第18話 新たな別の長縄に巻かれる
風が吹き抜けるかのような速度で、テスト準備期間と期末テストは終わった。最後の科目が終了し、ベルが鳴ると共にシャープペンシルを机に置いて、萌乃は両手を斜め四五度に開いた形で突き上げた。白ワイシャツの裾がスカートの腰から飛び出そうになる。ほんの少しだけ、布地に劣らず白い肌がちらりとのぞいた。
期末テストの長いトンネルを抜けると、白い雪国ではなく白熱の日差しが眩しい夏だった。窓からは遠慮がちに風が吹き込んで来が、それと同時に蝉の鳴き声が無遠慮になだれ込んで来る。
テスト期間が終わったので、本日放課後から部活解禁となる。一つの束縛から解放されたと思ったら、また新たな別の長縄に巻かれる。それでも今は、箍があった方が気合いが入るのでむしろ歓迎したい気分ですらあった。他の誰に対してでもなく、夏本番の青空に向かって呟く。
「木曜日って言っていたかな。開会式」
高校野球の聖地、阪神甲子園球場を目指して、三年生部員にとっては最後の夏となる選手権地方大会が、いよいよ幕を開ける。中央高の初戦は、雨天順延等が無く予定通りに日程が消化されれば、大会三日目の第一試合となる。
だから、雨天順延等が無ければ、土曜日に試合ということになる。テストによる部活休止で鈍っていた勘を取り戻す時間が、今週いっぱいということになる。
野球部にとっても。そして、萌乃たち吹奏楽部にとっても。
一日を締めくくるホームルームが終わり、担任の教師が退室して、ようやく期末考査から解放された、という実感がこみ上げて来る。萌乃も、クラスメイトの留実も青木も同じ気持ちを共有している。恐らく全校生徒がそうだろう。これからテストの採点と返却、一部の残念な生徒にとっては追試などの壁を乗り越えた後は、夏休みがもうそこまで来て両手を広げて待ち構えている。
◇◇◇
灰色の空と、地上に咲く色鮮やかな化学繊維の花を結ぶ線は、細い。でも、七月上旬とは思えないほど冷たい。佇む街はひっそりして色を失っているかのようであるが、体育館の緑色の屋根は、ひっきりなしに雨水が滑り落ちることによって寧ろ艶やかさを増して森の新緑さながらに活き活きしているようにも見えた。
昨晩からずっと小雨が降っていたせいか、眠い目をこすりつつ萌乃が朝早くに登校しても、グラウンドを使って練習している部活は無い様子だった。早朝練習が休みだったテスト期間中にせっかく早起きに慣れていた体が、数日経って、元の体内時計に戻ってしまっていた。続々と集まってくる吹奏楽部員たちと挨拶を交わすが、みな一様に眠たげで身体が砂袋のように重そうだった。
校門から昇降口までのアスファルト舗装された道の両脇には、オレンジ色や赤の花が植えられた白いプランターにがいくつも並んでいる。雨に濡れて宝石のように喜び輝いている。水溜まりを避けて歩くと、真っ直ぐは進めない。
上靴に履き替えて、部員たちは一旦自分の教室へ向かう。鞄を置いてくるためだ。薄暗いため、廊下には蛍光灯が点っている。音楽室への階段が、天国へ至るきざはしではなく、茨の道そのものとしか思えない。
萌乃も含めて女子生徒数人の再合流した集団で階段を上っていると、後ろから一年生の男子生徒が「おーはよーぉうごーざいまーす」と間延びした挨拶をしながら追いついてきた。トランペットパートのホープ、田辺だ。
「今日って、ずっとこんな雨が広範囲で降り続けるんでしたっけ」
誰にともなく発せられた田辺の質問。集団の最後尾にいた萌乃がなんとなく答える。
「朝の天気予報では、午前中いっぱいで上がるって言っていたよ」
「そうですか。あ、でも、開会式は朝だからなぁ」
萌乃の横に並んだ田辺が、少し浮かない表情をするが、また顔を上げて明るい声を出す。
