第12話 †ダガーナイフ†
翌日の早朝練習は、西野教諭が職員会議に出なければならない都合で、いつもよりは少し早めに切り上げられた。
毎日のことなので既に慣れてはいるものの、動かすのは基本的に指先だけなのだから、ずっとほぼ同じ姿勢でトランペットを持ちっ放しだ。肩から背中にかけての筋肉が凝り固まって痛い。萌乃は高校三年生としてはそれほど胸が大きい方ではないので、よく噂で伝え聞くような巨乳に由来する肩凝りに悩まされた経験こそ無いが、楽器奏者ならではの体の各所に発声する筋肉痛がある。音楽室で練習する時には椅子に座っているが、試合当日は味方の攻撃イニング中はずっと立ちっ放しで楽器を演奏することになる。座って休めるのは相手チームの攻撃イニングの間だ。
肩が凝るということは、そこに直接繋がっている首にも影響が出ている。萌乃は黒髪を揺らしながら首を大きく一回転させ、そこから逆にもう一回転させた。関節の軟骨が、ナマコを噛んだような音を立てる。
早朝練習が早く終わったのだからすぐに教室に戻ろうと思ったが、背後から肩を叩かれて振り返った。
「なあに、田辺くん」
「小泉先輩、練習が予定より早く終わったんだから、今から時間ありますよね? ちょっと話をしたいんで、付き合ってもらいたいんですよ」
用があるのなら、肩に触れるのではなく、名前を呼んでくれれば良かったのに、と軽い不満に膨れながら、萌乃は乱れてもいないセーラー服の紫紺の襟を直した。
「話って、何?」
「斎藤先輩のことで、ちょっと……」
「……そう、分かったわ。どこで話す?」
高価な楽器を保管している音楽室は、使われていない時にはしっかりと施錠されている。吹奏楽部員とはいえ、練習が終わってしまえば音楽室に無用に長居することは許されないので、話をするにしても場所を変える必要があった。二人は手早くトランペットを片づけると、自分の荷物を持って音楽室を後にした。全員が出たのを確認して、西野教諭が鍵をかける。
「歩きながら話しませんか? ボク、野球部の練習をちょっと覗いてみたいんですよ。ボクたちが演奏して応援するのがどんなチームなのか。どんな選手のテーマ曲が何の曲なのか。知らないよりは、知っている方が、より良い演奏ができそうだと思いませんか?」
確かに野球部もまた、悪天候でグラウンドが使用できない時以外は早朝練習をやっている。好天に恵まれている本日もまた、グラウンドでランニングやキャッチボールなどを行っているはずだ。
「それに、自分と同じクラスの荒森っていう奴が野球部にいるんですけど……」
「もしかして、長身の速球派ピッチャー?」
田辺が瞠目して萌乃の顔をまじまじと見つめた。並んで歩くと、田辺の身長は萌乃よりもほんの少し高いくらいだ。
「小泉先輩よく知っていますね。そうなんですよ。荒森、一年生だけどメンバー入り確実で、かなり活躍しそうらしいんですよ。……あ、以前にせいたい、いや、西野先生がちょっと言っていましたよね」
誇らしげに微笑む田辺。級友の活躍が楽しみであり、自分が吹奏楽部のメンバーとして演奏で応援できるのが心から嬉しいのだ。
萌乃も、有望一年生ピッチャーというのを一目見てみたいという好奇心が泉のように滾々と湧いてきた。野球部練習見学に同意し、田辺と並んで階段を降りる。田辺は腕を大きく前後に振りながら大股で歩く。あたかも自分の実力でトランペットパートのポジションを勝ち取った自信の顕現のようでもあった。萌乃の場合は、実力要素も皆無ではないにせよ、幸枝の不幸な脱落によって席が向こうから転がり込んできた感じは否めない。
「本題ですけど、小泉先輩って、斎藤先輩と喧嘩しているんですか? 最近、一緒に行動していないですよね?」
単刀直入だった。
田辺は真っ直ぐ前を見て階段を降りていた。萌乃もまた、一瞬田辺の顔色をうかがっただけで、前を見る。いつもより随分早目だったとはいえ早朝練習が終わった後なので、そろそろ普通の生徒も登校してきている。時折、白いワイシャツの肩に食い込ませるようにして重そうなリュックを担いでいる男子生徒や、寝癖が直りきらなかったのをごまかそうとしているのか前髪をくるくると指に巻きながら歩いている童顔の女子生徒とすれ違う。
