第14話 校歌の効果と公開処刑


 体から陽炎が立ち昇っている部員たちは、私語の一つも漏らさず、むしろ息を潜めるようにして指揮者の言葉をかみ締め傾聴する。もちろん萌乃も、隣の田辺も。


「しかし、精神面において不十分と思われる人もいます。校歌合奏の意味を分かっていないのか、あるいはメンバーに選ばれたことで安心して慢心が出ているのか。いずれにしても、そういう気持ちで演奏に加わってもらっては迷惑です。リンゴがたくさんある中に、一つだけでも腐ったリンゴがあったら、腐敗が蔓延して全てのリンゴが腐ってしまいます。たとえは悪いですが、部内がそういう状態になることを私は懸念しているのです」


 西太后は少し語気を強めた。顔の表情はいつも通り、むしろ神経質そうなカドが取れていて穏やかそうではあるが、内心では怒りに滾り烈火の炎を燃やしているらしい。西野教諭の恐ろしさを知悉している部員たちはみな戦々兢々としている。


 右から左へ一八〇度。西野教諭は鋭い目でメンバー全員を見渡した。


「……私がいかに口を酸っぱくして説教をしても、本人が自覚していないと意味が無いのですよ。誰のことを言っているのか、もちろん理解していますよね?」


 沈黙。部員たちは誰も一言も発しない。ただ怖ず怖ずと西野先生の顔色をうかがうだけだ。化粧が濃いので判別しにくいが、白い肌が若干紅潮している。それは音楽室の暑さのせいもあろうが、メンバーの不甲斐ない演奏へ対する怒りの発露だ。


 もしかしたら自分のことを責めているのかもしれない。メンバー発表の前にも、自分と田辺くんが怒られたし。田辺くんは私のとばっちりを受けたみたいなものだけど。そう重いながら、萌乃は目線を伏せた。自分でさえ良くないと思う演奏が、辛口評価も極まっている西野教諭にとって満足のいくものとは到底思えないからだ。


「では、校歌合奏における心構えを言ってみてください、小泉さん!」


「は、はい……」


「小泉さん。その場に立って、答えなさい」


 自分が名指しされるのではないか、という予想はしていた。だが発言を求められるとは思っておらず、萌乃は咄嗟の機転を利かせることすらできず、多くのソフトを同時起動し過ぎてしまった古いパソコンのように、思考がフリーズして体も硬直した。それでも立てと命じられたので、ストライキを起こす筋肉を強制起動してその場に立った。膝が笑う。


「あ……ええと。校歌は……」


「小泉さん早く答えてください。我々の練習時間は有限なのですよ」


 承知してはいるのだ。毎回練習終了後の西太后の長い説教で、何度も繰り返し言われていることだ。それを理路整然とまとめて言えば良いだけのこと。葛藤のラビリンスで立ち往生している萌乃は、言われれば「それだ!」と判るのだが、喉の所まで出かかっている答えがどうしても出てきてくれない。春になっても一つもフキノトウが芽吹かない土手のような閑散とした心が、気持ち悪い冷や汗に覆い尽くされて行く。


「では隣の田辺くん、代わりに答えなさい」


 立ち上がれ、という指示は無かったにもかかわらず、田辺は楽器をもったままその場で椅子から立ち上がって、いつもより少し低い声で発言する。


「選手のテーマ曲は、その特定の選手を応援するためのものですけど、校歌は、野球部のメンバーを鼓舞するのは勿論だけど、それ以外にも、スタンドで応援している在校生やOBや父兄、あるいは応援している吹奏楽部員たち自らへ向けられた演奏です」


 田辺は、清朝末期の宦官であるかのように言葉を切って西太后の顔色を窺う。西太后こと西野教諭は良いとも悪いとも何とも言わず沈黙を保つ。他のメンバーたちは、西太后の怒りの矛先が自分に向かぬようそっと息を潜めて、カメレオンよろしく周囲の景色に同化して時が流れるのを待つ。萌乃だけが、田辺の隣で立ったまま、針の筵だ。座るタイミングも逸してしまったし、そもそも座って良いという許可ももらっていないため、勝手に座れば西太后の逆鱗に触れるだけだろう。


