第22話 校歌演奏


 プレッシャーを感じていないのか。もしくはプレッシャーすらも自らのパワーとすることができているのか。荒森は一年生とは思えぬほどの堂々たるマウンド捌きで、実力校の実業相手に現時点で一人のランナーすら許していない快投を披露していた。本人としても調子が良いのだろう。三者凡退が決まった所でマウンド上で小さくガッツポーズをし、踊り跳ねるような足取りで三塁側ベンチへ引き下がった。


 守備についていた選手たちがベンチに入ると、代わりにベースコーチがグラウンドに出てくる。背番号1番を背負ったエース対馬も出てくる。その時にはもう吹奏楽部員たちも既に立ち上がって己の楽器を構えている。


 二回裏の中央高の攻撃に先立ち、場内放送で中央高校歌が演奏される。


 それに合わせて、吹奏楽部演奏部隊が合奏し、裏方部隊とチアガールと控えの野球部員たちが歌う。


 一回裏の攻撃時には、エース対馬の骨折という驚愕の事実に直面してしまった故に、いまひとつ演奏に集中し切れなかった萌乃だったが、それでも最後の夏に演奏メンバーに選抜された意地と誇りがある。落ち込んでいる場合ではない。対馬が出場できないのは気の毒ではあるが、それならば、投げられない対馬の分も一人で頑張る荒森投手を応援しなければならない。そして、打線の援護で一年生ピッチャーを楽にさせてあげなければならない。


 陽光を受けて金色に輝くトランペットを構え、萌乃は熱い息を吹き込む。紡ぎ出される華やかな音。隣の田辺が生み出す音と滑らかに混ざり合う。仲間の部員たちが各々の楽器で繰り出す音符たちと合わさって、中央高校歌の旋律となって球場全体に敷衍し、一つの世界を形作る。それは金甌無欠の中央高フィールドといってもよかった。三塁側スタンドは意気軒昂し、バックネット裏内野席にまで、その勢いは波及して行くかのようだった。


 球場を囲む緑は深く、空は青く澄んで金色の日が照りつける。


 二回裏の攻撃は、中央高も四番打者からスタートだ。テーマ曲は『ドラゴンボール』。願いが叶う不思議な玉を集める冒険とバトルが熱い名作だ。主砲のシルバーのバットが、中央高アルプスの願いを叶えてくれるか。


 演奏は結構大変な曲だ。短いスパンに音符がたくさん並ぶので、小刻みにいくつも息を吹き込まなければならない。上手く行かない時は、全部音が繋がって聞こえてしまい、いまいち締まらない演奏となってしまうのだ。


 萌乃も、冬眠準備中のリスのように頬を膨らませて空気を溜め、そこから息を矢継ぎ早に吹き入れる。勿論呼応して横隔膜にも力を入れて肺から空気を送り出す。萌乃の前に陣取っているトロンボーンやユーフォニアムの奏者たちも、心なしか少し肩をいからせて気合いを込めて楽器を吹いている。


 その演奏を切り裂いて、球場に打球音が鋭く弾けた。ボールは鋭いゴロとなって三塁線を転がった。抜けろ! という三塁側の願いは叶わず、横っ飛びで三塁手が捕球する。ファインプレーと称してもよい俊敏な動きだったが、そこから立ち上がって一塁に投げようと振りかぶって、そこで動きを止めてしまった。もう間に合わないからだ。


 中央高の願いが叶った形だ。この試合、両チーム通じて初ヒットが、中央高の四番バッターに出た。三塁内野安打で出塁の四番打者が一塁ベース上で右手をあげてガッツポーズ。これでチームが勢いに乗らないわけがない。


 喜ぶ三塁側スタンド。だが吹奏楽部員たちは心では喜びながらも、手と息は忙しい。一塁セーフが確定した瞬間に、打者用の曲であるドラゴンボールからファンファーレへと切り換えるのだ。


 高校野球において、ヒットなどでランナーが出た時に奏する喜びのファンファーレは、テレビの甲子園中継でもお馴染みの定番曲がある。ただし、中央高の場合は別のファンファーレを使う。イタリアの作曲家ロッシーニの『ウィリアム・テル序曲』から、スイス軍の行進曲だ。誰もが必ず耳にしたことのある、勇壮で劇的な名曲だ。特に、野球応援の走者出塁時のファンファーレとして使う場合は、出だしの部分だけを演奏することになる。フルオーケストラが演奏するオリジナルヴァージョンでも、トランペットの華やかな音色が冒頭のメインとなる。吹奏楽ヴァージョンでもトランペットが主役として栄える曲であることは同じだ。


