第20話 ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン


 電話口で西太后の説教が続く。もう萌乃の心は、名前とは裏腹に枯れ草のように萎れてしまった。自転車のペダルをこぐ足の力も少し萎える。


「とにかく、もうこちらは先に入場しています。たった一人を待っていられませんから」


 ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン。ではないのですか。と言いたい所だったが、一つ反論すれば千の罵倒が返ってくるだけなので、萌乃は賢明に自重した。


「本来は応援の生徒は入場無料ですが、あくまでも団体入場の場合です。小泉さんは後から単独入場ですから、一〇〇円で入場券を買って入ってください。いいですね」


「え、でも、中央高の制服着ているし楽器持ってるし、ちゃんと事情を話せば入れてくれ」


「遅刻のペナルティーとして、一〇〇円ではあるけど大会運営費用のために払って入りなさいと言っているのです。それが分からないのですか!」


「は、はい。もうしわけございま」


 最後まで謝罪の言葉を萌乃が言い切るのを待たず、西野教諭の方が電話を切った。全身の筋肉に盈溢していた不愉快な緊張が抜けて、良くも悪くも脱力した。新着メールが来ているようだったが、時間もおしているし、面倒くさいので後でチェックすることにして、携帯電話は折りたたんでバッグにしまった。


 もうどうせ怒られたのだから、太腿の筋肉が張るほどに力を込めて急ぐ必要性は無いように思えた。吹奏楽部の集合時間は、試合開始よりも随分前に設定されている。すこしぐらい遅刻しても、試合開始には充分に間に合うはずだ。過日、転んですり剥いた膝が少し痛むのも自分への言い訳の一つとなった。


 西野先生に対する言い訳が無用になり、自分自身に対する言い訳が幅を利かせた。萌乃は力を抜いた。道端に立てられている交通安全の黄色い旗が、弱い風に少しだけ靡く。そう。急ぐ時こそ焦らずに交通安全を遵守した運転が必要だ。


 ほとんど風が無い日に自転車をこぐと、むしろ自分の方が風になる。


 市街地を抜け次第に民家の密集度が低くなりゆく。反面、朝顔の花が恥じらいながら開くように、朝の空が開けて大きくなる。休憩を兼ねた信号待ちを繰り返しつつ、最後の坂道に差し掛かる。制服のスカートが揺れるのも構わず、立ちこぎで目的地の球場を目指す。


 球場が近づいてくると、地鳴りのような響きと共に、吹奏楽の演奏が萌乃にも聞こえ始めてきた。ルパン三世の曲に合わせて、多数のメガホンが打ち鳴らされる音と大太鼓の轟きがリズムを刻む。ウグイス嬢が何かをアナウンスしているが、演奏のボリュームに負けていて内容を聞き取ることはできなかった。


 もうすでに応援演奏が始まっているのだ。


 開始前に着くことができなかった、と一瞬落胆しかけたが、よくよく聴くと、中央高吹奏楽部の演奏と応援のパターンとは少し違っているように感じられた。


「実業の演奏だ、これ」


 試合は、実業の先攻で行われることになったらしい。萌乃は脚の限界に挑戦した自転車運転で間に合ったことを安堵すると同時に、観衆を圧倒するような実業高校吹奏楽部の演奏に感嘆した。吹奏楽コンクールが近いとはいえ、野球強豪校の吹奏楽部にとっては応援演奏もまた重要な花形行事の一つ。中央高にとってライバルである実業吹奏楽部の底力を早くも見せつけられた格好だ。


 駐輪場で自転車にチェーンロックをかけると、萌乃は急ぎ足で入場口へ向かった。正面に据え付けられている大きなボードには、トーナメント表が貼り付けられている。既に大会一日目と二日目は順調に試合を消化しているので、勝利チームは太い赤マジックで勝ち上がりが書き込まれている。別のボードに貼り出された紙には、試合結果がランニングスコアと共に書き込まれている。チケット売り場には数人の年配の人が群がっていた。高校野球ファンにとっても、待ちに待った高校野球の夏が到来したのだ。


 萌乃は窓口に並び、一〇〇円でチケットを買う。事情を説明して無料で入れてもらおうかとも思ったのだが、後で西野教諭にチケットを見せるように言われたら困るので、正直に指示に従うことにしたのだ。入場口では、当番校の野球部員が三名でチケットモギリと大会プログラム冊子販売を行っていた。


