第16話 自己主張と価値観の押し付け合い


 幸枝は激怒した。


 中学校時代に国語の授業で、太宰治の『走れメロス』を習った。その冒頭の一文が「メロスは激怒した。」だったと記憶している。記憶力にさほど自信があるわけではない幸枝だが、それでも覚えているというのだから、読者の印象に残る文章だったということだ。


 文章は覚えていても、内容まできちんと記憶しているわけではなかった。メロスが怒っていた理由は今となっては朧気な靄の彼方である。だが、今、この瞬間に、幸枝自身が激怒している理由は自分できちんと冷静に認識していた。


 期末テスト一週間前ということで、本日から全ての部活は休止となった。勉強に専念するための部活休止措置である。。放課後になって、靴を履き替えて昇降口を出た幸枝が、偶然に吹奏楽部の後輩三人組を発見した。彼女たちの着ている白セーラー服は、まだ真新しさが残っていて白さが眩しい。高校に入ってから吹奏楽を始めたばかりという初心者一年生なので、三年生と比較すると、どうしても吹奏楽に対する心構えが甘い部分があるのはやむをえないところではあった。


 強い日差し。生き急ぎぶりを競い合うような蝉時雨。白いソックスに包まれた彼女たちのふくらはぎは、若鹿のように活力を秘めていた。


「部活無くて超ラッキーだよね。期末テスト万歳だよ」


「なんか、もう、ね。あの西太后の顔を見なくて済むってだけで、ウチは天にも昇りそうな心境だわ」


「言えてる言えてる」


「『いいですか皆さん。私は音に対しては一切妥協を許しません。実力の無い人は、遠慮無くメンバーから外しますから、その覚悟でお願いします』とか言っちゃったりしてね」


 大した似てもいない西野教諭のモノマネに、他の二人がお腹を抱えて爆笑した。


「ねえどこに遊びに行く? ゲーセン行かない? ウチ、クレーンゲームでゲットしたいぬいぐるみがあってさ。くまー!」


「いいねー。あーでもその前に、超暑いからさ、アイスクリームでも食べてから行こうよ」


「あー賛成賛成! あたし宇治金時がいいなー」


 テスト勉強のための部活休止を、一年生仲良し三人組は、遊びのために使おうとしていた。


 その三人組が、普段の部活動の時に熱心に練習に打ち込んでいて実力も伴っているのならば、幸枝もさほど目くじらを立てなかっただろう。だが、一年生三人組は、幸枝のパートナーであった。つまり、楽器を奏する実力が無いため、絶対君主西野教諭のお眼鏡にかなうことなく演奏メンバーからは除外されてしまい、吹奏楽部であるにもかかわらずチアガールのユニフォームを着て黄色いポンポンを持って踊る役目に回されてしまっていた。


「ちょっと待ちなさいあなたたち今遊びに行く相談していたでしょテスト勉強はどうしたの部活休みといっても遊びに行くための休みじゃないんだからね勘違いしないでよね」


 息継ぎする暇すら惜しみ、幸枝は一気に言い放った。楽器を演奏するときは息継ぎする場所が定められていて、そこで息継ぎし損ねると脳が酸欠状態になって苦しいし、音も乱れて西野教諭に睨まれてしまう。自分の自由な言葉は、自分の自由な息継ぎペースで発したい気分だった。


 何故、先輩が目をいからせて自分たちに怒鳴りつけてきたのか。一年生の女子生徒三人には、全く理解できていなかった。みな一様に鳩が豆鉄砲を食ったような表情を浮かべていた。


「斎藤先輩。もちろん、勉強だってしますよ。赤点取ったらさすがに超シャレになりませんから」


「あー、ウチは、自慢じゃないけど結構成績いいんですよ。日頃からマイペースで勉強しているし、テスト前だからって特に慌てて勉強する必要なんて無いです。今度の期末テストだって、確実に上位に入れる自信ありますよ」


「勉強……しますよ、します。でも今はちょっと、アイスクリーム分が足りないかなー、って思うだけでして」


 校門に向かうアスファルト道の上で立ち止まって問答する吹奏楽部女子四名を追い越して、坊主頭の大柄な男子生徒が足早に行く。「超」が口癖の女子生徒が「あ、荒森くんバイバイ」と手を振った。男子生徒も軽く手を挙げて応えた。


