第13話 有望一年生タラコオムスビ
湿気を多く含んだ風が渦を巻くように前から後ろからかわるがわる吹いてきて、ねぶるように萌乃の前髪を弄ぶ。
グラウンドでは、白いユニフォーム姿の野球部員たち後片付けを行っていた。ある者は水道ホースを使って水を散布し、ある者はトンボを引っ張って荒れた地面を平らに均す。別の者はボールを拾って薄黄色のポテトコンテナに集める。
「あれっ? 田辺くん、野球部って、もう朝練終わりなの?」
「おかしいな。朝のホームルームが始まるギリギリまでやっているはずなのに……あっ、今日は職員会議があるって言っていたから、野球部顧問もいなくなるから、早目に練習終了したってことかな?」
上から目線で偉そうに先輩に対して説教していた田辺が、いかにも自信喪失といったていで言うのを聞いて、萌乃は膝の力が抜けるような感触を味わった。練習の様子を見学する、という吹奏楽部トランペットパート正式メンバー二名の目論見は砂上の楼閣のごとく儚く崩れた。
グラウンド整備中の野球部員たちの中から、見覚えのある者の姿を探す。亀の甲羅を髣髴とさせるようなプロテクターを身に付けたキャッチャーはすぐに発見できた。肩幅の広いがっしりとした体格、幸枝の恋人の小山だ。中国大陸の黄砂さながらに埃を巻き上げながらトンボを引っ張って走っている。
男子高校生の平均を基準としたら、全体的に大柄な生徒が多いと思われる野球部員たちではあるが、その中でも身長が少し飛び出した感じの生徒の後ろ姿を確認した。練習用のユニフォームなので背番号は縫いつけられていないが、恐らくエースピッチャーの対馬だろう。緑色の水道ホースを使って水まきをしている。勢いよく飛び出した水は放物線を描き、日光を受けてうっすらと虹の弧を形作っている。
「ねえ田辺くん。その有望ピッチャーの荒森くんって、どの人?」
「あれです。あれ」
田辺は、六人ほどの部員達が固まっている場所を指差して示した。その中のどの人物が件の荒森であるかは説明しなかったが、その必要は無かった。一人、随分と背の高い選手が混じっていた。萌乃が遠目に見ても、黒い帽子を手で持っているその少年はあどけなさが残る中にも厚い唇あたりにふてぶてしさを宿している。なんとなく先細り気味の坊主頭に、下膨れともいうべきエラの張った頬が特徴で、おむすびのような顔という印象を与える。
そのオムスビマンが、田辺の姿を発見して人懐っこそうな笑顔を浮かべながら駆け寄って来た。坊主頭の中まで大量の汗をかいていて、油を塗ったみたいに輝いていた。
「田辺おはよう。吹奏楽部はもう朝練終わったの?」
オムスビマン荒森は、ユニフォームの右膝の部分が特に土で汚れていた。
「うん。終わった。後は教室に戻って、朝のホームルーム始まる前まで漢字検定の勉強するくらいだよ」
「あーやべぇな。俺、全然漢検の勉強してないや……こちらの人は?」
長身の荒森が上からの目線で萌乃を見下ろした。視線は萌乃の顔よりもずっと下、絆創膏を貼っている右膝辺りに、甲子園の外壁の蔦よろしく絡み付いているようだった。
「この人はボクと同じ吹奏楽部トランペットパート、三年生の小泉先輩だよ」
それを聞いた瞬間、荒森の表情が開花した向日葵のように輝いた。まるで、憧れていたプロ野球選手と生で会ったかのような様子だった。
「は、はじめまして! 俺、田辺と同じクラスの荒森っていいます。ピッチャーやっています。試合では頑張るんで、応援よろしくお願いします」
荒森は腰を直角に折ってていねいにお辞儀をした。練習用ユニフォームの背中にはアルファベットでARAMORIという名字がプリントされているが、その字が逆さになって萌乃にも見えるくらい、荒森は深く頭を下げていた。
「小泉です。期待のピッチャーだって聞いています。がんばってくださいね。私も演奏頑張りますので」
顔を上げた荒森は、素直に嬉しそうな表情をしていた。タラコのように分厚い唇の隙間からのぞく前歯の一本が銀歯になっていて、左の頬に小さなえくぼができていた。その荒森は同級生に話を振った。
