第23話 あくまでも自分との闘い


 みんなが座っている中で、立っている人物の頭が飛び出ていて萌乃の視界に入った。チアガールの一人。サッチーだった。踊りの妨げにならないようポニーテールに纏めている髪型が、いつも萌乃が見慣れている幸枝の姿とは違っていて、明るいピンクのユニフォームと相まってどこか新鮮な雰囲気を帯びていた。


 サッチー、ずっと立ちっ放しだったら体力を消耗してしまうから、守備の時くらいは座って休めばいいのに。そう思った萌乃だったが、それを声に出すことはできなかった。萌乃の位置から声をかけても、幸枝に届くかどうかは微妙な距離だ。三塁側からは津波のように応援演奏が押し寄せてきていて、自チームが演奏中でないとはいっても球場内は静謐の空間にはなり得ないのだ。かといって席を立ってわざわざ幸枝に話しかけるために側に寄るというのも憚られた。無駄に立って歩いているのが西野先生に見つかると厄介だし、いまだ仲直りが成立していない幸枝との接触に自信を持てなかったからだ。他の部員たちも大集結している目の前で、幸枝にこっぴどく拒絶されてしまったらどうしよう。失敗した時のリスクを考慮してしまうと、前に進むために一歩を踏み出すことを躊躇して、鍛冶場の蹈鞴を踏んでしまう。


 幸枝との仲直りの機会は、そのうち訪れるだろう。チャンスを待てばいい。時間が解決してくれることだ。そう思うことにした。萌乃自身も、中学時代には陸上部中距離走でスタミナを養っていたとはいえ、今ではもうブランクがあるのだから、試合の最後までしっかりとした演奏を続けるために体力は温存したいところだ。顧問に注意される点を別にしても無駄に立って歩きたくはなかった。


 試合の展開も気になる。夏の高校野球は日本の風物詩であり、あまり野球に詳しくない萌乃でも、毎年夏休み中には特に用事が無い時は漠然とテレビの甲子園中継を観ていることも多い。今年は、自分が通っている中央高が、あわよくば甲子園初出場を狙える戦力が整っているとの前評判があった。中央高と実業の試合は一回戦の中では屈指の好カードであると高校野球ファンの間では噂されていた。対馬の骨折さえ無ければ、中央高の方がむしろ下馬評が高かったはずだったのに。運命の残酷さを思うと、幸枝や対馬の骨折の当事者ではない萌乃も非常に口惜しくてたまらない。荒森には、骨折で投げられない対馬の分も頑張って投げてほしい。そしてその思いは自分への戒めとなる。骨折でトランペット演奏ができずにチアガールに就任した親友幸枝の分も、萌乃がトランペット演奏で花を咲かせなければ。


 マウンド上の荒森に視線を固定しつつ、時々ちらりと横道に逸れて幸枝の様子をうかがう。いっこうに座る気配すら無い。それどころか、他の五人の一年生チアガールは普通に座って休んでいるにもかかわらず、幸枝だけは立って動いての応援を続けていた。青と黄色のポンポンを持った両手を高く突き上げる。足を九〇度の高さで前に真っ直ぐ突き出す。一連の動きの最後には、「頑張れ頑張れア・ラ・モ・リ!」と叫ぶ。そしてまた、最初から同じ動作を繰り返す。ポニーテールにした幸枝のうなじには、汗が白糸の滝のようになって流れ落ちていて、強い陽射しを受けて金色に輝いていた。


 幸枝の応援の声はマウンドの荒森に届いているのだろうか。もし届いているならば、キャッチャーの小山にも聞こえているはずだ。幸枝と小山は付き合っている恋人同士だ。幸枝が荒森にばかり声援を送っているのを耳にして、彼氏として小山は複雑な心境をいだかないのだろうか。と、萌乃はふと疑問に思った。


 三回表の攻撃が始まると、一塁側からの吹奏楽演奏が本格的に大きくなる。この回の先頭バッターの応援テーマ曲はセンチメンタルバスの『Sunny Day Sunday』だった。曲の中では気温が三九度というすさまじい設定だ。現実にはそこまで暑くはないものの、選手の体感的にはそれに近いものがあるのかもしれない。