「あっ、もしかしたら、開会式の時間を延期するかも。いや、やっぱりダメか。今日の分の試合もあした以降に順延しなくちゃいけなくなるし。来賓の人を待たせるわけにもいなかいから、この程度の雨なら決行だろうな」
心配そうな顔をしてどこか遠くの事象を思い悩んでいる様子の田辺のことが、むしろ萌乃は心配になってしまう。
「どうしたの田辺くん。野球部の開会式のことでしょう」
フレッシュな一年生らしい仕草で、田辺は大きく頷いた。
「はい。荒森は、体は大きくて力も強いけど、かなりデリケートなんですよ。小学生の頃も、ちょっと雨に濡れたらすぐ風邪をひいていた、って自分で言っていましたから」
額に貼り付いている湿った前髪をかき上げつつ、田辺は肩を小刻みに震わせた。純白のワイシャツは湿り気を帯びて重たげで、見るからに肌寒そうな様相だった。
「さあ。大丈夫じゃないのかな。一年生であっても選手としてベンチ入りメンバーになったなら、その辺の体調管理はちゃんとやるんじゃないのかな。田辺くんがわざわざ心配することじゃないと思うよ」
ここぞとばかりにお姉さんぶった口調で言う。トランペット演奏の技術では年下の田辺の方に一日の長があるが、あくまでも三年生の萌乃が年上で先輩だ。
「そうですよね。ボクが心配するのは大きなお世話でしょうね。……それよりもボクとしては、小泉先輩の方が心配なんですけど」
気が付いてみると、いつの間にか萌乃と田辺のトランペットパート二人きりの対話構図になっていた。他の部員たちは、少し先を進んでいて、期末テストの出来具合を話題にしていた。
「斎藤先輩と仲直りしたんですか? してないですよね。何やってるんですか。部長も心配していますよ」
一方的に詰る口調で言われて、萌乃は口元をへの字に曲げて不機嫌の丘を作った。言われなくても、早く仲直りしたいという気持ちは萌乃も抱いている。だが、これこそデリケートな問題で、迂闊に踏み込み過ぎて勇み足となり、そのまま底無しの泥沼へとはまり込むのを恐れるあまり、きっかけの第一歩を踏み出せぬのだ。
「昨日、練習が終わった後で、たまたま斎藤先輩と会ったんですよ。テストの手応えが悪かったって落ち込んでいました」
利き手を骨折して日常生活にさえも不便を来すようなありさまの斎藤幸枝なのだから、テストの出来が悪くてもやむをえないだろう。平然と開き直って良いことではないにせよ、極端に落胆する理由にはならないと思えて、それが萌乃には不思議だった。
「なんか、他の教科はそれほど悪くなかったけど、世界史がヤマが外れて失敗したって言っていました。まだ結果が返って来たわけではないから正式には分からないけど、それで彼氏との賭けに負けたのが確実だということで、なんだか野球部の応援の時にイヤな約束を果たさなければいけなくなったとかいうことで、今から憂鬱だとぼやいていました。なんか斎藤先輩『どよよぉぉん』って擬音語があてはまりそうな感じで、凄く重苦しく沈んでいました」
約束、というのが何なのかについては、幸枝は言葉を濁して明言しなかったという。応援といっても、手を骨折している幸枝は、本業のトランペット演奏はできず、臨時チアガールである。それに高校野球連盟の規約で、応援方法についてはこと細かに制限されていて、幸枝の彼氏である小山が何を企んでいるのかは不明だが、あまり奇抜なことはできないはずだ。昔は甲子園でも使われていたけれども、大漁旗も現在は使用禁止と明記されている。他にも、着ぐるみや女子生徒のサラシなども相応しくないので使用してはいけないということになっている。女子生徒が学生服を着て応援するというスタイルは、中央高では採用されていないし、臨時チアガールの吹奏楽部員たちも、当然ながらスポーツブラを着用して踊るはずだ。
階段の踊り場の小さな窓にも、雨水が粒になって貼り付いていて、いくつかが集まって束になったら流れ落ちている。周りをコンクリートに囲われている小さい枠からは、高所からの見晴らしは得られず、ただ灰色に曇った雨空が見えるだけだ。