 日陰の階段を駆け上がる。平日にもかかわらず、人がいっぱいいる。球場内の売店も繁盛している様子だ。高校野球は日本の夏の風物詩。つまりは観る側にとっては一種の夏祭りという感じでもあるのだ。球場のこの雰囲気が好きというファンも多い。


 人なみをかき分けて三塁側のスタンドに出ると、再び眩しい日差しが萌乃に降りかかる。中央高吹奏楽部の面々は既にポジションについて楽器の準備を終えているが、今は演奏はせずに座ったまま両手に持った黄色いメガホンを叩いて応援している。


 試合は始まったばかりで、バックスクリーンのスコアボードには、まだ両チームの得点経過が入っていなかった。先攻は一塁側の実業高校で、中央高は現在は守備についているのを、萌乃は素早く確認した。遅刻は遅刻だが、中央高が後攻のため、演奏には間に合った。運が良かった。


 中央高吹奏楽部メンバーは、最前列の中央に西野教諭と部長とパーカッションのメンバー、その後ろにフルートやクラリネットなどの木管がいくつかの列を作り、その更に後ろにトロンボーンやチューバなどの金管楽器メンバーの列がある。部長以外のトランペットメンバーである萌乃と田辺のポジションは、一番後ろの列の内野側だ。


「部長! 遅れて済みませんでした」


 萌乃は「部長」に向かって大声で呼びかけ、腰を九〇度くらいに折った。部長と、隣にいる西野教諭が萌乃の方に視線を送る。西野教諭が何かを言い出す前に、萌乃は風のように素早くその場を去り、一番後ろの列の右端に座る。隣に座っている田辺はどこか沈んだ表情をしていた。


「小泉先輩、いきなり遅刻ですか。後で西野先生にガッツリ怒られますよ」


「あ、おはよう田辺くん。ちょっと、寝坊しちゃってさ」


 照れ笑いを浮かべてごまかしながら、萌乃はソフトケースを開いて自分のトランペットを準備する。弱く息を吹き込んで音を確かめながら、グラウンドの様子もうかがう。


 マウンド上には、中央高の純白ユニフォーム姿が仁王立ちしていた。右投手なので、普通に構えている状態で三塁側に顔を向けている。あの一年生、荒森だった。幸枝に聞いていた通り、行ける所まで期待の一年生投手で行って、最後は継投で逃げ切る、という戦略のようだ。


 その幸枝はというと、既に四人のチアガールの一人としてポジションについていた。スタンドの上段、下段の、それぞれ外野側と内野側に一人ずつ。幸枝は上段の外野側に立っていた。上段ということでは萌乃と同じだが、右と左に離れている。


 幸枝に声をかけに行こうか、とも思った萌乃だったが、トイレに行くなどの用事が無い限りは無闇に自分の位置から動くと西野教諭に見咎められて叱責を受けてしまう。いまだに幸枝に対してどう接して良いか判断しかねている躊躇いもあって、結局は自分の位置で自分の演奏準備を優先させることにした。額に少し汗が浮かんだのを右手の甲で無意識に拭った。


 弱い風に流されるようにして、萌乃の目の前をモンシロチョウがひらひらと舞い飛んで行く。球場のバックスクリーンの向こうは五穀豊穣と学業成就の御利益で知られる神社の境内であり、大きな杜となっていて濃い緑が目にも鮮やかだ。その反面虫が多くて困るということも、去年と一昨年の経験から知っていた。


 慌てて球場に入ったばかりで、いまだ落ち着いて試合展開を把握しきれていなかった萌乃をよそに、マウンド上の一年生投手は市内の強豪である実業高校相手に堂々としていた。長身から繰り出す右腕は鞭のようにしなり、矢のごとき速球がキャッチャーミットに突き刺さり鋭い音を残す。実業高校打者のバットが空気を切り裂いて空回りする。審判が親指を立てた右手を上げて何かを叫ぶ。スタンドではその声は聞き取れないが「ストライク」で間違いは無い。三塁側のスタンドでは中央高の応援団がメガホンと太鼓を打ち鳴らす。


