第21話 白い手


 ならば、先発メンバーには入らずベンチからスタートの対馬が、三塁ベースコーチに立ったとしても不思議ではない。いずれはブルペンで投球練習を始めなければならないだろうが、その時は誰かとベースコーチを交代するのだろう。


 しかし萌乃は対馬の後ろ姿がいつもより心なしか小さくなっていることに気づいてしまった。待ちに待った最後の夏、その初戦なのに、どこか意気消沈している。


 対馬は、利き手であるはずの右手に白い手袋をはめていた。


 いや、手袋ではない。


 スタンドの萌乃が立っている位置から対馬までは距離があるが、それでも萌乃は気づいていた。


 包帯だ、あれは。右手を完全にぐるぐる巻きにしている。手袋ではないと萌乃が判断できたのは、最近同じものを見ている経験ゆえだった。骨折した幸枝の手と、全く同じような状態なのだ。


 つまり、対馬が右手を骨折している、ということか。


 萌乃の心臓が大きく脈打つ。首筋から蒸気のように汗が噴き出す感じがする。動揺にわななきかける唇に力を入れて律し、音を乱さぬようヤマトの演奏を継続する。目の中が熱くなってきたと自覚し、少し上を向いた。


 いつ骨折などしたのだろう。最後に対馬を見かけたのはいつだっただろうか。順調に仕上げていて、その時には骨折などしていなかったはずだ。翼を広げて飛び立ちたい気持ちが疼いている鵬のように、試合を心待ちにしていたはずだったのに。衣類乾燥機のドラム内のように、熱くなった頭の中で一つの疑問が巻き上がってはまた次の疑問が巻き上がり、混乱するばかりだった。


 あたかも地震のような精神の動揺で、少し手が震えた。トランペットのバルブを押さえる動きが少し狂う。幸い西野教諭に聞き咎められなかったようだ。その時、一番バッターが打ち上げてしまい、ピッチャーフライに倒れた。西野教諭が掌を向けて手を真上に挙げる。演奏ストップの合図だ。吹奏楽部の演奏メンバー全員が、野球部控え部員が持つボードに注目する。選手の名前は長谷川。その下に書かれたテーマ曲は『アンパンマン』。


 西太后が打ち鳴らすシンバル音のリズムに続き、演奏が始まる。この曲はマーチ、それも小さい子供向けのアニメなので、とにかく明るく楽しく、ハキハキとした音を出すようにと指導されていた。


 アンパンマンのマーチを演奏しながら、萌乃は周囲の様子を窺う。左隣の田辺は、少し俯き気味ながら、西野教諭の教え通り元気にスタッカートを意識しつつテヌートと区別してしっかりと音を出している。萌乃の目で見た限りでは、田辺の表情には変化はうかがえなかった。他の部員たちも、朝っぱらからの暑さには相当辟易している様子は垣間見えるものの、それ以外は普通に冷静に演奏しているようだった。幸枝も含めて四人のチアガールも練習の成果を発揮して、ポンポンを振りながら踊っている。


 エース対馬の異変に、誰も気づいていない、ということはさすがに無いだろう。恐らく、遅れて球場に入った萌乃だけが、対馬に関する情報を聞きそびれたまま、演奏本番に入ってしまったのだ。


 そうこうしている内に、二番打者は変な球を打たされてしまった。引っ掛けた打球は弱い三塁ゴロとなり、落ち着いて一塁に送球されてアウトとなった。地域の強豪校である実業の守備はしっかりと安定している様子だ。西野先生の合図で、車の急ブレーキよりも確実に演奏は停止する。


 次の演奏曲は『タッチ』だ。野球漫画であり、高校野球の応援演奏における定番だ。この曲を奏するチームが多いからこそ、優劣が比べられやすい。音の質においても量においても、負けるわけにはいかない。打席に立つのはクリーンアップの三番打者ということもあり、吹奏楽部員たちは気合いを込めて吹く。


 実業の左腕エースはキャッチャーのサインに頷き、白球を投じる。左打席に立った三番打者は動かず、審判の右手は上がらず、スコアボードのBのランプが一つ水色に点る。萌乃たちが陣取る三塁側スタンドからメガホンによる拍手が起こる。控えの野球部員や応援の父兄たち、そして裏方役の吹奏楽部員たちからの熱いエールだ。


