようにして、萌乃もそちらに振り返った。


 幸枝が踊っていた。踊らなくてもいい時間のはずなのに、踊っている。


 今は相手チームの攻撃中だ。だから中央高の応援は基本的にお休みである。演奏もしないし、チアガールも休憩して体力温存だ。他の三人の一年生チアガールたちは座って休んでいる。


 幸枝もかなり疲れているはずだ。顔は汗が筋になって流れている。前髪が額に貼り付いている。それでも、不必要なくらいに脚を高く上げて踊っていた。


 斜め下から振り返って見上げている萌乃にも、幸枝の白いパンツが見えた。正確にはアンダースコートだが。


 これは……間違いなく荒森投手にもパンツが見えているはずだ。


 副作用として、荒森投手以外の人にも見えてしまっているかもしれないが。


 これが、荒森にとってカンフル剤になるのか。


 せっかく幸枝が暑くて辛いのを我慢して、恥ずかしいのを堪え忍んでパンツを見せているのだから、一年生とはいえ修羅場で踏ん張ってもらわなければ困る。


 マウンド上の輪が解けて、試合再開だ。


 ところが幸枝の献身的パンツ見せ踊りも虚しかった。


 二番打者に対してはスリーボール、ツーストライクのフルカウントから、四球。三番打者に対してはボール球が四つ続いて、あっという間に満塁になってしまった。


「……おいおい、荒森、しっかりしろよ……」


 田辺が心配そうに呟いた。


 ついさっきまでは両校互角の展開だったのに。今は一方的に中央高が劣勢だ。


 そして迎えるバッターは、実業の四番だ。


 四番であるからには、実業高校随一の強打者なのだろう。でも塁は全て埋まっているから、敬遠することもできない。


 小山の出すサインに大きく二つ頷いて、荒森はセットポジションから初球を投げた。


 鋭いゴロがライトとセンターの間を抜けて、ボールはそのままフェンスの辺りを転々とする。中央高校の背番号8番と9番が必死に追いかけるが、塁上にいた三人のランナーは待ってくれない。


 バックホームされたボールはキャッチャー小山が構えている場所からは大きく逸れたが、バックアップに来ていたピッチャー荒森が掴んだ。ただ、その時点では一塁走者はズボンのお尻部分を土で黒く汚しながらも大喜びで一塁側ベンチへ戻って行き、三塁ベース上では大きな仕事をした四番バッターがガッツポーズをして白い歯を見せていた。


 あっという間の出来事だった。スコアは〇対五となった。


 大喜びの一塁側スタンドと対照的に、萌乃たちがいる三塁側スタンドはお通夜のようなしめやかさに支配されていた。


 小山が危惧していた通り、一年生投手荒森の欠点が如実に出てしまった格好だ。最初は好調だが、スタミナ切れを起こしてしまう。精神的に弱く、ピンチで開き直って自分のピッチングをすることができなかった。


 再びタイムがかけられ、中央高の内野陣がまたマウンド上に集まった。守備のタイムを使うことができるのは、延長戦にならない限り一チーム一試合あたり、三回までだ。貴重な機会を、もう既に二回も使用してしまった。


 またキャッチャー小山が三塁側スタンドのレフト寄り上段を、換言すれば斎藤幸枝を指差した。


 荒森が目を向ける。それを待ち構えていたかのように、幸枝がたった一人で踊る。派手なアクションでチアガールのユニホームであるミニスカートが大きくめくれ上がり、奥に佇む白が露わになる。


 さっきまで引き攣ったかのようだった荒森の顔が、少し穏やかに緩んだのが、萌乃の位置から見ても分かった。幸枝のパンツを見て、心が癒されたのだろうか。


 その後、荒森はギリギリで踏ん張った。打者二人に対して四球と死球を出して再び満塁のピンチを招きながらも、土壇場に追い込まれてから続くバッター三人を全て三振に打ち取って切り抜けた。


 パンツ効果といってもいいだろう。エッチな荒森には、パンツを見せれば元気づけることができる。そう小山が言っていたことは、決して嘘ではなかったのだ。


 どうせならば、一回目のタイムの時に効いていればもっと良かったのだが、それは今から悔やんでも始まらない。


 六回裏の応援が始まる。


 相手投手は、五点という大量の援護射撃を貰った。しかも自らもホームランを打って機嫌を良くしている。そのため益々ピッチングに気合いが乗ってきた。


 萌乃たちが額に汗して必死に演奏し、幸枝も一年生部員もポンポンを振って踊り、沈みがちな三塁側の雰囲気を盛り上げようとした。だが結果は、三者連続三振だった。相手ピッチャーは、前半の好投をまだ継続している。三年生なので、しっかり走り込んでスタミナをつけ、心身共に万全の状態で最後の夏に臨んでいるのだろう。中央高打線は相手投手を打ちあぐねている。ヒットも数える程しか出ていないし、四死球もほとんど得られていない。


 口に出しては決して言えないし、言ってはいけないのだが、萌乃の心中には諦めの弱気が蔓延り始めていた。このまま初戦敗退で終わってしまうのか。今年のチームは上位を狙えるという前評判だったはずなのに。


 七回表の相手の攻撃が始まった。とにかく、応援する吹奏楽部員にとっては慌ただしい。相手の攻撃なので休むことはできるが、この間にトイレにも行っておかなければならない。


 マウンド上は荒森が守り続けているが、疲労は明らかだった。コントロールが狂っているのか、二者連続で死球を与えてしまう。一人アウトを取ったと思ったら、次のバッターに対しては粘られてヒットを打たれてしまう。また一人三振に打ち取ったと思ったら、次のバッターには優れた選球眼で厳しいコースを見切られて四球を与えてしまう。押し出し。半分自滅という感じで点を失う。


