第15話 不惜身命、堅忍不抜


 言って幸枝はミニスカートの裾を、ポンポンを持ったままの左手で摘んで引っ張った。骨盤に支えられたベルトの位置はそれより下がらず、太腿の露出度は変わらないままだった。屋外なので、音楽室とは違って常に空気は対流していて風が舞っている。シルフの妖精は、素肌の汗を撫でて涼しさを運ぶけれども、スカートの裾をくすぐる悪戯者でもある。


「でもせっかくやるからには頑張ろうよ。それにここで頑張らなかったら、自分のやるべきことに対してきちんと努力しないヤツだ、って西太后にレッテルを貼られちゃうよ。そうなったら、中央高の吹奏楽部では永遠に浮かび上がることができないんだからね。肝心の吹奏楽コンクールの方でも、メンバー入り選考で不利な扱いを受けちゃうよ。今年だけの話じゃなく、あなたたちには来年以降の影響もあるんだから」


 経験に基づいた三年生の言葉は重い。姦しい一年生三人は黙り込んでしまった。


「さ、やろうよ。どうせアタシたちは即席メンバーだし、朝練もやっていないから短期間ですごく上手くなるのは不可能かもしれないけど、せめてスタンドに華を添えるくらいにはなろうよ。これだって、ちょっと苦々しいけど青春の想い出として一生の記念になるよ、きっと」


 幸枝の声は、モーツアルトの曲のように明るかった。同時に「なんか軽いな」と傍から聞いている萌乃は感じてしまった。幸枝が言っていることは嘘ではないのだろうが、心からの本音ではないのだ。そうやって前向きに現在の状況を捉えなければ、怪我で演奏に参加できない幸枝自身が潰されてしまいそうなのではあるまいか。


 田辺に言われていたように、幸枝と和解したい。でも、今、話しかけるのは無理だ。幸枝たちはチアガールの練習として限られた時間で頑張っている。


 足音を立てないように過剰なほどに神経を使いながら、萌乃はそっとその場を去った。学校の敷地を出ると、ねずみ色に輝くアスファルトから立ち上る金色の陽炎が、妖怪子泣きじじいのように重く抱きついてきた。


 真夏の跫音が日向にも日陰にも満ち溢れていて、風が吹いても流れ去って行きそうになかった。萌乃は、自身の足音に追われるような焦燥感を抱えながら孤独に走り続ける。汗が流れて、Tシャツの生地が肌に貼り付く。走れば胸が揺れて気になる。一七歳女子高校生基準で考えれば、萌乃は胸が大きい方ではないが、小さくもない。炎天下でランニングをすることなど想定していなかったため、スポーツブラなど当然用意しておらず、普通の薄ピンクのブラジャーだ。


 荒く息を吐く。水槽の金魚が水面近くで口をパクパクさせているかのように、萌乃も大きく口を開けて空気を貪り取り込む。最初こそは、白Tシャツの下のブラが透けてしまわないだろうかと心配もしていたのだが、やがてそれどころではなくなる。炎天下でのランニングは、萌乃の肉体から急速にパワーを吸い出してしまう。


 中学時代に中距離を経験していても、ランニングは楽なものではない。首が揺れて、髪の毛も千々に乱れる。


 自分が吐き出している二酸化炭素含有量の多い熱い息こそが、地球の夏を更に熱くしているように萌乃には思えた。


 走り込みなんて。陸上部ではなくて吹奏楽部なのに。これではまるっきり、文化系ではなく体育会系だ。


 道路に出れば、車も行き交うし、自転車も走る。犬の散歩をしている人もいる。風も通り抜ける。あまり涼しくは感じられないが、その風を全身に受けながら、萌乃は雑念を振り切るようにして走った。


◇◇◇


 いつも通りに早起きをして、テレビでちらっとだけ気象情報と占いを観てから、いつも通りに家を出て学校へ向かう。何故か、萌乃の通学路は一人という状態が普通になりつつあった。赤煉瓦の待ち合わせ場所を過ぎても、吹奏楽部員の同じパートとして苦楽を共にしてきた彼女の姿は無い。


 もうかれこれ何日、自分だけの歩幅でこの道を歩いているのだろう。


 わずかな傾斜であっても上から下へ向かって水が流れるように、季節は春から夏へと移り変わって行きつつある。時に時間が遡行しているかのように薄寒い日もあるけれども、今日は暑くなりそうであり、早朝の時点で既に日差しは強かった。今シーズンの半袖の白セーラー服も板についた。二の腕の真ん中、袖と素肌の境界線を風が優しく撫でるのが少しくすぐったい。


 学校に着いても萌乃は、いつもよりも人が少ないことに気づかなかった。教室に鞄を置いて、音楽室に上がってからようやく思い出した。今日から期末考査の一週間前ということで、全ての部活は活動停止であったことを。勿論、放課後練習だけではなく、昼休みの練習も早朝練習も禁止である。


「そうだった失敗したぁ」


 しっかりと施錠されていて無言で萌乃を拒絶している音楽室の扉。萌乃はその前にただ立ちつくして呟くだけだった。


 無理して早起きすることにより削られた睡眠時間を惜しみつつ、萌乃はUターンした。今日から部活休止であることを失念して間違えて早く来てしまったのは、萌乃だけだろうか。他の部員が来る気配は無い。