 つまり、これから中央高選手が活躍してヒットで出塁したり得点が入ったりすると、萌乃や田辺の三和音の活躍の場も増えるのだ。大変だけど、嬉しい悲鳴ということになる。


 この試合最初の安打が生まれて、この試合最初のファンファーレを無事にクリアして、萌乃も少し気分が落ち着いた。自らの遅刻や対馬の骨折など予定外の要素が多すぎて慌ただしかったが、時間の経過とともに演奏の方に気持ちを傾けることに成功してきていた。音楽室とは違って屋外なので、音の反響が無いため不安に感じる部分もあるのは事実だった。しかし西野教諭に名指しで怒鳴られることもなく、即ちそれは、しっかりとトランペットの音を出せているということだ。


 自チームの攻撃中は、吹奏楽部演奏部隊にとっては基本的に休む暇は無い。ファンファーレが終わったと思ったらもう次の演奏を始めることになる。五番打者のテーマ曲は『ルパン三世』だ。携帯電話の着信メロディーとしても人気のある定番曲であり、先程は実業高校も演奏していた。つまり、この曲で負けるわけにはいかない。


 五番打者は、クリーンアップの端くれとして、しぶといバッティングをしていた。簡単にツーストライクを取られてから、ボール球をしっかりと見極め、ストライクゾーンに来たボールには果敢にバットを出してファールにして逃げた。相手投手は球数が多くなって負担が増える。バッターは次第にタイミングが合いやすくなる。ファールで何球も粘ることはバッター側にとっては良いことづくめなのだ。


 が、応援する吹奏楽部員たちにとっては必ずしも良いばかりではない。バッターの打席が終わるまで、その曲をエンドレスで奏しなければならない。演奏時間が長引けば長引くほど、疲労も次第次第に蓄積する。試合終了までスタミナが保つかどうか心配にさえなってくる。まるで虫眼鏡で焦がしているかのような熱い直射日光が肌を灼く。今はまだ「おはようございます」という挨拶が通用する時間帯だ。これから太陽が高くなるにつれ、気温もますます上昇するのは確実だ。所々に浮かぶ白い彩雲は、空の青さを引き立てる役割は果たしていても、地上に日陰を落とす役には立ちそうになかった。


 ファール。途中で一回牽制球を挟んで、またファール。素直でない白球は真っ直ぐヒットゾーンへは飛ばず、明後日の方向へ迷い泳ぐ。


 芳紀の女子高生として真珠の肌を持つ萌乃ではあるが、今日一日だけでもかなりの日焼けを余儀なくされるだろう。家を出る前に日焼け止めは塗ってあるが、まさに焼け石に水だろう。


 五番打者は粘ったものの、最後は変化球にタイミングを外されて空振り三振に倒れた。四番打者のヒットに続いて良い打撃を期待できそうだっただけに、『ルパン三世』演奏をストップした吹奏楽部員たちのあちこちから小さな溜息が漏れた。


 それも一瞬だ。控え野球部員が既にボードを掲げている。荒森、と名前が書かれている。


 バッターは右打席に入ったため、背中を三塁側へ向けて立っている。背番号10番。孤軍奮闘で中央高のマウンドを守っている一年生ピッチャーだ。八番や九番ではなく、六番打者を任されているということは、下級生ながらも打撃にもそれなりの素質を見出されているということだ。三塁側スタンドの中央高応援団も、一年生の持つ勢いを信じて期待を高める。


 演奏曲は『残酷な天使のテーゼ』だ。オタクの間で非常に人気を博して社会現象にまでなったというロボットアニメのテーマ曲だ。本来ならば萌乃とは接点の無かったはずの歌だが、ソルフェージュ練習として大きな声で歌って歌詞も覚えている。歌詞にあるように、主人公の少年が神話となるような打撃を荒森に見せてほしい。祈るような気持ちを籠めて萌乃はピストンを押し込む。クラリネットもサックスもピッコロも音を紡ぎ出す。


