第17話 テスト期間という魔境


 あからさまな口約束だった。家で自主練習をします。言うだけならタダだ。だけど自宅ならばさすがに西太后の目も届かないし、幸枝がチェックすることもできないし、本当に自主練習をしているかどうかなど、本人以外は知りようが無い。


 幸枝は鞄を握りしめる手以上に力を籠めて歯を食いしばった。本来ならば三年生の幸枝が、一年生相手に言い負ける道理など無い。一対一だったら先輩風を吹かせて権力を振りかざせばそれで良かった。三人を同時に相手にしようとしたのが幸枝の痛恨の失策だったのだ。数的優位に勢いを得て、一年生たちはここぞとばかりに先輩に対して牙を剥いた。


「分かったわよ。家に帰っても自主練習をするというあなたたちの言葉を信頼するわ。かわいい後輩ですものね。サヨウナラ」


「さようなら斎藤先輩」


 三人はその場に幸枝を残して校門を出た。どこか意気揚々とした足取りに感じられるのは、見送る幸枝の偏見の目のせいであろうか。おそらく彼女たちは真っ直ぐ帰宅するのではなく、街へ繰り出して楽しんでくるのだろう。青春の音符たる蝌蚪は、カエルになる日を夢見てモラトリアムの井戸から自由の大海へ飛び出した。


「おい、どうしたんだよ。そんな所でぼうっと突っ立って。帰らないのか?」


 振り返るまでもなく、幸枝には声の正体が誰であるか判別できていた。付き合っている恋人の声と口調を聞き間違えるはずがない。


 髪を靡かせながら振り向き、太陽のような笑顔を浮かべた。恋人にはやっぱり良い顔を見せたいし、自分の葛藤を恋人に背負い込ませたくはない。小山にしても、期末テストを目前に控え、そのすぐ後に野球部の正捕手として最後の夏を迎える。今後の人生の中で早死にしない限りは幾度も夏を迎えるであろうけれども、それでも高校三年生として今回の夏こそが最後という名を冠する唯一の夏になるのだ。


「なんでもないよコヤマン」


「なんでもないって……何も聞いていないのに何があったってんだよ?」


「い、いやだから、なんでもないよ。それより、対馬はどうしたの?」


 幸枝の笑顔がやや引きつった。鼻の穴が望みもしないのにまた少し広がってしまった。それでも小山が単純だったので、幸枝が自ら掘った墓穴を塗り固め埋めて強引に話題転換することに成功した。


「対馬はさっさと帰ったぞ。自転車が調子悪くてスピードがいまいち出ないから、近所の自転車屋さんに見てもらうって」


「ふーん……あ、あの一年生ピッチャーの荒森くんって、勉強の成績はいいの?」


 小山は坊主頭を斜めに傾げた。よくよく見ると、坊主頭とはいっても雨上がりの雑草のように少し伸び気味だ。


「さあ、あいつが勉強できるかどうかなんて知らないけど。なんで幸枝が荒森の成績を気にするわけ?」


「だって荒森くんは、中央高躍進のために欠かせない期待の二枚看板ピッチャーなんでしょう? もし期末テストでボロボロの赤点を取って追試地獄に追い込まれちゃったら、野球の方に集中できなくなっちゃうかもしれないでしょ」


 言われて、小山はがっちりした上体を少し反らせて「ほぅぅ」と発声した。


「それは……本人に頑張ってもらうしかないな。でも中間テストの時も、あいつは追試地獄落ち武者リストに入っていなかったみたいだから、大丈夫じゃないかな?」


 曖昧ではあるが、先輩であり女房でもある小山が太鼓判をおしたのだから、荒森が期末試験で没落することはないのだろう。後輩三人組との口論で強張り気味となっていた幸枝の表情が柔らかく緩んだ。眉尻が自然に下がる。


