第2話 西太后の独裁
吹奏楽部は文化系ではない。体育会系である。
高校に入学してから吹奏楽を始めた初心者小泉萌乃は、入部してからその事実を認識した。より正確に換言すれば、思い知らされた。
音楽室は今日も暑い。
雨が降れば湿度計の針が振り切れそうになるほど蒸し暑い。晴れたら晴れたで夏を先取りしたかのようでやっぱり暑いという六月中旬の気候は、人間の体力を根刮ぎ奪うためだけに存在しているのではないか、と疑いの気持ちを誰もが抱いてしまう。
まだ夏の前哨戦でこれだけの暑さだと、七月八月の本番になったらどれほどの猛暑が踊り狂うのか、見当がつかないというよりも見当をつけたくない気分になるものだ。通学路の日陰にひっそり佇む紫陽花も、葉や花の色がどこか茶色がかって瑞々しくないことを、萌乃は知っている。
与えられた休憩時間は線香花火の一生みたいに短い。一秒を惜しんでトイレに行き、水飲み場を経由して音楽室に戻らなければならない。もし遅れれば、西太后がツノを生やすから。この季節の風物詩のカタツムリのようなかわいいツノなら良いかもしれないが、地獄で亡者を苛む牛頭馬頭もかくやという恐怖の西野教諭のことだ。人を威圧し、時として攻撃するための角だ。
ペットボトル内のお茶は練習中にすっかりぬるくなっていて、今更飲みたいとは思えなかった。もったいないと思いつつも水飲み場で中身を捨てる。代わりに蛇口を捻り、あまりおいしくはないけどそれなりに冷たさがある分だけマシな水道水を飲む。
萌乃の隣では、斎藤幸枝も水を貪り飲むことに一意専心している。
「コレも確か、屋上の貯水槽から来ている水だって誰かが言っていたような気がするけど……サッチーが教えてくれたんじゃなかったっけ?」
「ん、アタシはコヤマンから聞いたんだけど」
屋上は立入禁止で、出入りするための扉はしっかり施錠されている。だから中央高の貯水槽がどんな物なのか、実物を見たことのある生徒などいない。
息をつく間も惜しんで水を飲み込む。胃袋が、夏祭りの定番であるヨーヨー釣りのヨーヨー状態になった、という感覚を抱き始める。名残惜しむように蛇口を締める。今までは、不景気時代に中小企業へ対する融資を渋る地方銀行のように水分放出を惜しんでいた肉体が、ここぞとばかりに汗を噴き出し始めた。発汗量に関していえば、運動系の部活と比較しても実際に大差は無いはずだ。
萌乃と幸枝以外の吹奏楽部員たちも寸暇を惜しんで水を飲んでいた。乾期のサバンナで貴重な水場に群れるトムソンガゼルのようだ。
窓の外からは、金属バットが硬球を叩く音が響き聞こえる。練習中は自分たちが発する楽器の音に掻き消されて、透明な氷柱を金槌で叩き折ったような甲高い音は全く耳に入ってこなかったけれども、野球部も日々厳しい練習を積んでいるのだ。練習を頑張っていても、他のチームはもっと頑張っているのだろう。市内では有数の公立進学校だからという面もあるが、中央高校野球部は弱小チームであり、毎度大会においては初戦で惨敗を繰り返している。あまり野球に詳しいわけでもなくさほど興味も無い萌乃には、野球部に関する知識は「弱小」の二文字だけだった。
それでも、野球部の動向はどうしても無視できない。
「ねえサッチー、毎日毎日、音楽室で蒸し焼きでヤんなっちゃうよ……」
楽器を演奏できたら素敵そうだというシンプルな想いから吹奏楽部に入ったとはいえ、夏の暑さに耐える苦行までは想定していなかった。萌乃のぼやきと同時に一筋の汗が、額の横からこめかみを通って飛行機雲のように航跡を残して垂れた。顔を洗う前に蛇口を止めてしまったのに遅まきながら気付く。溜息一つ。再び蛇口をひねる。
暦の上では夏至付近だが、現実でも夏本番のような暑さが連日続いていた。蒸し暑い中、部活の顧問教諭西野清子の指示により、窓も戸も閉め切った音楽室で音出し練習をさせられている。その理由について西太后は「外に音が漏れると他の人に迷惑だし、暑い中での演奏に慣れておかなければ本番で困るから。その代わり練習中に水分をとることは許可するし、具合が悪くなりそうだったら遠慮無く申し出て休んでいい」と言っていた。ただし演奏の合間の水分補給はともかく、ちょっとぐらいツラいからといって休んでいたら西太后の覚えが悪くなってしまうのは自明の理だった。