 簡単に、荒森は初球を打ち上げてしまった。浅いセンターフライで、一塁走者は釘付けのままだ。


 正直にいって期待ハズレ。だがまだツーアウトであり攻撃は終わっていない。精鋭である吹奏楽部員たちには落胆している暇など無い。素早くボードを見て七番打者の名前を確認する。小山。曲は『セーラームーン』と書かれている。


 がっしりした体格が右打席に入って素振りをしている。広い背中に縫いつけられた背番号は2。キャッチャーの小山だ。


 西野先生の合図で演奏を開始する。セーラー服姿の美少女戦士が活躍するアニメのテーマ曲だが、正式な曲名は『ムーンライト伝説』だ。歌詞の内容から考えても、あまり野球部員を応援するには向かない曲のようにも感じられるが、この曲を選んだ理由について西野教諭は「かつて甲子園優勝校がこの曲を使っていたから」と部員たちに説明していた。萌乃も含めてほぼ全員が、あまり納得していなかった。だが、絶対専制君主である西太后の決定に異を唱える蛮勇の匹夫は、賢明な部員の中には一人も存在しなかった。


 トランペット演奏はそつなくこなしながら、萌乃はちらりと横へ視線を滑らせた。四人のチアガールが踊るのは、自チーム攻撃中がメインだ。当然ながら三年生斎藤幸枝もポンポンと笑顔を弾けさせて、演奏に合わせた動きで三塁側スタンドを明るく彩っていた。


 サッチーにとって恋人であるコヤマンの打席なので、普段以上に張り切って踊っているのだろうか。と萌乃は密かに思っていた。だが一見しただけでは、他のバッターの時との踊りの違いは見出せなかった。


 その小山も、打席に立っている時間は長くはなかった。ワンストライクの後の二球目を引っ掛けて、ショートゴロだった。小山は一塁へ全力疾走していたが、一塁走者が二塁に達する前に二塁にボールが送られてアウトとなってしまった。


「ああー」


 演奏中止の合図が西太后から出る前に、もう部員たちから落胆の声が漏れていた。全部員が吐いた溜息の合計リットル数は、楽器に吹き込む呼気以上の量だったかもしれない。


 これでスリーアウト。二回の裏、中央高は走者を一人出したものの、無得点で攻撃終了。


 西野教諭の合図も出たので、吹奏楽部員たちはその場にへたり込むようにしてベンチシートに腰を下ろす。グラウンド上ではアイボリーホワイトユニフォームの実業選手たちが一塁側ベンチへと駆け足で引き上げる。背番号1を背負った純白のユニフォームも、三塁側ベンチへとひっそりと戻る。場内放送では、「お車の移動をお願いします」として、迷惑駐車車両のナンバーを読み上げている。


 両チーム、静かな立ち上がりである。投手戦になりそうな気配であった。


 中央高は、一年生右腕荒森がどこまで一人で踏ん張ることができるか。それが全てだ。


 ペットボトル入りの烏龍茶で渇いた体を潤してから、萌乃は再び立ち上がって、背番号の縫いつけられていないユニフォーム姿で応援している野球部員たちの所へ赴いた。遅刻してしまったため、吹奏楽部員たちの中で萌乃だけが未だにメガホンを受け取っていなかったのだ。事情を話して黄色いメガホン二個を受け取る。後ろの方の席に座っている観客の視線をなるべく妨げないように、少し前屈み気味に歩いて自分の席へ戻る。西野教諭は持参してきた水筒の飲み物を飲んでいる最中で、萌乃の動きには全く注意を払わなかった。自チームが守備の時にトイレへ行ったり売店で飲み物を買ってきたりすることは禁止されていないから、立って歩いたとしても特に咎められる心配は無い。それでも、さほど用も無いのに無闇に歩くと、西太后の機嫌がいつ急転直下で激甚災害へと変貌するか分からない。危険な橋は渡らないにこしたことはないのだ。


 マウンド上には背番号10番。二回裏の打席では凡退してしまい自らの投球を援護する打撃をし損ねた荒森が、足場の土を踏み削っている。


 一年生投手の仕草を眺めつつ、萌乃はメガホンを打ち鳴らす感触を確かめる。周囲に目をやると、吹奏楽部員たちもみな楽器の代わりにメガホンを持っている。当然ながら演奏時よりは緊張感が緩んでいる。もちろん糸と同じで張り詰めたままでは切れてしまうだけなので、少しくらい寛いでいても顧問の西野は叱責したりしない。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る