 教室に戻り、テスト前であるからには勉強することにする。いつもは五線譜上に並んだ音符たちとにらめっこしている時間が丸々自習時間となってしまった。突然与えられた時間の大海は、もてあますのも惜しい。先ほど、机の上に無造作に放り出してあった鞄に右手を差し込み、最初に触れた教科書を引き出してみる。


 世界史。


 無言で、鞄の中に戻して再抽選とする。なんとなくではあるが、対馬によって落書きの洗礼を受けてしまった世界史教科書は、今日の萌乃にとってはアンラッキーアイテムであるかのように思えてしまった。そもそも世界史のような暗記科目は、今から丸暗記したとしても、肝心の試験当日には忘れてしまっているだろう。灰色の脳細胞に刻まれた記憶の賞味期限は豆腐よりも生クリームよりも短いものだから、試験前日ぐらいに一気呵成に覚えてしまうのが得策だ。


 二番目に当たったのは数学だった。まとまった時間がある時に勉強する科目としては妥当なので、ノートと筆記用具も発掘する。間違って早く登校してしまったのが悔しいので、せめて有意義な勉強をしたいところだった。


 複雑な公式を暗記できているかどうかを確認し、その公式を使って例題を解いてみる。四分音符や八分休符の代わりにアラビア数字やエックスやワイなどといった文字と格闘する。朝、早いにもかかわらず、南向きの窓からは若鮎のような活きの良さで日差しが滑り込んで来る。萌乃以外はまだ誰も来ていないため、当然ながら窓は開いていないしカーテンも閉められていない。


「よし。これで解けた。答え、合っているかな」


 勉強をするには、やはり集中しなければならない。部活のことや、友達関係も重要ではあるが、高校生である以上すべからく勉学こそが本分であるべし。進学校の一員として、萌乃もまた大学進学を希望している。真珠湾攻撃や宣戦布告が無くても、受験戦争は既に始まっている。


 一瞬、シャープペンシルを動かす右手が止まる。大きく口を開けて欠伸をし、肺の中に酸素を取り込む。日頃はトランペットの音色を紡ぐために使う息を、今日は単に生物学的な呼吸のためだけに使う。まだあまり生徒が来ていない鉄筋コンクリート校舎は、時間すらもゆっくり流れるかのような静謐の空間を現出している。


「あんまり数学は得意じゃないなぁ」


 誰に対して主張するでもなく、九分九厘は自分に対する言い訳として、控えめな小声で呟く。肩が凝っているわけでもないが、首を大きく右に回し、左に回す。


 期末テスト前の部活停止期間はちょうど一週間。月めくりカレンダーを一枚めくって七月の声を聞くと、期末テストが土日を除いて四日間行われる。当然その期間も部活動は行えない。テスト最終日の放課後から部活解禁となるが、その週にはもう、夏の高校野球地区大会の開会式が行われるのだ。


 中央高が登場するのは大会三日目だが、もうほとんど実質的な練習時間は無いということだ。野球部も、吹奏楽部も。


 数学だけに限らず、他の教科も決して成績優秀というほどではないのだが、萌乃は努力を怠るつもりは無かった。さほど頑張って勉強せずとも赤点は回避できるであろうが、それだけで満足することはない。少しでも良い点数を取るためには、時間と労力を費やして勉学に励まなくてはならない。特に、今回の期末テストで間違って赤点でも取ろうものなら、目の前に迫っている野球応援や、八月に行われる吹奏楽コンクールの地方大会に安心して臨むことができなくなってしまう。


 一心不乱に、シャープペンシルを走らせて白いノートを埋めて行く。罫線の上で、数字や記号が踊っているかのようだ。明日からは普通の時間に登校するつもりなので、今日くらいは集中して頑張っておこうと思い、気合いを入れた。


 穏やかに流れているように感じても、時間の速度は客観的には変わらない。壁に掛けられているシンプルな円形時計の針は進んだ。


「あ、萌乃、おはよう」


 いつも通りの笑顔で教室に入ってきたのは留実だった。挨拶の声に呼応して、萌乃は一瞬だけ顔を上げてにこやかに挨拶を返し、また数式へと意識を戻す。


「お、萌乃、気合い入っているね。こっちも負けずに頑張らなくちゃ」


 普段ならば、仲の良い者が二名以上集まれば、雑談の花が咲いて教室を黄色い声で彩るものだ。だが、硬質な白磁のような肌に真剣な表情を釉薬として纏っている萌乃の様子に影響を受けてか、留実もまた自分の席に着いて、自習を始める。中央高は市内で有数の公立進学校であり、生徒たちはそれなりに困難で難関な入学試験という壁を越えて来た。日頃はふざけて遊んでいても、するべき時にはきちんと勉強に向かう。


 中学時代の陸上部中距離走で培った持久力と瞬発力、高校に入ってから吹奏楽部で養った不惜身命と堅忍不抜の精神。それらは萌乃の人生において、全ての面でいきてくる礎となっているようだった。


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