西野教諭は、かなり旧態依然とした、体育会系の根性論を至上とする思想なのだ。そして吹奏楽部員の誰もが、絶対権力者である西野先生に逆らうことはできない。
「だから言ったでしょ。ポジション争いだってあるし、楽器間のカースト制度もあるし、体力も重要だし、炎天下でずっと演奏をし続けるような根性だって必要なんだよ、って」
びっしょりと汗をかいていた顔を洗ってさっぱりした斎藤幸枝が、得意気に鼻翼をふくらませた。
それでも、トランペットはカーストならばそれなりに上位ではある。
幸枝は、肌は色白ではあるが、どこかの演歌歌手を思わせるくらいに鼻の穴が大きいし、口も大きい。だからあまり美人とはいえないのだが、楽器の演奏においては六年の経験もあって実力をいかんなく発揮している。鼻や口が大きいと、その分吸える息も多くなるのかもしれない。
「ましてやウチの高校の吹奏楽部の……女子の場合は、ね……アレがあるし」
言ってから、幸枝は心配げに周囲を見回した。まるで秘密警察を恐れている反政府主義者であるかのように。怯えた兎をも上回る慎重さだが、決して大袈裟ではない。不穏当な発言が西太后の耳に入れば……
女子生徒四名にとって地獄が、野球場で待っている。
まさに中国清王朝の末期、西太后が絶対権力を握っていた時代さながらだ。細い金縁の眼鏡をかけた西野教諭の権力は、中央高吹奏楽部においては絶対である。
比喩ではない。まさに女帝なのだ。
女帝の権限が神聖不可侵なのは確かだが、西野教諭の個人的恣意によって言が左右されることはほとんど無い。大抵の場合は、順当に実力の劣る一年生女子生徒が、どす黒い雨雲のような重い運命の洗礼を浴びることになる。
吹奏楽未経験だった萌乃も、一年生の時には灼熱のスタジアムで恥ずかしさマキシマムであり肉体的にも厳しい暗黒の歴史を経験していた。
「……でもでもぉ。サッチーはアレをやっていないから、本当の厳しさを知らないんですよ」
「まあ、三年生にもなって、今更知りたくもないけどね」
萌乃の冗談めかした言葉に、幸枝は笑い茸を食べてしまったかのような引き攣った苦笑を浮かべて鼻の穴を膨らませた。
「中学時代から吹奏楽をやっていたサイトウサチエ様は経験と実力があるから大丈夫だろうけど、私は危ないなぁ。田辺くん、一年生だけど相当上手いから……」
「……うーん。アタシと萌乃でトランペットのポジションをキープして、田辺くんがピッコロあたりの他の楽器に回ってくれればいいんだけどねぇ……こればっかりは、西太后が決めることだし……」
幸枝は再び、周囲を見渡した。壁に耳あり障子に目あり屋根裏に忍者あり垂簾の向こうに西太后あり音楽室に西野教諭あり。水飲み場は音楽室からは随分離れているけれども、油断と迂闊な発言は禁物だ。二人以外の吹奏楽部員たちも、同じ思いを共有している同士だから西野教諭に密告するようなマネはしないだろうが、危険の芽は少ない方が良い。
窓からは西日がさす。橙色に優しく染まった斜めの光が、幸枝の顔に残る水滴を照らし、柘榴石のような輝きをもたらしている。光は、音符を並べる五線譜のように、どこまでも真っ直ぐ迷い無く進む。
青春時代の女子高生は悩み多き生き物であり、その進む道は羊腸の小径だ。それも一本道ではなく分岐が多い。
「コンクールを重視するか、応援を重視するか、悩むなぁ」
二兎を追う余裕の無い萌乃の悩みは深い。コンクールではコンクールの課題曲を演奏するし、野球の応援の時には応援用の曲、ルパン三世、タッチ、ムーンライト伝説、残酷な天使のテーゼなどを演奏する。
「せっかく吹奏楽部に入ったんだから、応援曲だって演奏したいし……てか、地獄のアレは是が非でも回避したいし。でも、野球応援ばっかり練習してコンクールの方がおろそかになってメンバー外されてもイヤだし……」