 荒森は追いつめられていた。マウンド上でたった一人、疲れた体をもてあまして孤独だった。


 マウンドに仁王立ちの大柄な体躯が、なんとなく小さくなったようにすら感じられる。


 ランナーを進められて苦戦しながらも、なんとかバックの好守備にも助けられてイニングを終わらせることができた。


 この回の失点は二だった。二点で済ますことができた、と評価すべき内容だった。


 素人目の萌乃から見ても、荒森は限界ではないかと思われた。この回はたまたま二点だけしか失点せずに済んだが、ちょっとどこかの歯車が狂っていたら、もっともっと大量失点していても不思議ではなかった。


 気が付いてみるとスコアは〇対七。前半の緊迫した投手戦はどこへ消えてしまったのか。完全なワンサイドゲームとなってしまった。


 七回ウラが始まる。三塁ベースコーチとして、背番号1の対馬がまたも立つ。


「この回に点を取らなかったらコールドか……」


 田辺が呟く。


 高校野球の地方大会は、七回終了時点で七点以上の差が開いていたら、大会規定によりコールドゲームとなってしまうのだ。


 明らかに荒森が交替時期を過ぎていると分かっていても、右手を包帯で巻いた対馬は投球練習を始めない。


 対馬の骨折で勝ちパターンが崩れ、交替すべきピッチャーがいない。上位進出が期待された今年の中央高は、七点ビハインドを背負ったまま、初戦コールド敗退の奈落へ向かってまっしぐらの状態だった。


 せめて打線が奮起して点を取り返すことができれば陰鬱な雰囲気を払拭できるかもしれないのだが、ピッチャーとキャッチャーでアベックホームランを打っている実業高校の守備陣は隙を見せなかった。


 最初のバッターが凡退した。


 楽器を吹きながら、萌乃も田辺も溜息をついた。楽器の音に溜息の色が混じってしまっていた。


 吹奏楽部員の萌乃としても、自校の野球部に負けてもらいたくはない。特に今年は異例の前評判の高さを誇っていて、野球に詳しくはないから細かい事情は分からないまでも期待だけはしていたのに。


 西太后が目を光らせている下で猛練習をし、野球部応援演奏メンバーを勝ち取ることができたのに。野球部が負けてしまえば、応援する自分たちの出番もそれで終わりだ。


 野球部三年生にとっては最後の夏だが、萌乃や幸枝など吹奏楽部三年生にとっても最後の夏だ。


 甲子園大会が行われるのは夏本番だけど、地方大会が行われるのは、まだまだこれから夏になる、という時期なのだ。そのような早過ぎる時点で夏が終焉してしまうのは、あまりにも悲しすぎる。


 三塁側スタンドの願いも虚しく、二番目の打者もショートゴロに倒れ、一塁へヘッドスライディングして胸の辺りが茶色い泥で濁った。


 萌乃としては、吹奏楽部のコンクール用の練習を犠牲にして、野球部応援演奏の方に重心を置いて頑張ってきたのだ。だから、勝ち上がって、次の試合も、更にその次の試合も、応援演奏をしたい。上位進出、なんて曖昧な言い方ではなく、大きな夢舞台である甲子園まで、連れて行ってほしい。


 打席には背番号10の選手が入っている。一年生ピッチャーの荒森だ。


 銀色の金属バットが一閃。白球はセンターへ向かって放物線を描いた。二塁打だった。


 中央高が二塁まで走者を進めることができたのは、この試合初めてであった。ようやく、三塁側スタンドも盛り上がる。


 次に打席に入るのは背番号2番。小山だ。


 実業高校にとって、初めてのピンチだ。大量点差を考えればさほど大きなピンチではないのだが、この回に失点してしまえば、七回終了時点でのコールド勝利は無くなってしまう。実業としては一点も失いたくない場面だった。なかなかバッターに対しては投げず、二塁走者への牽制球を執拗に繰り返した。


 その間、萌乃たちは小山のテーマ曲である月の光に導かれる伝説の曲をエンドレスで奏し続ける。四人の即席チアガールもその曲に合わせた踊りを休み無く続ける。


 それでも、打席の小山は焦っていなかった。ようやく投じられた球が甘いコースへシュートして入って来たのを見逃さずにジャストミートした。鋭いゴロがダイビングキャッチを試みた二塁手のグラブを嘲笑うかのようにすり抜けてライト方向へ転がった。


 二塁走者はピッチャーの荒森だが、残っているスタミナをかき集めたかのように疾駆する。三塁ベースコーチ対馬が、右手を大きく乱暴に回す。腕の先が包帯の白で包まれた右手を。アドレナリンが分泌されているためか、痛みなど感じてはいなかったのだ。


 ライトからは、鯨を仕留める鋭い銛のようなバックホームが、荒森を刺すべく返って来た。黒っぽいグラウンドに白く浮き上がる五角形に向かって脚からスライディングする荒森のベクトルと、キャッチャーミットに吸い込まれる返球のベクトルが斜めに交錯する。


 ミットを一塁側、三塁側、バックネット裏から湧き上がっていたフォルテッシモの歓声が、一瞬メゾピアノになる。右手にボールを握り直したキャッチャーが一瞬、主審の顔を窺った。


 主審は手を横に広げた。黄色い歓声と盛大な拍手が三塁側から弾け出る。


 打者走者の小山はキャッチャーの転送の遅れを見逃さず、しっかりと、あるいはちゃっかりと二塁まで進んでいた。


 三塁ベースコーチの対馬も、両手でガッツポーズをして喜んでいた。左手は強く拳を握り締め、右手は包帯を巻いたままではあるが、もっと強く力を籠めているかのようだった。


「やったー!」


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