第19話 急げ自転車


「吹奏楽部自身のコンクールも間近ですが、その一方で高校野球大会も始まります。土曜日第一試合が、中央高の初戦です。対戦相手は実業高校です。私立の強豪ですから、野球部にとっては一回戦から正念場です。我々吹奏楽部にとっても、実業高校吹奏楽部はライバルですから、負けてはいられません。コンクール曲の練習もありますし、野球応援曲の練習ができる時間ももう限られています。心身を引き締めて練習に臨んでください。また、今日はごらんの通り雨降りで、少し肌寒いくらいですが、天気予報によれば今週は概ね快晴で、一回戦当日は午前中からかなり気温が上昇する模様です。気温の変動が激しいようですが、体調管理にも十分に注意してください。では、練習を再開してください」


 また、一斉に楽器の音が出て、もう窓外の雨だれは音をかき消されてしまう。通学路の途中で見かける、赤紫色と白のコントラストが眩しい朝顔の花が、空を向いて灰色の雲の切れ間からでも朝の光を吸い込もうとしているのに倣うかのように、萌乃も朝顔とも呼ばれるトランペット先端部分のベルを高く掲げて、気持ちを籠めて息を吹き入れる。


 西野教諭は音楽室から出て行く。放課後の練習はずっと付きっきりで指導するが、早朝練習は、部員に任せる。


 音出しの段階なので、顧問教諭がいなくなると多少は雰囲気が緩んだ。萌乃の脳内では、先程の西野先生の言葉がゆっくりと浸透し始める。


 そういえば確かに、実業の吹奏楽部の応援に負けるわけにはいかないかも。


 そういう思いが実感を伴って細胞の隅々まで血液の循環に乗って運ばれる。一年生の時は悪夢の臨時チアガール、二年生の時はサポート要員としてペットボトルに米粒を入れた自作マラカスとプラスチックメガホンでの応援だった萌乃にとって、トランペット演奏による応援参加は高校生活三年目にして最初で最後だ。中央高野球部対実業高校野球部という対決であるのは当然だが、応援合戦ということでいうと、中央高吹奏楽部と実業高校吹奏楽部の対決構図でもあるのだった。中央も実業も、吹奏楽をメインとする応援スタイル同士である以上、相手よりも質の高い演奏で圧倒したいところだ。八月の吹奏楽コンクールでも、全国大会を目指すパート同士として鎬を削ることになるので、前哨戦的意味合いもあるといえる。


 実業吹奏楽部には負けられない。


 応援演奏で相手を凌駕することができれば、野球でも相手を上回ることができるに違いない。


 萌乃だけではなく全ての部員がそう信じて、ラストスパートの練習に励む。試合当日の演奏メンバーから外されてしまっている裏方メンバーも含めて、よりよい音を追求して楽器を吹く。この場にいないのは、幸枝をはじめとする臨時チアガールの四人だけだ。


◇◇◇


 混乱する頭の中で、必死に萌乃は言い訳を考えた。巡り巡って、結局は正直に言うだけが一番良いという結論に至っていた。ペダルをこいでこいで、風の抵抗値を忌々しく感じながら一目散に球場を目指す。朝から晴れていて気温も上昇しているので、全身から早くも汗が滲み始めていた。


 昨晩は、いよいよ明日が試合だと思うと緊張してしまって、しかも暑くて寝苦しかったので、布団に入ってもなかなか寝付けず、それで寝坊してしまいました。ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。


 何度も口の中で小さく呟く。いざ、西太后の前に引き出された時に、よどみなく言うことができるかどうか。あまり流暢過ぎてもまずい。あらかじめ用意してあった台詞だと誠意が籠もっていないように解釈されてしまうかもしれないからだ。


 寝坊してしまったから、萌乃にはじっくり寝癖を直す時間が無かった。髪型が著しく乱れていて少し恥ずかしいのだが、誰も萌乃の髪型の違和感になど注目しないと思いたかった。


 朝、萌乃が目を覚ましたのは暑さによる寝苦しさゆえだった。セットし忘れていた目覚まし時計の文字盤を見て、ギャグ漫画のように目玉が飛び出すかという程の衝撃に戦慄した。