「サッチーとは、時間が合わないだけよ。私は朝練に出ているけどサッチーは出ていないし。そうなってくると、クラスが違うとなかなか顔を合わさなかったりするのよねー。同じ中学出身で近くに住んでいるんだけどね」
嘘を言っているわけではない。事実に基づいた説明の言葉は、萌乃の唇からスムーズに出た。トランペットを吹いての音出しもこれくらい流麗に行けば、萌乃の葛藤も今ほどに深くはなかったかもしれない。
虚言ではないが、真実の全てを語っているのでもない。それは、萌乃の懐に真っ正面から斬り込んで来ているという時点で、田辺にはとっくにお見通しのことだ。
「つまり、喧嘩、してるんですね」
語尾のイントネーションを上げて疑問という形をとってはいたが、田辺の台詞を文字に直せば、最後にクエスチョンマークは付随しないだろう。実質は完全に断定だった。
二つ年下の後輩に決めつけられるのは、三年生の面子が著しく損なわれている。だが、言葉を飾っても始まらない。事実を粉飾しても、幸枝との関係が良いとごまかし切れるものではない。
「喧嘩、と言ったら大袈裟だけど、お互いに気持ちの行き違いが生じているのは事実だわね」
「小泉先輩、何をそんな他人事みたいに言っているんですか」
田辺は、すれ違った小太りの男子生徒に対して「おはよう」と言いながら片手を挙げて挨拶を交わした。
「それを言うなら、これは私とサッチーの問題であって、田辺くんはクチバシを突っ込む必要は無いでしょう」
女同士の感情の縺れというデリケートな問題に対して一年生男子が容喙する。このように「大きなお世話よ」と反発を招くことは覚悟の上でだ。
「無関係じゃないですよ。同じトランペットパート同士でいがみ合って。そんなんじゃボクだって落ち着いて満足な練習ができませんよ。後輩の自分が先輩に対して言うのもなんですけど、野球だって吹奏楽だってチームワークが大事なんじゃないですか?」
正論だ。正論だからこそ、自分が誤っていると認めてしまうことになり、三年生の矜恃が邪魔をして萌乃は素直に頷けない。
「田辺くんには迷惑をかけて悪いと思っているわよ。私だって、こんな状態が長く続くことが正しい在り方だとは思っていないし」
「小泉先輩。口ではそう言っていても、自分からは斎藤先輩に歩み寄ろうとしていないですよね?」
さすがに。萌乃はハチドリのように不機嫌に唇を尖らして立ち止まった。リノリウムに塗られたワックスが嫌味なくらいに艶やかな階段の踊り場。生徒達が増えてきた校舎内は喧噪が少しずつ大きくなりつつある。中央高校の目覚めの瞬間だ。田辺は萌乃の様子に構わずに踊り場を折り返して更に階段を降りて行く。
「ちょっと待ちなさいよ田辺くん。私とサッチーのことについて、どの辺まで深く突っ込んで知っているっていうの? 事情を分かった上で、そう言っているの?」
踊り場で立ちつくしたまま腕組みした萌乃に対し、階段の真ん中ほどで立ち止まって田辺は億劫そうに振り返った。Y軸座標でいえば田辺の方が下ではあるが、精神的には田辺の方が上から見下ろす目線だった。
「そんなの知りませんし、ボクが知る必要も無いでしょう。小泉先輩も斎藤先輩も、第三者にあまり知られたくないでしょう。大切なのは、過去のいざこざやしがらみに囚われて引きずられることでなく、どういう未来にしたいか、じゃないんでしょうか。体面とかプライドとかなんて、この際水洗トイレにでも流してしまえばいいんですよ。小泉先輩には、斎藤先輩と仲直りする気があるんですか。それとも無いんですか。事態は単純にイエスかノーかの二者択一ですよ」
一気に言い募られて、萌乃は気圧されて言葉に詰まった。筋道を通せば、客観的には幸枝よりも自分の方に理があるだろう。だがそれを強硬に主張するのは、自分のワガママが通じなくて泣き喚いてダダをこねる子供のように感じられる。恥を知る冷静さは無くしていない萌乃だった。