 萌乃は演奏を続けるが、気になって気になって仕方がなかった。実業ピッチャーと中央高バッターの対戦に注目していつつも、どうしても視線が三塁ベースコーチの方に流れる。まだ走者が一人も出ていないので、ベースコーチは特に何もせず突っ立っているだけのように、素人目には見えた。右手の包帯の白が、ユニフォームの純白よりも異様に眩しく光って見える。


 左投手対左打者の対決のため、バッター不利という法則が働いたのか、飛んだ打球は素人目に見ても勢いの無い二塁ゴロだった。スリーアウトとなり、一塁側のスタンドから大きな歓声と拍手が湧き起こる。


 自チームの一回裏の攻撃が三者凡退無得点で終わってしまうのは残念だが、それでも萌乃は演奏ストップとなる時を待っていた。ベンチシートに腰を下ろしながら、左隣の田辺に話しかける。


「田辺くん、エースの対馬くんって、なんか右手に包帯巻いていなかった?」


「ああ、なんか昨日、自転車で転んで骨折したらしいですよ」


 聞きたかった答え、聞きたくなかった事実が、田辺の口からあっさりとこぼれた。


 球場では、二回表開始前ということで、実業高校校歌が演奏され始めた。


「ど、どういうこと? 田辺くん、詳しい事情知っているの?」


 お尻を左にシフトして、萌乃は田辺に詰め寄った。田辺は長い前髪を掻き上げながら、困ったように眉を八の字に顰める。「また聞きの噂だけど」という前置きをしてから、田辺が説明してくれた。


 昨日の夕方、母親に頼まれたお使いで、対馬は自転車に乗って郊外のスーパーへと買い物に向かった。途中、見通しの悪い交差点で、自転車に乗ったお爺さんと出会い頭に衝突しそうになって、対馬はぎりぎりで避けたものの、転倒してしまい、その時に右手を強打した。幸いお爺さんは無事だった。対馬も無事に買い物を済ませて帰宅した。


 だが、手の痛みは引くどころか次第次第に大きくなり、試合を明日に控えていることもあって心配になったため、念のため病院へ行って検査してみることにした。外科は既に診療時間を過ぎていたので、幼い頃からのかかりつけの小児科へ無理を行って駆け込んだ。


 結果は骨折だった。詳しいことは外科に行って診察してもらいなさいと言われたが、恐らく全治二カ月くらいだろうとのことだった。


 後は応急措置を受けた。対馬の右手は包帯に支配された。


 誰からどのようなルートで伝え聞いたのか、随分と詳しい話だった。だが詳しい内容など実はどうでも良いのだと今更ながら気付く。


 三年生エース対馬は、大会前日に右手を骨折してしまった。


 その事実だけが、中央高野球部にとって全てだった。


 まるで目の前に壁のような入道雲が立ちはだかるように、萌乃は頭の中が真っ白になった。グラウンドの土は、試合開始前に撒かれた水がまだ残っていて黒く染まっていたが、攻守交代で三塁側ベンチから出てきた中央高ナインのユニフォームの白さが、嫌味な程に眩しいコントラストとなっていた。


 垂れ下がってきた蜘蛛の糸に向かって手を伸ばすような心境で、萌乃は声を絞り出した。


「つ、対馬くんって、右ピッチャーだったよね? あれで投げられるの?」


 田辺は萌乃の顔を真っ正面から見つめて、哀しげに鼻で嗤った。


「まさか。投げられるわけないですよ」


 汗が、萌乃の頬を伝う。前髪が汗に湿った額に貼りついた。


「じゃあ、今、投げている一年生ピッチャーが行けるところまで行って、最後に対馬くんが出てきておさえて逃げ切る、っていう勝ちパターンは?」


 田辺は無言で首を横に振った。長い髪がすだれのように、田辺の鼻先で揺れた。


「そんな……どうして、こんな……」


 これでは、大事な時に骨折しちゃったサッチーと同じじゃない!