「田辺。昨日メンバー発表になって、踊る人の一人はトランペットの三年生だって言っていなかったか?」
「言ったけど、小泉先輩のことじゃなくて、もう一人の斎藤先輩っていう人なんだ」
「ふーん」
萌乃への興味を急速に失くした様で、わざとらしくそっぽを向いた荒森は口笛を吹くかのようにタラコ唇を尖らせた。ただし音は出なかった。
萌乃は、怪訝な表情が浮かぶのを禁じ得ない。何故、有望一年生ピッチャーが、吹奏楽部で踊る人が誰なのかをそんなに気にする必要があるのだろうか。
「おいこら荒森! サボってないでちゃんと片付けやれー!」
遠くで右手の拳を振り上げながら怒鳴っているのはエースピッチャーの対馬だった。
「お、いけねぇ。対馬先輩、気合い入っているんだよな。ピッチングも一球入魂で凄いし」
タラコオムスビの荒森は萌乃に軽く会釈してから、小走りでグラウンド整備へと戻って行った。スパイクシューズが茶色い土を噛んで、虫歯のような小さな穴を地球に穿つ。
「もうすぐホームルームの時間だから、戻ろうか、田辺くん」
「そうですね。結局、野球部の練習風景を見学できませんでしたね。失敗しました。すみません」
ここにきて田辺は素直に謝罪したが、萌乃にとっては謝られる義理も筋合いも何も無いので、むず痒いような気分だ。仮に練習風景を見ることができたとしても、素人である萌乃には、荒森が投手として凄いのか普通なのかダメなのか、判別できるはずもなかった。
学校前のバス停から校門を抜けて、集団をなして生徒たちが入って来る。萌乃と田辺もその人並みに混ざった。
「とにかく、ボクは恋愛のキューピッドみたいな真似をする柄じゃないですから、小泉先輩と斎藤先輩が自力で仲直りしてくださいよね」
大事な要点をきちんと言い残して、有望一年生トランペッターは自分の教室へと向かい萌乃とわかれた。難解な数学や英語の長文読解よりも厄介な宿題をもらって、萌乃は少し途方に暮れ気味で、絆創膏を貼っていない左膝からも白っぽい霊魂のような気力が抜けて行くような感じを味わった。
自分の教室へ戻ると、友人の留実がいわゆるツインテールの髪型で迎えてくれた。
「あ、あれっ? さっきと髪型、違わない?」
階段ですれ違った時の中華風シニヨンは早々に飽きてしまったのか、解いてしまったらしい。頭の両側に垂らされた尻尾は、髷として丸めていた癖がまだ残っていて、本来はストレートのはずなのにラーメンのように縮れていた。
留実のストレートヘアの縮れは、あくまでも一時的なものだ。時間をおけば元の真っ直ぐな髪に戻るだろう。だが萌乃の気持ちは素直さを失って縮れたまま、上手く戻れる気配の尻尾すら掴めるあてが無いままだった。
◇◇◇
メンバーが正式発表されてから、練習を行う音楽室がかなり広くなり閑散とした、という錯覚が生じる。
そこまで大袈裟ではないが、広く感じるのは必ずしも錯覚ではない。人数が減っているのは厳然たる事実だった。
陰では西太后という異名をとり恐れられている西野教諭が支配している中央高校吹奏楽部は、インドのカースト制度もかくやという完全なる縦割り階級社会だ。ただしその規矩準縄は、学年による先輩後輩ではなく、実力だ。
陽が傾いたせいで暑さが緩和されつつある音楽室では、全メンバーによって校歌が演奏されていた。全部員ではなく、全メンバーだ。
チアガールを拝命した四名は、放課後になってからずっと屋外で踊りの練習をしている。正式メンバーから外された裏方は、最初の基礎練習部分は正式メンバーと一緒に行うものの、合奏段階になると音楽室から追い出されてしまう。空き教室などを使って各自で基礎体力作りとしての筋トレや音出しやセクション練習をすることになる。
半円形フォーメーションで座っている全メンバーの視線が、指揮台に立つ西野教諭の指揮棒に集中する。柔らかな木管と華やかな金管と鋭い打楽器の音がブレンドして、昔ながらの古くさい校歌に色を与える。本番の時の校歌は、ベンチ入りできなかった控え野球部員たちが大声でがなり歌うということも考慮に入れる必要がある。だが、西太后が君臨している限り、演奏そのものにも妥協は入り込む余地は無い。歌詞が無くても演奏だけで聴く者の心に響き渡る演奏を心がけなさい、と西野先生は常に指導している。