「あなたたち。今の吹奏楽部の状況を分かっている? 遊びに行く余裕なんか全くこれっぽっちも無いんだよ? 西野先生は、テストの成績があまりにも悪いような生徒は、容赦なくメンバーから外すんだよ。分かっているでしょ?」


「分かってます分かってます。でもあたしたち、メンバー外されたからチアガールになっちゃったわけで。これ以上外されようが無いですよね。それとも強制退部とかあるんですか?」


 強制退部処分が現実に下されるケースがあるかどうかは、中央高吹奏楽部に二年半在籍している幸枝も知らなかった。飲酒や喫煙などといった不祥事を起こせばありうるだろうが、勉強の成績不振を理由に強制退部というのは、いかに君臨者が西太后であるとはいっても、あまり現実的とは思えなかった。


「や、野球応援はともかく、八月になったら吹奏楽コンクールの地方大会だってあるんだから。だから、テスト期間中は勉強に集中しなくっちゃ。そして、勉強の合間には、チアガールとしての踊りの練習も怠らないようにしてよね」


 後輩三名は怪訝そうな表情をし、お互いに顔を見合わせた。立ち止まっている女子生徒四人をよそに、他の生徒たちは次々と下校して行く。部活動が無いからには、校内に長居していても先生に注意されるだけだ。


 強い日差しが、幸枝の腕を灼く。ヒリヒリヒリヒリと音を立てているようにすら感じる痛み。それが心中の苛立ちと呼応する。


「斎藤先輩。誰だったか昔の偉い人が『よく遊び、よく学べ』って言っていたじゃないですか。だからよく遊んでから、超しっかり勉強しますから。ご心配には及びません」


 風に踊らされる前髪を指で軽く払いながら、「超」が口癖の一年生が慇懃な口調で言った。


「いやだから、『遊んで勉強する』じゃダメなの。『勉強してチアガールの練習をする』、で行かなくちゃ」


 少し鼻の穴をふくらませながら上から目線で言う斎藤幸枝先輩に対して、一年生三人は明らかに迷惑そうな苦りきった表情をしていた。最初のうちは内心で先輩に対して反感を抱いているのを隠そうとしていたが、ここにきて隠しきれなくなってきたし、隠すつもりもなくなってきたのだ。


「勉強はともかく、チアの自主練習まで強制されたくはないです。これが吹奏楽の演奏そのものだったら少しは分かるけど、……ウチらの担当は吹奏楽部でありながら踊りですからね。たぶん当日は、男の人にアンスコとか見られて、かなり恥ずかしい思いをするんですよね?」


「そうそう。盗撮とかされてなきゃいいけど。まあ、あたしみたいなブスを盗撮するような奴はいないでしょうけど」


 後輩たちの台詞には常に、日陰の負け犬根性に染まった皮肉が籠められている。中央高に晴れて合格し、夢と希望を抱いて吹奏楽部に入ったはいいが、せっかくの野球応援で演奏パートから外されて、よりによってチアガールとして踊らなければならない。落胆する気持ちは幸枝といえども理解できないではない。怪我のせいとはいえメンバー入りできなかった悔しさは、三年生で「最後の夏」である幸枝の方が遥かに上であることは論をまたない。だがメンバーに入れなかったからといって腐ってしまい、チアガールとして踊る役目を軽んじた発言をし、そういった行動をする。そういった一年生たち三人の態度が幸枝の神経を更に逆撫でする。


「踊りの練習をしたくないなら、しなくてもいいわよ。各自の家のスペースの都合とかだってあるかもしれないし。だったら、勉強だけに集中して学年内でトップクラスに入るくらいの点数を取ってみなさいよ」


 三人は、一瞬黙った。アイコンタクトだけでそれぞれの意見集約を果たし、アイスクリーム好きの女子生徒が代表して言葉を発する。


「あたしは、もともと成績イマイチだから、頑張っても上位に行くのは無理っぽいです。だから、ちょっとくらい開き直って、ちょっとくらいなら遊んでもいいですよね?」


 幸枝の基準からすると、彼女に開き直り具合はちょっとぐらいではなく、一八〇度開脚くらい大胆なものだ。


「斎藤先輩、私は、入試ではいい点数を取れたものだから、油断しちゃって。中間テストの成績が超ひどかったんですよ。両親にも超厳しく怒られちゃって。今度の期末テスト、超本気で行かないとまずいんですよ。だから、斎藤先輩にわざわざ言われるまでもなく、勉強は頑張りますので。できれば後輩だからって過剰に干渉しないでいただけると超ありがたいです」