「我々吹奏楽部員は、野球部を応援して選手たちに力を与える、のが役目です。でも我々も人間ですから、炎天下で長時間演奏を続けていれば疲れますし、集中力も途切れがちになりますし、場合によっては熱射病で倒れる人だって出るかもしれません。グラウンドでプレーしている野球部員、吹奏楽部員も含めてスタンドで応援している様々な人々、つまり中央高を応援しているみんなに対してゲキを飛ばして喝を入れるのが、校歌の役割です」


 田辺が言い終えても、西太后は静止画像のように動かない。険しい表情を浮かべたままであり、音楽室の空気は氷点下に凍てついたままだ。


「そうです。その通りです。田辺くんは、日頃からよく私の話を聞いていたようですね。それにひきかえ、小泉さん、あなたは三年生で、今年が最後の夏なのに、自覚を持っているのですか!」


 怒鳴りつけられて萌乃は反射的に肩を竦めた。雷が鳴った時にびっくりしてしまうのと同じで、もはや生理現象に等しい。いつの間にか田辺は、西太后の許可をもらってもいないのに着席していたが、きちんと正解を言うことができたからか、お咎めは及ばなかった。


 矛先は、萌乃一人に絞られた。心なしかチェックのプリーツスカートが、西野教諭の激しい罵倒に圧されて折り目がのびてしまっているようでもあった。


「あなたは、一年生の田辺くんよりも、実力的には遙かに劣っているのですよ。今の一〇〇倍は努力しなければ、試合の演奏の時に田辺くんの足を引っ張るだけの結果に終わってしまいます。しかし今のあなたを見ていると、どうも気合いが入っていないといいますか、心が病んでいるといいますか、演奏中も他のことが気になっていて集中できていないようにも見えてしまいます」


 当たっている。当たっている。鋭い。心の中で呟く萌乃。口の中に無駄に唾がわいてきたので飲み込むと、思いのほかゴクリと大きな音が響いてしまい、心臓がびっくりして飛び跳ねた。


「今のままでは、あなたを合奏練習に参加させていたのでは、全体のレベルを引き下げてしまうだけであって、はっきり言って迷惑です。技術面の不足もですが、今はそれ以上に緩みきった精神面を引き締めてもらわなければ、全然使い物になりません。小泉さん。今日はもうトランペットは片付けて結構です。ジャージに着替えて、ロードワークをしてきなさい。ただ漫然と走るのではなく、自分自身を問いつめ、やる気を呼び起こしてきなさい。気力充実するまでは、明日以降もこの音楽室の門をたたくことはゆるしません!」


 きっぱりと顧問に断言されては、反論のしようも無かった。回れ右してその場を離れると、トランペットを片付け始める。足手纏いで邪魔者の萌乃が居なくなったことにより、練習は再開になったようだ。西太后が残りのメンバーたちに訓示を与える。


 ケースに収めたトランペットは、音楽室の隣の楽器庫に収納することになっている。整然と並べていなければならない。置き方が少しでも曲がっているのが西野教諭に見つかると「気持ちが歪んでいるから真っ直ぐに置くことができないのです」と厳しい指導を受けてしまう。日頃から神経質なほどに整理整頓に心がけているため、今日のような急遽退出する事態となってしまっても、いつもの癖できちんと片付ける。


 音楽室は、吹奏楽部だけが使う場所ではない。芸術科目として音楽を選択した生徒が授業の時に使う。また、合唱同好会も練習で使う日が割り当てられている。


 だが楽器庫は、文字通り楽器を保管する場所であり、一般生徒や合唱同好会メンバーにとっては縁の無い場所だ。だから実質的に吹奏楽部員の部室的な扱いとなっている。だから吹奏楽には直接関係無いような意味不明な物体も多々存在する。西太后も、整理整頓がされず見苦しい物に対しては苦言を呈するが、部外者の人目につかない場所ではさほど目くじらを立てないのだ。


『一音入魂!』


 と刻まれた木製の看板が壁に掛けられている。いつの頃から存在している一品なのか。看板の下部にはマジックペンで「目指せ普門館!!!!」と手書きされている。エクスクラメーションマークを四つも並べるくらいだから気合いは入っているのだろうが、字は曲がっていて下手だ。