眉根を寄せて呟く。唇からは盛大な量の溜息が漏れる。ここで漏れ出る分の息をキープしておいて、楽器を吹く時に使えればいいのに、と萌乃は半ば本気で思う。
「でも萌乃、だからといってコンクール用の曲ばっかり力を入れていると、野球部応援がおろそかになっちゃうでしょう。応援のメンバーから外れちゃうと……」
「そうだよね、サッチー。本来ならコンクールの方を重視するのが当然なんだけど、野球応援から外されると、恐怖のチアガールが待っているし……」
「それだけじゃないよ萌乃。野球部応援でメンバーに入れなかったということは、『実力が無い』と西太后に判断されて、コンクールのメンバー選考の時に不利な判断材料にされてしまうかもしれないよ」
「……あ」
その可能性は忘れていた。萌乃の頬から顎を伝い、滴が一つリノリウムの床に落ちた。顔を洗った残りの水滴か、あるいは冷や汗だったか。
中央高の吹奏楽部員であるからには、「西太后にどう思われるか?」を最優先に心配して小心翼々として生きて行かなければならない。それは宿命だ。清朝末期の紫禁城では西太后の顔色を窺いながらでなければ立身出世も長生きもできなかった、というのが当時のルールだったはずだ。
どうしよう?
萌乃は二者択一の迷宮にはまった。コンクール重視にするか。野球部応援に力を入れるか。
もちろん、両方共に素晴らしい演奏をすることができれば一番良いのだが、そこまでの実力を備えていないのは客観的事実だから仕方がない。
萌乃は眉を寄せて真剣に悩む。
「野球部の応援の方を頑張ろうかな。……でも、頑張ったはいいけど肝心の野球部が一回戦で早々に負けちゃったりしたら、脱力しちゃうからなぁ……」
普通の公立高校、市内ではそれなりに歴史のある進学校である。全国的に見れば例外もあるのだろうが、公立進学校であるからには野球部があまり強くないのは仕方がない。過去に甲子園出場経験が春夏通じて一度も無い中央高野球部は、対戦相手が部員九名確保だけで精一杯の「ド」が付く田舎の弱小校ならば、高い確率で勝てる。それもコールドで。
されども、ちょっと名の通った私立高校が相手だともう全く歯牙にもかけられず鎧袖一触でしりぞけられてしまう。だから毎年、対戦相手のクジ運によって、トーナメントの山のどの辺まで勝ち上がれるかは違う。だが、甲子園に届かないという意味では硬式野球部創設以来全く同じことの繰り返しだ。
萌乃の呟きに対して、幸枝は大きな口を下弦の月のように柔らかく緩めた。
「……いや、今年の野球部は強いかもよ」
「えっ?」
自信満々の口調で言われたので、萌乃としてもスルーすることができなかった。詳しい話を聞きたいと思ったのだが。
幸枝は腕時計を見た。
「それより早く音楽室に戻ろうよ、萌乃」
「そ、そうだね」
窓の外からは、またも金属バットのインパクト音が響きわたる。キャリアが短いとはいっても吹奏楽部に所属しているからには、萌乃は音の違いには敏感な方だ。しかし、例年よりも鋭い良い音が響いているかどうかは、確信が持てなかった。球児の耳を守るために金属バットが日進月歩で改良されて、あまり音が響かないようになっているという説も伝え聞く。さすがに音だけで野球部の実力を推し量るのは無理だ。
二人で並んで、ちょっと小走りで音楽室へ向かう。他の部員たちも、それぞれの用事を済ませて音楽室へ集結するところだ。
背後から見えない鮫に追い立てられているかのように、駆け込みで音楽室へ入る。まだ顧問の西野先生は来ていなかった。
セーフだ。西野教諭は、一度職員用御手洗いに行けば、化粧直しに時間がかかるため、戻ってくるのが遅くなる傾向がある。年齢に由来する肌の衰えを化粧で誤魔化すのにも限界があるということを、本人は認めるつもりは全く無いのだ。
自分が先か、西太后が先か。毎度のことだが、野球における本塁クロスプレーよりも緊張する瞬間だ。
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