 慌ただしくピンク色のタオルケットを跳ね退けると、マジシャンもかくやという早業でパジャマを脱ぎ捨て、レモンイエローのブラジャーを着ける。オバサン臭いが、前でホックを留めてからカップを前に回すという急ぐ時の荒技だ。音速を超越すると自分で錯覚するほどのスピードで準備を整える。もちろん忘れずに、トランペットのケースを持って部屋を出る。大きな楽器は、学校の先生が運転する車に積んで球場に運ぶが、小さな楽器は演奏者が自ら家から持って行くことになっているのだ。


 階下に降りると、母親が鼻歌交じりに料理を作っていた。理不尽とは知りつつも、萌乃は叫ばずにはいられなかった。


「お母さん! どうして起こしてくれなかったの!」


「え、だって今日は試合の日でしょう。朝練も無いし、集合時間は普通の登校時間よりも随分遅いって言っていたじゃない」


「そうは言ったけど、今からじゃ完全に遅刻だよ! お母さん、自転車貸して!」


「あら、ダメよ。今日はフラダンス教室がある日だから」


「お願い。今日だけタクシーで行って!」


 東大寺の大仏様を拝む鑑真和上であるかのように、萌乃は母に手を合わせて懇願した。


 母は娘に、作ったばかりの弁当の包みと冷蔵庫に入れて冷やしてあった烏龍茶のペットボトルを渡しながら笑顔を向ける。


「しょうがないわね。急ぐからって、気を付けて行きなさいよ。最近は自転車での事故で怪我をしたり亡くなったりする人も多いみたいだから」


「分かってるっ! ありがとっ!」


 ひったくるようにして、水色のペイズリー柄バンダナに包まれた弁当箱を胸に抱え、萌乃は寝癖頭の上にクエスチョンマークを浮かべた。


「あれ、今日は野球部の応援で、直接球場に行って授業は公休だから、ええと、お弁当はいらないはずだったけど」


「何を言っているのよ萌乃。第一試合は午前中に終わるから、午後からは学校に戻って授業に出なければならない、ってあなた自分で言っていたでしょう。土曜日なのに授業あるの、とも聞いたでしょ? 忘れたの?」


 指摘されてようやく思い出した。本日は土曜日だった。萌乃は、自らが未だ寝惚けた世界に漂っていることを自覚せずにはいられなかった。頭の外側は寝癖、内側はカオス。最悪の状況だった。


 トランペットはワインレッドのソフトケースに入れてあるので、ショルダーベルトを掛けて背負う。弁当や午後から使用する教科書などの諸々一式は、赤黒柄のカジュアルリュックに詰め、ママチャリの前籠に押し込む。チェーンロックの四桁の数字を母の誕生日に合わせて銀輪を解放すると、いよいよ出陣である。


 試合が行われる球場は、同じ市内ではあるものの、地図上では隣町との境界線ギリギリの場所という郊外にあった。いわゆるママチャリで疾走する萌乃の行く手には、箱根駅伝の難所として知られる権太坂に匹敵するような急坂が球場の直前で待ち構えている。


 市街地を抜けて坂に差し掛かるまで体力を温存しておきたいところだったが、贅沢も言っていられなかった。市街地を走る時は、狙いすましたように萌乃の手前で信号が赤に変わってしまう。自転車から降りて、沸き立つ苛立ちを理性という荒縄で亀甲縛りにして押さえ込みつつ、横道の歩行者用信号が点滅し始めるのを待つ。


 信号が青になると同時に自転車を押しながら横断歩道をダッシュする。イメージは冬季オリンピックにおけるリュージュのスタートシーンだ。


 早く道路を渡ろうと気が急いていて萌乃は注意力が周囲に及ばなくなっていた。前方からやってきたタクシーがウインカーをつけて左折しようとし、萌乃と接触する寸前で急ブレーキで停止した。お互いに相手の存在に、直前まで気づいていなかった。肝を冷やしながらも、萌乃の足は止まらなかった。タクシーに会釈して横断歩道を駆け抜け、同時に自転車に飛び乗る。自転車が加速して最高速度に近づくにつれ、何か重要なことを失念していたような気がして、ぼんやりとした不安のようなものも影法師のように追いかけて来る。