 会話の内容は、外務大臣同士のような感じになってきた。表向きの字面は丁寧で礼儀を弁えてはいえるが、内容は自己主張と価値観の押し付け合いだ。もちろん、三対一という数的劣勢にあっても、三年生の誇りにかけて斎藤幸枝は一年生たちに言い負けるわけにはいかなかった。


「上位で中央高に合格できたなら、油断さえしなければ良い成績を維持できるわよ。余裕があるのなら、勉強の合間に、チアガールの練習も忘れないでほしいのよね。でも、テスト前一週間というこの時期に、部活が休みになったからといって喜んで繁華街へ遊びに行きます、っていうのは、油断以外の何物でもないんじゃないの?」


 言葉の応酬が一瞬止まる。でもあくまでも一瞬だ。言われた側もその短時間で反撃の手段を考えて、二の矢三の矢を番える。吹奏楽部員の小泉萌乃が、四人を横目に歩き去って行った。四人の議論の温度は、梅雨前線を北に押し上げて夏を運んでくる白南風よりも熱い。取り込み中のところを邪魔しては悪いと思って、萌乃は遠慮して声をかけずに通り過ぎたのだ。


「斎藤先輩、こっちの二人はともかくとして、ウチは期末テストで成績上位に入る自信ありますよ。それで、斎藤先輩だって、そこまで言うからには、当然成績上位に入るんですよね?」


 幸枝は鞄を握る手に力を籠めた。骨折したもう片方の手にも無駄な力が入ってしまい、響くような痛みが最後の夏の悲劇を歌い上げる。


 後輩に対して偉そうに説教するからには、幸枝自身は期末テストの勉強を頑張る決意だった。だが頑張ったからといって良い成績を取れる見込みがあるわけではなかった。元々、幸枝はさほど成績優秀ではなかった。それでもこの言い争いで譲ることはできないので、自分に不利な話題は強引にスルーする。


「あのね。三人ともよく聞いてよ。私たち高校生は、青春という壮大な交響曲の一瞬一瞬を奏でている音符なのよ。分かる?」


 三人の一年生たちは、一様に口を半開きにした。声には出ていないけれども「はぁ?」という透明な疑問符が浮上する。話題が急に抽象的な方向へワープした。


「音符というのは、その形からオタマジャクシにもたとえらえるでしょ。つまり音符たちということは、オタマジャクシがこれから成長して立派な大人になるということ」


「斎藤先輩、それ、何かの本の受け売りですか?」


 度胸のある一年生が禁句ともいうべき質問を放った。先輩に対する遠慮すらかなぐり捨てた、まさにミサイル攻撃だったが、幸枝の方もミサイル迎撃手段を用意してあった。


「もしかしたら何かの本の言葉にでも感銘を受けて、頭の中に残っていたのかもしれない。それは否定しない。でも、今言っていることは、仮に何かの影響を受けているにしても、最終的には私が自分で噛み砕いて、その上で再構築して言っている自分自身の言葉よ。それを、あなたたちがどう受け取って、どう自分の血肉にして行くか、それはあなたたち次第だけど」


 あまりに斜め上を行く方向性で幸枝が熱く語るので、三人の一年生は置き去りにされて、かえって温度差が生じているようでもあった。だが、愚直なまでに真っ直ぐな熱さは、少しずつではあるがそれでも確実に、放射熱のように直裁的に後輩三人の胸を熱くして行ったのだった。


 要は根負けした、あるいは夏の日差しが降り注ぐこんな所で不毛な議論をしている時間がもったいなく思えたのだ。


「分かりました分かりました。斎藤先輩がそこまで言うなら、勉強の合間に体を動かすぐらいはしてみようかと思います。ね、チアガールやる四人みんなで、そうしようよ」


「そ、そうだね。ウチも約束します。勉強の合間に踊りの練習をします」


「あ、だったら私も。青春の音符として、入試の時くらいの成績は取ってみせますから。って、三人が全員、踊りも頑張るって約束したから、これでいいんですよね斎藤先輩?」


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