 向こう側の大音量に負けじと、幸枝は大声を張り上げて荒森を応援し続けている。


 その声援が届いているのかいないのか、マウンド上の一年生投手は堂々としていた。キャッチャー小山のリードも冴えているのか、実業の七番打者に対しストライクが先行する。


 しかし手元が狂ったのか、最初のバッターにはデッドボールを与えてしまい、一塁に歩かせてしまった。一塁側からのファンファーレは、野球応援定番曲だった。



 セットポジションになっても荒森は冷静さは失っていない。野球素人である萌乃がスタンドから見た限りではそう感じられた。時に一塁への牽制球を挟みつつ、次のバッターをストライク先行で早々に追い込む。定番曲『狙いうち』のとおりの結果になったというべきか、バッターは最終的には送りバントを決めた。


 一塁側、三塁側、ステレオ放送のように双方から拍手が起こる。


 ランナーが二塁に進んで、ピッチャー荒森は神経質になり始めたのか、なかなかバッターに対して投げなくなった。萌乃たちにとってみれば休憩時間が長くなるのは一面でありがたいが、自チームがピンチの時間が長いというのもまた背中にずっしりと重い。一塁側スタンドから響く演奏は、またも定番の『サウスポー』だった。九番打者は、実業のエースピッチャーであり、しかも左投げ左打ちだからこの曲が選ばれたのだろう。定番曲が多いというのは、吹奏楽コンクールも間近に控えたこの時期に、吹奏楽部員たちの負担を軽くするという狙いも当然あるはずだ。


「実業の演奏、かなりレベル高いですね。吹奏楽コンクールの時にも、厳しい相手になりそうですね」


 隣から一年生田辺が小声で囁きかけてきた。いかに自チームが守備で演奏が休みとはいえ、大声で談笑などすればたちまち西太后の邪視眼が飛んでくる。雑談も自然と小声になる。


「確かに実業の吹奏楽は、毎年レベル高いんだよね。でも吹奏楽は、野球の試合とは違って、相手と対戦するわけじゃないから。あくまでも自分との闘いだから」


 三年生らしい少し上から目線の口調で言ってから、「我ながらなかなか良いことを言った」と心中で密かに自画自賛し、萌乃はしたり顔で頷いた。


 実業は、ピッチャーが九番バッターに入っているということは、打撃には自信が無いということなのだろう。荒森が慎重に攻めた甲斐もあってか、三振という結果に終わった。萌乃も田辺も周りの拍手に合わせてメガホンを打ち鳴らす。


「いいよー! アラモリー!」


 拍手の中からも、幸枝の高音が割れた絶叫は浮かび上がって聞こえてくる。萌乃が視線をやると、幸枝は一心不乱に、右手に持った青のポンポンと左手に持った黄色のポンポンを高く掲げて振っていた。


 実業の打順は一番に戻り、一塁側スタンドからは爆風スランプの『ランナー』の演奏が始まる。一番バッターというのは大抵俊足で、ランナーに出てチャンスを広げるのが役目だから、相応しい曲であろう。


 だが今は既に塁上にランナーがいて、一番バッターが自らのバットで走者を進める必要がある。ツーアウトにはなっても実業にしてみればチャンスは続いているので、応援演奏も熱が籠もっているようだった。赤と白のチアガールたちもキレのある動きで踊っている。


 二塁走者を気にしつつも、まだ一年生ピッチャー荒森にも気力体力が充実していた。五球目の変化球を打たせ、平凡なレフトフライに切って取った。


 スリーアウトとなったため、中央高吹奏楽部員たちはすぐに立ち上がる。持っていたメガホンは自分の座っていたベンチシートの上に置き、楽器を構える。相手の攻撃が終わった瞬間には、萌乃たちにとってはもう三回裏が始まっている。中央高の選手たちは守備から引き上げてベンチに戻り、これから先頭バッターが準備をするところだ。掲げられたボードには、八番バッターの名前と、テーマ曲『鉄腕アトム』とが書かれてある。


 一〇万馬力に匹敵するかどうか、萌乃たち吹奏楽部の応援でバッターを後押しする。行進曲風の勇壮な合奏だ。


 八番打者は変化球に手を出して一塁ゴロに打ち取られた。実業のピッチャーも三年生としての意地があるのだろう。一年生投手との投げ合いで負けるわけにはいくまい。気合いの籠もった投球を披露していて、なかなか打ち崩せそうな予感は得られなかった。