「あっ、急ぐんだったら、自転車よりもタクシー使った方が早かったかも……」


 母親にタクシーを使うよう頼む発想はあったにもかかわらず、自分がタクシーを使うという選択肢が思い浮かばなかった。寝惚けた状態の脳はよほど機能が低下するものらしい。料金はかかるものの、自転車のように坂道で苦労する必要もなく、タクシーの方が遥かに楽だったはずだ。だがもう遅い。今更自転車を乗り捨ててタクシーに乗り換えるわけにもいかない。


 今更ながら、太腿の筋肉が強く張り詰めてきた。中学時代には陸上部で鍛え、高校に入ってから吹奏楽部に所属しても基礎体力訓練としてロードワークも行っているけれども、それでも急激な運動はさすがに厳しかった。筋肉繊維の一本一本が、素人が掻き鳴らしたヴァイオリンのようにけたたましい悲鳴を挙げていた。


 犬のように大きく口を開け、はあはあと吐息を漏らす。汗をかかない犬とは違い、萌乃は既に顔中が玉の汗塗れになっていた。


 街路樹のイチョウの木が次々と後方へ流れてゆく。路上で生ゴミのクズか何かをつついていたカラスが億劫そうに飛び立つ。萌乃の自転車はスピードに乗っていたにもかかわらず、またも信号に捕まって停止を余儀なくされる。


 信号待ちを休息時間として、少しでも呼吸を整える。気持ちも幾許か冷静になったのか、無断で遅刻というのは西太后の逆鱗に触れる可能性が一〇〇パーセントであるという事実に遅まきながら萌乃は思い至った。


 少し速度を落とし、素早く周囲を見渡して安全であろうことを確認すると、本当は危険でいけない行為だと知りつつ片手で携帯電話を取り出す。前方と手元の画面の間を、幾度も視線を往復させつつ、部長の携帯電話の番号を呼び出した。西野教諭に直接電話するのはさすがに怖かったので、部長に報告することによりワンクッションを置こうという萌乃自身我ながら姑息と思ってしまう方法だった。


 右手に持ったケータイを耳に押し当てて片手運転。幸運なことに、呼び出しコール一回で部長は電話に出てくれた。


「もしもし。どうしたんだよ小泉。もうみんな集合して待っているんだぞ」


 おはようの挨拶すら無しに、部長は萌乃を問いつめた。


「あーおはようー、ごめんねー、ちょっとー、そのー、寝坊しちゃってー」


 雰囲気を和ませる効果を期待して、わざと語尾を伸ばす間延びした口調で説明する。部長相手だからできることであって、西野先生相手ではこのようなしゃべり方をしたら即座に雷が落ちる。


「寝坊かよ。今どこにいるんだよ。あと何分ぐらいでこっちに着く?」


「ええと、ごめん。どれくらいかかるかよく分からないけど、急いで行くから待ってて」


「待っていられないぞ。団体応援は、一斉に入場しなくちゃいけ」


 途中で部長の言葉が途切れた。電波の調子が悪いのかと一瞬思ったのだが、すぐにその甘い考えは木端微塵に砕かれた。


「小泉さん! 大事な試合の日に寝坊とは何事ですか! 土曜日で休みのつもりだったのですか!」


 甲高いヒステリックな叫びが萌乃の絹のように柔らかい鼓膜を襲う。色々考えていた釈明の台詞とか部長を通すことによってクッションを入れる小細工とか、寝坊を埋め合わせようと企んだ何もかもが無駄になった瞬間だった。


 冷静に考えてみれば当然だった。吹奏楽部部長というのは、原則として顧問教師の御用聞きである。だから何か用事を頼まれている時以外は、常に西野教諭の側に控えて指示を待っていなければならない。中国清王朝ならば宦官のような役割を、歴代の吹奏楽部長たちは我慢と辛抱を重ねて堅忍不抜の精神で勤めあげてきたのだ。だから、部長に電話するというのは最初から非常に危険な行為だった。


「たった一人が集団の規律を乱す行動をすることによって、みんなが迷惑するのですよ。小泉さんあなた三年生にもなってそんな小学生でも分かるようなことが分からないのですか。もっと自覚を持って行動しなければダメだといつも口を酸っぱくして言っているのに、どうして聞こうとしないのですか」


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