「人の心配より自分はどうなんだよ。手を骨折していたら、吹奏楽の演奏どころか、色々大変だろう」


 大きく頷きつつも幸枝は、バウムクーヘン生地のように幾重にも重ねて包帯を巻いた手を、小山の鼻先に掲げた。ミイラ状態を見せつけて自慢するかのように堂々と。


「そのことでは、もう弱音は吐きたくないんだよ。日常生活だって困るし、勉強だってはかどらないけど。テストも、なんとか普通に受けるつもりだよ。その気になれば、テープか何かでグルグル巻きにして鉛筆を手に固定するとか、方法はあるよ。野球のピッチャーとして時速一五〇キロの剛速球を投げるとかは怪我した状態では無理だけどさ」


「一五〇なんて、骨折どころか、万全で絶好調でも投げられないよ」


「あっ、そうなの?」


 恥ずかしげな様子で、幸枝は頭の後ろを掻く振りをした。包帯を巻いた手では本当に掻くことはできない。


「でも一週間勉強漬けだと気がめいるなぁ。たまにカラオケでも行きたいよ、とか言っちゃダメなんだっけ」


 遊びに行きたい気持ちが湧き上がって来ても、今は重要な時期と自らに言い聞かせて抑制しなければ、先ほどの意識が低い一年生三人組と同じになってしまう。


「そういえば俺たちも、最近は全然遊びに行ってないよな。お互い練習が忙しいのもあるし、幸枝は骨折しちゃったし」


 思い出したくなかったが、その事実に突き当たってしまった。美男美女、とは言い難いものの、小山と幸枝は恋人として付き合っている。デートができていないので、青春を謳歌している状態ではなかった。僧侶のような禁欲生活をするために恋人設定としたのではないのだから、二人とも現状には欲求不満を抱いている。


「じゃあ、期末テスト終わったら、カラオケでも行くか。幸枝、最近新曲覚えたか?」


「あの一〇歳の女の子がラップ歌手としてデビューしたっていう曲は、ネタとして歌ってみたいけど。でもテストが終わったらすぐ大会始まっちゃうでしょ。しかも初戦の相手が実業なんでしょ」


「じゃあ、大会が終わってから行こうや」


「大会って、いつ終わるのよ?」


 恋人が発するど真ん中のストレート。キャッチャー小山は受け取ったとも受け取り損なったともつかない態度で言葉に詰まった。


「いやそりゃ、ほら、決勝戦で勝ったら終わりだろ」


「決勝戦まで行けるほど、ウチってマジで強いの? それならそれで嬉しいけど、決勝戦で勝っちゃったら、今度は甲子園に行くんでしょ。だったら色々準備とかあるだろうし。それくらいの時期にはアタシたちの方が吹奏楽コンクールの地方大会が始まるから、追い込みで忙しくなるから」


 小山は俯いてしまい、アスファルトにできたひび割れから生えてきている小さな雑草をスニーカーで軽く蹴った。名も知らぬ柔らかい雑草は、千切れも倒れもせずにそのまま立っていた。高校生にとって部活と勉強の両立は重大な命題だが、それにプライベートも加えて鼎立させるとなると、高校三年間は短いものであって、まったりしている余裕は全く無くなる。


「じゃあ地方大会が終わってからにしよう。甲子園に出る準備があるって言ったって、ちょっと一緒に食事して二時間くらいカラオケするくらいの時間は作れるだろう。その頃にはもう幸枝の手も治っているんだろう? そうでないと吹奏楽部の出るコンクールに出場できないだろうしなあ」


「ああ、カラオケだけじゃなくて、アタシとしてはぜひともカフェ・トゥルヌソルにも行っておきたいなあ。そのくらいの頃には、何か新しいスイーツメニューが出ているはずだから」


 甘い物には弱い。口元が綿のようにほころんで幸枝の表情がスイートになる。対照的に、小山はいかめしい顔を更に渋い色合いで上塗りした。


「ああでも、その約束はやっぱりできないかな。悪いけど」


「えっどうしてよ?」


 荷物の入ったリュックは背中に担いでいるので両手がフリーの小山は、右打者がバットを振る動きをした。シャドーバッティングでは、全ての打球はバックスクリーンに命中するホームランだ。