 九番打者が出てきて素振りをする。萌乃たちは西野教諭の指揮に合わせて次の演奏を始める。『ハレ晴れユカイ』という曲だった。萌乃にとっては耳馴染みの全く無い曲だったが、人気アニメのテーマ曲だったということで一部のアニメオタクの間では非常に人気がある歌だという。


 聞き覚えの無い曲なので、萌乃としては楽譜の流れを辿るのも一苦労だった。トランペットのバルブを押し込む指の運びもスムーズに行かないし、ソルフェージュ練習の時も、実際に歌うために歌詞を覚えるという時点で苦労した。それでもなんとか周りのみんなの足を引っ張らないレベルの演奏はできるようになった。


 あまり余裕の無い演奏だったので、試合展開の把握が少し疎かになっていた萌乃だったが、気が付いてみると九番打者は四球を選んでいた。右打席から出た九番打者がプロテクターを外している間に、スタンドではウィリアム・テルのファンファーレに切り替わる。


 九番打者が一塁塁上で相手チームの一塁手と何か話しているのを眺めながら、萌乃はトランペットを少し下げて大きく息をついた。ハンカチを取り出し、額と鼻の頭に浮いた汗をぬぐう。陽射しは眩しさと共に人間の肌を苛む。


 打順は一番に戻り、スタンドでは『宇宙戦艦ヤマト』の演奏が指示される。もう既に一度演奏した曲なので、萌乃にしてもある程度余裕をもって演奏に入ることができた。されどバッターの結果は浅いレフトフライで、ランナーを進めることができなかった。


 次の打者もショートゴロに倒れ、中央校の三回裏の攻撃は終わった。


 攻撃が終わるのは残念だが、一通りの演奏を無事に終えてほっとして座ることができるのはありがたい。それが萌乃にとっての正直な気持ちだ。他の部員にとっても同じだ。


 淡々と進んだ結果として、序盤の三回までの攻防が終わった。ここまでは投手戦、といった感じだった。両校とも、攻撃陣が攻めあぐねている、という見方もできそうだったが、つまりはそれが投手戦ということなのだろう。


「がんばれがんばれアラモリー! ファイトファイトみなみー!」


 部員たちがみんな座って一休みしている中、幸枝だけは声を張り上げて叱咤激励し続けている。ほかの五人の一年生チアガールたちは座って汗をふいたり、ペットボトルの飲み物を口にしたりしている。中段にいる一年生チアガールは、相手チームのチアガールの踊りを観察して、真似までしている。


 四回表は、荒森が先頭バッターに粘られて四球を出してしまった。それでもセットポジションになってからの投球が冴えていた。三年生キャッチャー小山の強気のリードも効いたのだろう。次の打者は三振、その次の四番打者は注文通りの二塁ゴロ併殺打に仕留めて、結果的には三人でこの回を切り抜けた。


 マウンドから駆け下り、途中でキャッチャーの小山と軽くグラブを合わせる荒森の動きには躍動感があった。アドレナリンがフルで分泌しているのだ。


 中央高吹奏楽部員たちは規律の厳しい軍隊にも匹敵するかのような練度で一斉に立ち上がる立ち上がる。最下段から、西野教諭が部員たちを睥睨する。


 最初の演奏は『タッチ』だ。三番、四番、五番、とクリーンナップに巡るので、このイニングの中央高の攻撃はチャンスである。


 それでも野球というのは、強打者であっても一〇回の内三回ヒットを打つくらいの割合でしかない。高校野球のような短期決戦の場合でも、五割打てれば凄い方だ。三番打者は相手投手の速球に完全に振り遅れての三振だった。『タッチ』からすぐに『ドラゴンボール』へと演奏切り換え。スタンド応援の吹奏楽部員たちは、打席の結果に一喜一憂している暇は無い。チューバが一人、最初の音を出し損ねた。テンポの速い曲なので、キリの良い所からでないと途中参入が難しい。慌てて演奏に合わせるチューバだが、音に動揺の色が隠しきれないように聞こえる。


 演奏のミスなど関係無しに四番打者はセンター前に教科書通りのクリーンヒットを打った。即座にウィリアム・テルのファンファーレ。慌ただしさのせいか、誰かがタンギングを間違えたように萌乃の耳には聞こえた。誰だかは分からないし、分かりたいとも思わない。犯人捜しをしている余裕は無いのだ。


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