第24話 投手戦の終わり


 次の曲はルパン・ザ・サード。日本人にとってはモーリス・ルブランが生み出したアルセーヌ・ルパンよりも有名な怪盗かもしれない。


 試合はまだ半分も終わっていないのだが、それでも喉の筋肉とか、楽器を支え持つ腕や肩に疲労が蓄積し始めている。萌乃だけでなく、吹奏楽部員全員だ。中央高だけでなく実業も似たり寄ったりの闘い、消耗戦だ。


 サックスの音が割れたのが原因でもなかろうが、五番打者は豪快にバットを振って、萎びたナメクジが地を這っているかのようなゴロを打った。ピッチャーのがマウンドから駆け下り、必至にグラブを伸ばして拾い上げる。キャッチャーが一塁ベースを指差しているのを見たのか見逃したのか。風見鶏のようにくるりと反転したピッチャーは二塁に送球した。緊張の一瞬を挟んで、二塁塁審の両腕が横に広がるが、その時にはもう白球は一塁に転送されていて、一塁塁審は右手を青空に高々と挙げてアウトのジェスチャーをした。一塁側、三塁側、両方のスタンドから嬉しいような哀しいようなどっちつかずの微妙な歓声と不揃いな豆粒のような拍手があがった。


 いわゆる併殺崩れという形で、ツーアウト二塁となった。スコアリングポジションに走者を進めて、中央高がこの試合において両校通じて初めてチャンスらしいチャンスを得た。

 三塁側の期待が高まり楽器の音色も高まり幸枝の叫び声も高まる。


「打てー! アラ・モリー!」


 演奏は『残酷な天使のテーゼ』。ピッチャーである一年生の荒森が打席に入った時のテーマ曲だ。チャンスなのだから、萌乃たちもここぞとばかりに気合いを入れて魂を籠めて息を吐き出し楽器の音を揃える。荒森のバットから、神話にはほど遠いにしても明日の話のネタになるくらいの奇跡を紡ぎ出されることを期待して、メロディーは青い風へと吸い込まれて行く。


 されど背中に翼を持たぬ一年生には期待は重すぎたのか。あるいはピッチャーなので単純に打撃の練習が足りなかったのか。力の無いゴロが二塁手の真っ正面に転がった。荒森は一塁へ向かって全力疾走していたが、到達よりも遥かに前に一塁へボールが渡ってアウトとなった。スリーアウトチェンジ。


「あー、アラモリー。どうしてわざわざ人の居る場所を狙って打つんだよー!」


 期待の高まりが反転して理不尽な怒りとなった。失意の幸枝がヒステリックに声を張り上げる。打者荒森は狙って打ったのではなく、打った球がたまたまそこへ飛んだだけなのだろうが、野手の正面への平凡な内野ゴロでせっかくのチャンスを潰したという結果だけは同じだ。


 攻守交代である。スタンドの吹奏楽部員たちは腰を下ろし、楽器をメガホンに持ち替える。萌乃の斜め前にいるユーフォニアムの二年生女子生徒が「西野先生! ジュース買いに行ってきます!」と大声で言い、西野教諭の反応を確かめることもせずに去って行った。顧問教諭に一声かけさえすれば、相手チーム攻撃時の行動はある程度自由が認められている。


 萌乃は持参してきているペットボトルのお茶を口に含む。遅刻して来たのだが、それでも暑さに長時間さらされたせいで、ややぬるくなっている。食道を通って胃に液体が落ちて行く感覚がリアルに伝わる。


 マウンドには、中央高の長身一年生投手が登り、相手サイドの吹奏楽を柳に風と受け流しながら投球練習を始める。次のイニングが五回だ。萌乃の乏しい野球知識によれば、プロ野球における先発投手は、五回が一つのヤマだといっていたはずだ。萌乃の目から見た限りでは、荒森投手はまだあまり疲れているような様子ではなさそうだった。萌乃の方がよっぽど演奏疲れしていた。