「なんで、期末テスト期間中にちゃんと仲直りしなかったんですか。土日も挟んでかなり長かったのに。今日明日中には電話でもメールでもいいから頼みますよ。雨天順延が無ければ、土曜日の第一試合なんですから」
日本の夏の風物詩の一つでもある、高校野球選手権大会。地方大会の開会式がもうすぐだ。都道府県によって地方大会の開催時期はかなり前後があるものの、七月下旬までには、全国の参加校の中から、高校球児の夢舞台である甲子園に出場する代表が決まる。今、まさに、北から南まで列島各地で青春の熱戦が繰り広げられている真っ最中だ。
吹奏楽部の、野球応援のための練習も、今週がラストスパートだ。野球部が勝ち上がればそれ以降も演奏の機会があるが、とにかく一期一会の精神で演奏しなければならない。西野教諭の指導の下では、安易な妥協は容認されない。
野球部は一球入魂。吹奏楽部は一音入魂。
話している間に、階段を上りきって音楽室に到着した。既に多くの部員が集結していて、めいめい自分の楽器の音出しを始めている。みな、テストが終わってようやく楽器を吹けるということで、ブランクを取り戻すためにも気合いを入れているのだ。
無駄な私語をしている者は見渡す限り一人もいない。西野教諭がその場にいなくても、秘密警察以上にどこかで目を光らせているからには、決して油断はできないということを吹奏楽部員たちはみな知悉していた。
結局、後輩である田辺の問いかけにきちんと返答することなく、萌乃は楽器の準備を始めた。田辺も、トランペットを組み立てる段になると萌乃に構ってばかりもいられなくなるので、萌乃の隣で黙々とケースを開けてパーツを組み立てる。楽器を収納するケースは、顧問教師の指導の賜でよく磨かれてあり、当然ながら窪みなどに埃が溜まっているということは無い。
演奏以前に、手際よく楽器を組み立てたり分解したりするのも、野球応援の時に必要となる重要なスキルだ。今年の中央高は、雨天順延などによる大会日程変更が無い限りは初戦が第一試合になる。よって、準備の方はある程度余裕を持ってできるが、片付けは手早く済ませなければならない。第二試合に登場するチームの応援団との入れ替えがあるから、もたついて撤退が遅れれば迷惑となってしまうのだ。そうなれば自ずと、真夏の積乱雲より烈しい西太后の雷が落ちる。
楽器を組み立てると、自然に気持ちも引き締まる。出す音に自らの魂を籠めなければ、西野先生にも怒られるし、野球部へパワーも伝わらないし、演奏する自分自身が納得できない。萌乃だけではなく、野球応援メンバーに選出された全員の、アンサンブルとして一つに纏まった気持ちだ。
昨日でテスト期間が終わったので、早い教科では今日から、テストの結果が返って来る。そちらも気になるし、テスト休みというブランク挟んでの野球応援演奏の仕上がりも気になる。もちろん、もうすぐ始まる夏休みも楽しみだし、八月上旬に行われる吹奏楽コンクールの地方大会もいよいよ目前に迫ってきたという実感が満潮のようにじわじわと押し寄せてくる。
やがて音楽室の前の引き戸を開けて西野教諭が入ってくる。その段になっても部員たちは寸暇を惜しんで音出しを続けているが、教壇に立った独裁者が右手を挙げると、際だった練度の高さを発揮して一瞬で音は消え、水を打ったような静寂が室内を支配する。窓の外の雨音が微かに残る。
「おはようございます」
西野先生が軽く頭を下げると、部員たちはいっせいに「おはようございます」と返す。中央高吹奏楽部では、朝練においての顧問に対する挨拶のタイミングも厳格にルール化されている。
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