 吹奏楽の全国大会の舞台として普門館などという名前が書いてあるところからすると、かなり昔に書かれたものなのだろう。今はもう普門館は存在しない。


 萌乃は溜息を一つ、深々と吐き落とした。野球部員たちは一球入魂で頑張っている。吹奏楽部のメンバーたちも、一音入魂の演奏をしている。自分だけは、一音入魂でないことを顧問に見抜かれてしまい、リストラされてしまった。


 もう少し黄昏れていたい気分だったが、ロードワークに行けという西太后の命令を無視するのは、吹奏楽部員にとっては自殺行為に等しい。泣きたい気持ちを振り切って、楽器庫から廊下に出る。と、同時に音楽室の扉も開き、西野教諭が多少慌てた様子で飛び出してきた。今日はもう顔を合わすことは無いだろうと萌乃は思っていたので、突然の邂逅に面食らってしまった。


「ああ、小泉さん、大事なことを言い忘れていました。ロードワークに行ってしっかり自分を見つめ直してこなければなりませんが、今日はこのとおり良く日が照っていて非常に暑いです。脱水症状、熱射病になると困りますから、きちんと水分を補給して、自分の体をしっかりケアするように。それと、道路では車や自転車などに注意して交通事故に遭わないように。最近交通事故が多いようですから。いいですね?」


 言うことだけ言った西野先生は、鼻をツンと反らせて下がり気味だった眼鏡を押し挙げると、吸い込まれるように音楽室へ戻って天の岩戸のように扉を閉めた。


 さきほどの厳しい説教の続きなのか。でも萌乃の体の心配をしてくれたのは事実だ。吹奏楽部の顧問であるからには、いかに出来が悪いとはいっても教え子である小泉萌乃の健康や事故に配慮するのは当然といってしまえば当然だ。


「……まあそれでも、私のことを心配してくれたのは確かかな。鬼か夜叉のような西太后にも優しさってあるものなのかな」


 小さな呟き声は、乾燥した喉から発せられたがためにかすれていて、本人以外には聞かれることもなく、無機質な洞窟のごとき学校の廊下に吸収されて虚空の藻屑となった。


 水飲み場でしっかり水を飲んでから、萌乃は着替えて校舎の外に出た。下は、ダサいということで生徒たちから不評の学校指定体育用ジャージ。暑いので上はジャージを着ずに半袖白Tシャツだ。たまたまだが、今日のブラジャーは薄いピンク色なので、白Tシャツでも透ける心配をあまりしなくても良いのがラッキーだ。体育の授業用のスニーカーはいつもながら埃にまみれていて、一年生の頃から使っているため紐もだらけてしまっている印象だ。


 直射日光が当たると暑いし、せっかく屋内型文化系の吹奏楽部なのに、無駄に日焼けもしたくない。だからなるべく日陰を選んで歩いたが、どうせ道路に出れば涙ぐましい努力も無駄になる。


 土が露出している所やアスファルトが日光を照り返す場所よりは、雑草の白詰草がびっしり生えている場所の方が、靴底から足の裏に伝わってくる熱量が微妙に少ないと思いながら道路に向かっていると、見覚えのある女子生徒四人組を発見した。


 四人は、両手に黄色いポンポンを持ってぎこちない動きで踊っている。


 チアリーダーたち、ではない。中央高にはチアリーディング部は存在しないから。


「サッチー……みんな……」


 三年生斎藤幸枝と三人の一年生女子。吹奏楽部から選抜された臨時チアガールの面々だった。


「ねえみんな、アタシも含めてだけどさ、もっと手に力を入れて、肘とか手首とかしっかり伸ばそうよ。やるからには、ちゃんとやろうよ!」


「でも斎藤先輩。私、運動苦手なんですよね。だから吹奏楽部に入ったのに。まさかこんなことをやらされるなんて、入学した時には思っていなかったです」


 反論する一年生女子生徒に、もう二人の一年生女子生徒たちも無言のままではあるが首を縦に振る。


「いや……気持ちは分かるよ……アタシだって……好きでチアガールなんかやるわけじゃないんだから。こんな、ちょっと足を上げたらアンダースコートが見えてしまうような格好をしてさ。男の人から好奇の目で見られてさ」


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