トランペット演奏技術、特に息を吹き込んで出す音の質という意味ではまだまだ未熟な萌乃ではあるが、校歌に関しては一年生の頃から幾度も練習しているだけあって、バルブを操作する指遣いは体に染みこんでいる。ある程度は自然に指が動いてくれる。
息遣いは、とにかく力強く。普通の曲とは違って校歌は、複雑なフォルテやピアノなどといった要素は考えなくてもいい。勇気を鼓舞するための演奏であるからには、基本的に強い音を大音量で出すことを心がけていれば、大きな間違いは無い。そう思いながら、萌乃は腹筋に力を籠める。
隣では、額に汗を浮かべながら田辺が高らかな音を響かせる。
チューバで低音というコンクリートの礎を奏でるのは、がっしりした体格の三年生男子生徒だ。大きく重い楽器を持ったまま長時間演奏するという点から考えると、技術的に優れているだけではなく体力も有していなければ意味が無い。途中で体力が尽きて倒れてしまっては、いかに控え要因として裏方がいるとはいえ、すぐに穴埋めできるわけではないのだ。
クラリネットも、トロンボーンも、ピッコロも、校歌のシンプルなメロディーを慎重に合わせる。たかが校歌、されど校歌である。今まで一緒に練習していたファゴットが、西野教諭の判断で使われないことになったため、聞こえる感じが少し違っているし、校歌だけなら使ってもいいんじゃないのと萌乃としては思わないでもないが、そこで戸惑って自分の音を乱すようなことがあってはいけない。
練習中ではあっても、吹奏楽部員にとっては戦争中だ。
萌乃も必死に息を吹き込む。校歌そのものはさほど長い曲ではないが、音出し練習からずっと吹き続けているので、いいかげん唇が痛くなっきている。チューバのように重くないトランペットを構えるだけで、肩が凝り始めている。体全体に変な力が入りすぎているのだ。さっきから音楽室内を、蝿か何か一匹の虫が飛んでいるのが気になって仕方ない。集中ができておらず、これでは駄目だと自分でも分かるのだが、どうやって肩の力を抜けば良いのか、上手く行かない。
本当に、こんな状態で、自分がトランペットパートのメンバーとして演奏して、いいのだろうか?
萌乃の疑問の尾を引きずりながら、校歌合奏は余韻を残して終わった。
曲は終わったが、まだ演奏は終わっていない。指揮者である西野教諭が指揮棒を下ろすまでが演奏中であり、緊張感を解いてしまってはならないのだ。
一秒。主観的には随分と長い時間、静止した後で、西野教諭はタクトを持った右手を下ろした。大部分のメンバーが大きく息を吐く。楽器を鳴らすためでなく、体の中に沈殿している疲労を吐き出すためのガス抜きだ。
壇上の指揮者もまた、演奏から解放されて体の力を抜く。イトスギのように妙に痩せた体から引っ張り伸ばしたワイヤーが撤去されたように、西野先生は普通の直立状態に戻った。
金属的な硬さと冷たさを併せ持った人柄を象徴しているかのような金縁眼鏡の奥では、苛烈な女性音楽教師の光は青白いまま緩んではいなかった。
「はい。今の時期にしては良く演奏できた方だと思います。でもこれからまだまだ追い込みをかけて完成度を高めなければ、試合当日に恥をさらすことになります」
褒めているのか貶しているのかよく分からない表現ではあるが、西太后は部員を甘やかすような発言は一切しない。虫が、西野教諭の顔の周りをしつこく飛び続ける。それでも西野教諭は鋼鉄の意志を堅持して、秋毫たりともそちらに注意を払わずに無視する。
「校歌ですから、みなさんこの曲は何度も何度も繰り返し練習しているわけですから、演奏技術に関しては、実のところあまり問題点を見出してはいません。まがりなりにも選抜されたメンバーなのですから、技術的に劣った人は、私は選んでいませんから」
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