不意に、田辺が左手をのばして、絆創膏を貼っている萌乃の右膝付近を下から指差した。
「小泉先輩、そこに立っていたらスカートの中が見えてしまいそうですよ」
萌乃の耳は小籠包のように高温の蒸気を噴き出した。慌てて両手でスカートの裾をガードし、膏薬でくっつけたように太腿と太腿を合わせた状態を保ったまま小走りで階段を降って田辺と同じ段に並んだ。横目できつく睨みつけたが、田辺にとっては暖簾に腕押しにしかならない。
「それで。小泉先輩は、本気で、斎藤先輩と仲直りしようと思っているんですか?」
「そりゃ、思っている。でも、サッチーの方が……」
「だから、相手が歩み寄って来てくれるのを待っていちゃ、いつまで経ってもお互いにすれ違うばかりですよ」
「でも……きちんと話し合いたいとは思うけど。向こうが、ね……ほら、会話のキャッチボールにならないことには始まらないし」
二人は同じ速度で階段を一歩ずつ降りる。萌乃の言葉は歯切れが悪かったが、精一杯絞り出した本音だった。キャッチーボールは、相手から受け取った球をきちんと相手に投げ返すことの繰り返しで成立する。受けた球を投げ返さずに隠し球にしてしまったり、あさっての方向へ投げてしまったりしては、それはもうキャッチボールではない。
田辺の目は、出来の悪い生徒に同じ内容を何度も説明する教師のような色を帯びた。
「あのですね。ボクはですね、この前、斎藤先輩から相談を受けたんですよ。『小泉先輩と仲直りしたいから、間を取り持ってほしいのよ』って」
「えっ、それホント?」
心臓が痙攣したように変に震えたのを感じて、左胸を軽く手でおさえた。幸枝が田辺に仲介を頼むなど、全く予想すらしていなかった。ずっと意地を張って、萌乃の方から大幅譲歩をしない限りは平行線を維持するものだと思っていた。
「ボクはこう答えましたけどね。『それは斎藤先輩と小泉先輩二人の問題であり、ボクは部外者だからどうすることもできません』って」
「本当にそう言ったの? 田辺くんは、私とサッチーとの仲直りの手助けをしてくれるつもりは無いってこと?」
「当たり前ですよ。さっきから何回も言っているとおり、ボクは第三者ですから。まあ、料金を払ってくれるんだったら、一肌脱いでもいいとは思いますけどね。でもタダ働きはごめんだという利害勘定だけで手助けを拒否しているのではありませんから、勘違いしないでください。ボクの手助けなんかに頼った仲直りじゃダメだと思うんですよ。小泉先輩と斎藤先輩が自分たちの力で関係を回復してこそ、雨降って地固まるはずだと思うんですけど、どうでしょう?」
二人並んで一階に下りた。昇降口からは、上靴に履き替えた生徒たちが次々とやってきて萌乃たちとすれ違って行く。クラスメイトの留実と青木も並んで歩いて来たので、萌乃は手を振りながら「おはよー」と声をかける。今日の留実は髪の毛を両脇で結わえて団子にする、いわゆるチャイナ風シニヨンだった。
「斎藤先輩の方は、ボクに相談するという形ではありますけど、小泉先輩に歩み寄ろうという意思表示をしたわけです。それに対して小泉先輩は、こうやってボクに言われてもまだ、自分の考えに固執して、自分からは歩み寄ろうとはしないつもりなんですか?」
一年生の後輩田辺の言葉は鋭い†ダガーナイフ†となって、萌乃自身が気にしている弱点を的確にえぐってくる。耳が痛いし、ハートが痛いし、精神的な痛みが伝播するものなのか右膝の傷までが病むような気がして、萌乃は俯いた。
二人はそれぞれの下駄箱で外靴に履き替えると、再び合流して昇降口から出た。屋内にいる限り遮断されていた陽光が土砂降りのシャワーとなって、白セーラー服の紺色の襟を灼きつける。校門へ続くアスファルトの道を横切り、白詰草の生えた校庭を抜けて、いつも野球部が早朝練習を行っているグラウンドへ向かう。
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