 声には出さず、胸の内だけで萌乃は叫んだ。絹布を引き裂くような悲痛さを備えた魂の迸りだった。これは残酷な天使の悪戯なのだろうか。どうして幸枝と対馬が、似たような運命を辿らなければならなかったのだろうか。


「田辺くん。このことはみんな知っているの?」


「ボクたち吹奏楽部には西野先生から、対馬投手が骨折した、という事実報告がありました。球場に入る前に全員集合した時点で。ボクは、昨日の夜中の時点で詳しい話を、荒森から電話で聞いていたんですけどね」


 大会直前でのエースの骨折。野球部にとってどれだけの衝撃だったか計り知れない。


 今年の野球部の上位進出を期待していた応援団全員にとっても、それは不意打ちの通告だっただろう。それでも中央高吹奏楽部は絶対君主西太后の麾下の精鋭部隊である。試合が始まる前までには気持ちを切り替えて、演奏に集中できるようモチベーションを高めていたのだろう。だから、吹奏楽部員たちは冷静に一回裏の演奏を完遂した。精神的動揺が音質に響いている事実は認められなかった。


 遅刻したのは本人の責任だが、萌乃は演奏の最中に、対馬骨折という事実に不意打ちで直面することとなってしまった。


 実業高校校歌演奏は終わったが、萌乃の心の海はいまだに荒波が立ったままだ。


 マウンド上では、キャッチャーマスクをお尻のポケットにぶら下げたキャッチャー小山が、一年生右腕荒森に対して一言二言アドバイスを送って、ホームベースへと戻って行くところだった。


 抑えのエースである三年生対馬が登板できないということは、現在マウンドに立っている長身の一年生投手に中央高野球部の命運を託すしかない。


 荒森は、一年生らしい勢いはあるが、スタミナに不安があって、終盤になると球威が落ちて捕まってしまうケースが多い。だから、そうなる前に対馬に継投する……はずだった。


 継投プランが崩れ去った今、荒森一人で最後まで投げきってもらうしかないようだ。中央高野球部において対馬と荒森以外で実戦登板する投手がいるという話は、萌乃は寡聞にして聞いたことがなかった。


 一塁側スタンドからは、中央校に負けじと吹奏楽部の大音量演奏が響き始めた。場内アナウンスでは実業高校の主砲である四番打者がコールされ、バックネット裏内野席も含めて拍手が起こる。


 相手は実業高校。近隣の中では有数の私立強豪校だ。対する一年生ピッチャーの双肩に、いや右肩に、公立進学校であるチームの運命がかかっている。実業吹奏楽の迫力ある演奏が渦巻いている球場の中心で、荒森はたった一人で立っていた。その姿は細身ながらも堂々としていて、相手の演奏を押し返しているかのようにも感じられる。荒森の一挙手一投足に注目しつつ、萌乃は固唾を飲んだ。


「頑張れ頑張れア・ラ・モ・リ! 頑張れ頑張れア・ラ・モ・リ! イエーイ!」


 まるで萌乃の不安を酌み取ったかのように、六人の女子の甲高い声が響いた。幸枝を含むチアガールたちが息を合わせて声援を送ったのだ。


 その声がマウンドまで届いているのかどうか。荒森は遠目に見た限りでは落ち着いた様子でロジンバッグに手をやった。白い粉が一瞬だけ小さく舞い上がる。


 とにかく、対馬が投げられないなら荒森に頑張ってもらうしかない。だとすると、萌乃にできることは、精一杯荒森を応援することだ。自校の野球部には当然勝ってほしいし、萌乃自身にしても三年目にしてやっとトランペットのポジションを獲得した野球応援を、たった一試合で終わらせたくはない。


 自チームが守備の時は、声とメガホンと拍手で応援する。これは演奏メンバーであっても裏方メンバーであってもチアガールであっても同じだ。隣でペットボトルの緑茶を飲んでいる田辺に、萌乃は呼びかけた。


「ねえ田辺くん。一緒に、アラモリ頑張れー、って言おうよ」


 長い前髪を邪魔そうに避けながら、田辺は目を細めた。


「いいですね。じゃ、せーの、で合わせましょう。せーの」


「「アラモリ頑張れー!!」」


 トランペットパートの二人は、トランペットを吹かなくても、野球部の一年生投手を鼓舞することができるのだ。萌乃と田辺のみならず、スタンドからの声援が届いて力へと変換されたのだろう。荒森投手は軽快なテンポの投球で、相手四番打者を空振り三振に仕留めた。


 続くバッターもセカンドゴロ、キャッチャーファールフライで打ち取って三者凡退となった。バックスクリーンのスコアボード、実業高校二回表にゼロが入る。


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