 五回の表は淡々と進んだ。先頭バッターは初球に手を出してあっさりとショートフライ。次の打者に対しては、荒森の変化球がいわゆる「すっぽ抜け」になってしまい、デッドボールとなった。シルバーの金属バットを置いて肘のプロテクターを外しながら一塁へ歩いて向かう実業選手に対して、荒森は帽子を取って軽く頭を下げた。キャッチャーの小山が「ドンマイドンマイ」と大声で叫ぶのが、スタンドにまで響いて聞こえた。先輩の励ましがカンフル剤になったのか、荒森は気合いを入れ直したらしい。走者はあまり気にせずバッター勝負に徹し、二球続けてのストレートでテンポ良くツーストライクに追い込む。三球目は変化球で、タイミングを外されたバッターは空振り三振。一塁ランナーは盗塁を試みていたが、キャッチャー小山からの矢のごとき送球により、二塁寸前でタッチアウトとなった。実業は結果的には三人であっさりと攻撃終了だ。


 三塁側スタンドから大きな拍手が雄大積雲のように湧き起こる。「コヤマンいいよー!」と幸枝が絶叫した。小山と荒森はベンチに戻る途中でグラブとグラブでハイタッチをした。選手たちには輝く笑顔があった。


 味方のナイスプレイに喜ぶのは良いが、萌乃たち吹奏楽部員にはのんびりしている暇は無い。メガホンを自らの得物に持ち替えて、指揮者西野先生の方を注視する。五回裏の攻撃は、盗塁を阻止したその小山からの打順だ。テーマ曲は昼間であってもムーンライト伝説だ。現在は、風船を限界まで膨らませたかのような蒼穹には昼間の白い月は見あたらない。


「コヤマーン! 勢いに乗って行けー!」


 吹奏楽演奏の途中であっても構わずにヘヴィメタルロック歌手よりも熱く烈しく、幸枝が叫んで恋人にエールを送る。ナイスプレイをした直後は、本人も気分が乗っているので、打てる確率も大きくなるはずだ。小山本人もそのことは分かっているようで、素振りの時点でかなり打てる気満々で気合いが入っていた。


 慌てた様子で、席を外していたユーフォニアムの二年生女子生徒が戻って来た。相手の攻撃時間が思いのほか短かったため、西野教諭に見咎められぬよう肩をすくめて身を屈めるようにして自分の位置に戻って真鍮のアイテムを構えて演奏にそっと加わる。


 女の子向けのアニメソングに背中を押されて小山は、バットを一閃、二閃、三閃。打ち気に逸っていたのを、相手バッテリーに巧みに透かされてしまった。三球三振で、傍目から見て明らかなほどにガックリと肩を落として幽霊のようにベンチに引き上げた。


「何やってるんだーコヤマーン!」


 親密な恋人だからこそだろう。ミスした時の幸枝の罵りも遠慮会釈無く汚い。


 先頭バッター小山の呆気ない三振で勢いが挫かれたのか、あるいは八番九番ということで単に打力が無かったのか、続く二人の打者も簡単に打ち取られてしまった。浅く勢いの無いライトフライと当たり損ねの三塁ファールフライだった。アトムとハレ晴レユカイのほんのさわりしか演奏出来ず終いだった。演奏する側としては慌ただしいだけで、演奏し甲斐の無いことこのうえない。


 萌乃も田辺も、楽器を置いてベンチに座った。座り込んだ。


 五回の裏が終わって、〇対〇のまま投手戦が続いている。実業高校の守備についていた選手達が一塁側ベンチに引き上げると、代わりにグラウンド整備スタッフたちが飛び出して来た。


 主に大会当番校の野球部員たちだろう。ジャージを着た坊主頭の若者たちがT字型のグラウンドレーキを使って、一塁線と三塁線沿いの土を均す。マウンド周辺は三輪の整地自動車を使って同心円を描くようにして激闘の跡を慰撫する。日に灼かれて乾いた土は濛々たる煙となって天を目指している。十人近いスタッフによって引っ張られてきた水道ホースによって散水が行われ、文字通り熱した土に冷や水を浴びせる。


 試合の中で最も長いインターバルなので、球場の雰囲気も少し緩む。場内放送では、違法駐車している車のナンバーを読み上げて、かなり強い口調で移動するよう促している。


「あー、父兄から差し入れをいただきましたー!」


 そう叫びながら、肩からクーラーボックスを担いだ部長が、部員たちに赤い清涼飲料水の缶を配り始めた。コーラだ。萌乃も田辺も受け取り、「ありがとうございます」と部長に頭を下げた。下げてから、お礼を言う相手が違うことに気付いたが、他の部員たちも部長にお礼を言っているようだし、些細なことは気にしない方向に空気が纏まっていた。

 楽器もメガホンも置いて、三五〇ミリリットル入りのアルミ缶を両手で握りしめる。缶の表面に付着した水滴たちが掌に潰されて、冷たさを残して運命線や生命線の溝を流れてどこかへ落ちてゆく。