「漫画や小説では、『俺、この戦いが終わったら田舎に帰って結婚するんだ』と発言したキャラは、その戦いで戦死してしまうという法則があるっていうもっぱらの噂だぞ。だから、『この大会が終わったらデートする』とか約束したら、大会で初戦でコールド大敗とかしちゃいそうじゃねえか」


「なぁに? そんな法則なんてアタシは聞いたことないわよ。少年漫画だけの法則なんじゃないの?」


 外人のような仕草で両手を広げて方をすくめた小山は、棒読み英語で「オー、ノー」と呟きながら今度は送りバントの仕草をした。


「なんか俺、関係代名詞ヤバイよ。ちょうどその授業中に、眠くてウトウトしていたんだよな」


 幸枝としては弱々しく首を横に振るだけだった。いかに恋人のこととはいえ、自分の勉強は自分で頑張ってもらうしかない。幸枝にしたところで、ただでさえそれほど成績優秀というのでもない上に手の骨折というハンディを抱えているので、自分の勉強だけで精一杯であり、他人に教えるような余裕は無かった。


 二人は話しながらゆっくりと校門へ向かう。並んで歩くのも、二人きりの時間を持つのも、しばらくぶりのようにお互いに感じたせいか、会話が少しぎこちなかった。


「そ、そういえば、この前頼んだこと、考えてくれたか? 試合当日の応援でやってもらいたいって言ったこと」


 話題を思い出した小山が勢い込んで持ちかけたが、幸枝は右手を掲げて痛そうな顔をした。


「じゃあ、何を条件にしたらやってくれるんだよ? あのカフェ・トルソとかなんとかいう喫茶店のスイーツメニューを完全制覇するまでおごる、なんてのはどうだ?」


「イヤよ……あー、それだったら、いっそのこと、賭けをしない?」


「賭け?」


 緑深く葉を繁らせた大きなプラタナスの横で、小山は立ち止まって鸚鵡返しした。頬を緩めて、幸枝が悪戯っぽい笑みを浮かべる。大きな口の端が上がる。


「そう。もし今度の期末テストの英語の点数で、コヤマンが私に勝ったら、この前言っていたことを試合当日にやってあげる。その代わり私が勝ったら、スイーツ完全制覇までコヤマンがおごるってことで。お店の名前はトゥルヌソルだからね」


「英語は最初っから無理だよ。幸枝が骨折しているというハンデがあったとしても勝負にならないよ。……うーん、世界史ならどうだ?」


 二人はまた歩き出す。生まれて初めて雪を見た子犬のように、慎重に先の様子を窺うような足取りだ。楡の木、赤松の木を通り過ぎる。木の名前が書かれている小さな白い看板を横目に、幸枝は脳内において電子の速度で計算をしていた。幸枝にとっては英語に比べたら世界史はやや苦手だ。それでも、手の骨折という要素を差し引いたとしても、小山に負けるとは思えない。小山は英語も世界史も大した良い点数を取っていないはずだ。万一のリスクこそ背負うものの、実質的にスイーツ完全制覇をゲットしたも同然だ。


「いいよ。分かったよ。世界史で勝負しようよ」


 対決の概要が決まったところで校門を出たので、幸枝と小山は右と左の道に別れた。帰り道は別々の方向だ。


 しばらく一人で歩いてから幸枝は、もしも世界史のテストが同点だった場合どうするかを未設定だったことに気づいた。気づいたが、同点に追いつかれることすらありえないだろうという確信のもと、思考の下水処理場へ流した。


「コヤマンに負けることはないにせよ、勉強は頑張らなくっちゃ」


 街路樹が作る影は小さく、日光の暑さを遮るトンネルとはならないが、全ての中央高生は雪国へ至る国境のトンネルよりも暗くて長いテスト期間という魔境へと突入したのだ。


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