 キャッチャーが荒森にボールを返す。マスクを被っているので顔は確認できないが、小山だろう。捕手用のプロテクターを装備しているせいもあるが、肩幅が広くて、実業のバッターよりも遠目に見てもずんぐりした印象がある。


 ボールを受け取ったら、一秒かそこらしか時間をおかず、すぐに大きく振りかぶった。ランナーはまだ出ていない。いつキャッチャーとのサインの交換をしたのか、野球素人の萌乃には分からなかった程の早い動作だった。先程と同じようなフォームから、荒森投手は白球を解き放つ。


 萌乃の目には、さっきの一球の時と全く同じ録画映像を流しているようにしか見えなかった。実業高校の右打者のバットが同じように空を切る。審判がストライクを宣告し、それと同時に守備についていた中央高ナインが三塁側ベンチに駆け戻って来る。左隣の田辺が両手に持った黄色いプラスチックメガホンを壊れそうなほどに強く打ち鳴らすので、萌乃もそれに倣った。とはいえメガホンをもらっていないので素手で拍手をした。


「小泉先輩、最初から観ていなかったの、惜しかったですね。荒森、三者連続で空振り三振ですよ。すげぇ!」


 場内アナウンスのウグイス嬢が、一回の表での実業高校の得点が無かったことを告げる。


「一年生の荒森くんって、本当にすごいんだ」


 半ば独り言のように呟いた。少しだけだが、寝坊して荒森の立ち上がり奪三振ショーを見逃したことを後悔した。


 それでも感慨に浸っている暇は無かった。一回表実業高校の攻撃が無得点で終わった後は、一回裏の中央高の攻撃が始まる。つまり、吹奏楽部の戦いも始まるのだ。


 部員たちは慌ただしく立ち上がり、メガホンを置いて、自分の楽器を構える。スタンドの最前列にいる西野先生と、段ボールに選手名を大きく書いたボードを掲げる控えの野球部員の様子に注目する。ボードには「柳田」という名前が書かれていて、その下にカタカナでヤナギダと読み仮名が、更にその下には演奏するテーマ曲が小さく「ヤマト」書かれている。


 西野教諭がスティックで、横に設置してあるドラムセットのシンバルを叩いてリズムをとると、まだ一番打者がバッターボックスに入るよりも随分前ではあるが演奏が始まる。野球応援とは思えないほど、コンクール演奏に匹敵する程ハイレベルに息が合ったアンサンブル。曲は勇壮な『宇宙戦艦ヤマト』だ。地球滅亡を防ぐ希望の船を送り出す曲だ。中央高勝利に向かって期待を込めて送り出す俊足一番打者に相応しい選曲だろう。


 中央高吹奏楽部の演奏の中、グラウンド上では攻守交代で中央高と実業の選手が入れ替わる。マウンドには実業高校の背番号1番の選手が立つ。プレートの少し前をスパイクシューズで踏みならすと、左腕から投球練習の球を繰り出す。アイボリーホワイトのユニフォームを纏った実業の選手たちは、守備位置につくとキャッチボールを始める。パーカッションの人が叩いている大太鼓の音が、バックスクリーンで跳ね返って、少し遅れた時間差で響く。


 中央高の選手たちはみなベンチに入っている。グラウンドに出ている純白のユニフォームは、素振りをしている一番打者と、足にプロテクターを装着している二番打者。そして、一塁と三塁のベースコーチだけだ。


 演奏が一通り終わっても、まだ一番打者は打席に入っていないので、また最初から曲を演奏する。そのバッターの打席が終わるまでエンドレスでループする方式だ。萌乃も、自転車こぎから回復した息を、魂と共にトランペットのマウスピースに吹き込み、ヤマトを奏でる。


 相手左腕投手の投球練習を漠然と眺めながら演奏していた萌乃だったが、ふと、手前に立っている純白ユニフォーム選手の様子に注意が向いた。スタンド最前に設置されている金網フェンスの上端が邪魔になってやや見えにくい位置に背中を向けて立っているのは、三塁ベースコーチ、背番号は1番だった。


 中央高のエース、三年生の対馬だ。


 一年生の成長株である荒森を先発させ、行けるところまで行かせて、最後は信頼感のある三年生エースで試合を締める、というのが今年の中央高の戦法だ。西野先生も幸枝も、そういった趣旨の発言をしていたと、萌乃ははっきりと覚えていた。


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