「コーラ、かあ……」


 呟きが漏れる。飲み物がタダでもらえたのは勿論ありがたい。もらい物だから、好き嫌いを言っても始まらない。だが、自分で持ってきているペットボトル入りのお茶と、どちらを優先して飲むかを考えなければならない。


 今日は暑い。充分に冷やしてあったはずのお茶ですら、もうかなりぬるくなっているほどだ。ということは、今は冷たいこのコーラもすぐにぬるくなるだろう。お茶ならば少しくらいぬるくても飲めるが、炭酸飲料がぬるくなると、それを飲むのは既に拷問である。お茶の方は容器がペットボトルなので蓋をすることができるが、コーラの方はプルトップで缶をを開けたら、後はぬるくなる一方であるだけでなく、炭酸も抜けてしまう。となると選択の余地など無い。


 萌乃とほぼ同時に田辺も同じ結論に至った模様だ。二人は一緒にコーラを開ける。小爆発が起こり、少し泡が零れ出て、慌てて口を付けて吸う。


「……ま、もらい物に文句言っちゃいけないんだけど、できれば炭酸は避けてほしかったなあ」


 前置きしつつもしっかりと文句を言う萌乃に対して、田辺もコーラを飲みながら無言で頷いた。部長はまだコーラ配布を続けている。トイレに行くなどして離席しているためにすぐに渡せない生徒が何人もいるのだ。


 せっかくもらったので、萌乃は頑張って飲む。とにかく強引に、狭い喉を無理矢理押し広げるようにして黒いコーラを流し込む。炭酸が千の針となって喉の粘膜を刺して胃袋へと落ちてゆく。


 長いインターバルを利用して出歩いていた中央高吹奏楽部員たちが三々五々集まってくる。試合開始からずっと気が張り詰めていたので、みんなガス抜きをする必要があるのだ。相手の実業応援団が、グラウンド整備中もずっと小音量ではあるものの演奏を続けていたのとは対照的だ。


 場内放送で、六回表の実業の先頭バッターがコールされて、球場の雰囲気は再び戦闘モードに入って引き締まった。八番打者の、背番号2を背負ったキャッチャーからの打順だった。中央高のマウンドを守るのは、長身の一年生だ。今は萌乃たちは守備側なので、座ったままメガホンを叩いてピッチャーに声援を送る。


「そろそろ荒森も疲れてくる頃かなぁ……」


 萌乃の隣で田辺が呟く。萌乃や誰かに語りかけたというよりは、独り言のようだ。


「……でもまあ、この回はキャッチャーとピッチャーが打順だから。一番に戻るから油断は出来ないけど……」


 目尻に深い皺を寄せて目をきつくつぶりながら、田辺はまだ飲み干していない缶コーラをあおった。演奏モードではないということもあって、田辺もまたインターバルの延長気分で緩んでいる様子だ。


 六回の表。中央高のマウンドには当然一年生荒森。打席に迎えるは、八番打者である、実業のエースピッチャーだった。


 ピッチャーが下位打線の順番にいるということは、あまりバッティングには自信は無いのだろう、と誰でも思うところだ。


 野球場に観戦に来るぐらいには野球に通じている人ならば、下位打線にいるキャッチャーやピッチャーがさほど恐れるに足りないことは当然知っている。投手にせよ捕手にせよ、他の野手よりは守備の負担が非常に大きい。そのため、元から打撃の素質がある選手でなければ、大抵はどのチームでも下位の打順に置かれているものだ。


 が、荒森が投じた初球はジャストミートされ、センターバックスクリーンへ持って行かれた。


 ピッチャーのホームランで実業が一点先制。盛り上がる一塁側スタンド。一塁側ベンチ内の選手たちも大喜びだ。


「ドンマイ、ドンマイ!」


 三塁側の、ベンチかスタンドのどこかで、誰かが叫んだ。


 次の打者は九番。背番号2のキャッチャーだ。キャッチャーがラストバッターということは、こちらも打撃には自信が無いということで、捕手という守備を重視している選手だ。


 ところが、荒森が投じた初球はジャストミートされ、センターバックスクリーンへ持って行かれた。まるで数分前の再現を観ているかのようだった。


 これで〇対二。今度は中央高サイドからドンマイという声は出なかった。


 実業高校打線は一番バッターに戻る。


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