第3話 説教は長い
完全下校時間になれば、いかに厳しい吹奏楽部といえども練習を終了して帰宅しなければならない。だから、練習そのものは、完全下校時刻よりもかなり早めに終了する。
その後が拷問のように長い。
西野教諭の話、それは「説教」である。
「野球部の大会も近いです。今年のチームは、良い一年生ピッチャーが入ったそうで、かなり上位進出が期待されるそうです」
練習中とはうって変わって静まりかえった音楽室、西野教諭の声だけが支配する。壁に貼ってある偉大な音楽家の肖像、バッハもモーツァルトもベートーヴェンも、今は西野先生の訓示の聴衆でしかない。
「であるからには、応援する、我々吹奏楽部の役割も例年以上に重要になってきます」
迂闊な私語を発する部員は一人もいない。小さな咳払いすら、必死に堪えているくらいだ。息を吸って吐く音ですら、西野先生の耳に雑音として届いたら、機嫌を損ねて良からぬことが起きるような気がする。それは萌乃や幸枝だけではなく、部員全員の共通意識だ。クラシック音楽のコンサート会場以上に雑音を忌避する緊張感が張り詰めている。
「演奏技術を高めるのは当然です。同時に、炎天下の中で長時間演奏するのですから、体調も整えなければなりません。あと、言うまでもないことですが、不祥事、問題行動を起こさないように。それによって吹奏楽部や野球部が連帯責任を取らされるということは、まず、無いとは思われますが、それ以前の話として、高校生として、節度ある行動を常日頃から心掛けてください」
金縁の眼鏡が部員達を上から睨めまわす。
とにかく西野先生は話が長い。萌乃としては早く帰って、学校の図書室で借りた本を読みたいところなのだが。
「当たり前のことを口を酸っぱくして何度も何度も何度も言うのは私としても非常に心苦しいのですが、その当たり前のことができない高校生が実在するのも残念なことではありますが事実です。もちろん、ここにいる皆さんは私の薫陶を受けている以上、世間に対して恥ずかしくて顔向けできないような問題は起こさないものと信じたいと思います」
堅苦しい空気が音楽室に満ち満ちている。ただ座って聞いているだけで肩が凝ってしまいそうだ、と思っているのは萌乃だけではない。しかし思っても、それを正直に口に出すことは赦されざる暴挙だから、全員が自重している。
厳格に統制された吹奏楽部では、不祥事など起きるとは考えられない。厳しいからこそ裏ではハメを外そうとする者が出現する、という可能性もあるのかもしれないが、少なくとも萌乃が入部して以降は、吹奏楽部で不祥事が表沙汰になったことは一度も無い。それほど、全部員が西太后を恐れているのだ。まさに歴史上における清朝末期の西太后時代か、スターリン時代のソビエト連邦か、といった世界だ。
「技術、体力が必要なのは、野球部のような運動部だけではありません。我が吹奏楽部も同じです。でもそれ以上に大切な物があります。皆さん分かりますか? それは精神力です。不撓不屈の精神があってはじめて、つらい練習にも耐え、技術や体力が身につく。気力さえ充実していれば、大抵のことは何でもできます。気合いが大事なのです。心頭滅却すれば火もまた涼し、と言います」
気力が無ければ、西太后の長い説教に耐えられそうもない、と心の中だけで萌乃は呟く。いつものことだが、西野教諭の説教は最終的には精神論至上主義になる。
夕方近くなって、昼間の酷暑からは解放されたとはいえ、それでも暑い音楽室での練習が続いていたのだから、萌乃の若い肉体は渇いて水を欲している。休憩の時に飲んだ水の体内ストックはもう枯渇している。早く水を飲みに行きたいが、その前の儀式として退屈で苦痛な訓戒を拝聴せねばならぬ。
萌乃が吹奏楽部に入部を決めた当初も、必ずしも楽しいことばかりではなく、辛いこともあるだろうと覚悟はしていたつもりだった。しかしこのような形での難行苦行が待っているとは想定の範囲外だった。
誰かが小さく咳払いをした。ほんの、蟻のしわぶきのような微小な異音が、音というものを追求する音楽室に妙に大きく聞こえた。咳払いをしてしまった本人も、萌乃も、幸枝も、他の部員たちも、そして西野教諭も、誰もがその異音を聞き逃さず、そして気にせずに受け流すことができなかった。逢魔が刻の妖しくも美しい西日の中で、西野先生の眼鏡が、その奥の鋭い瞳が剣呑に光った。ただそれだけのことで、蛇に睨まれた哀れな蛙の如き部員たちは、萎縮して肩を竦め首を縮めて少し下向き加減に俯いた。
音楽室の雰囲気は今まで以上に針の筵になったが、西野先生の訓示は澱むことを知らずに滔々と続いた。
「強く、正しく、真っ直ぐな精神。それがあれば、厳しい練習にも耐えて高い次元の演奏へと到達できますし、低俗な誘惑に負けて不祥事を起こすこともありません。今まで私は毎年そうやって生徒諸君を指導してきましたし、それは決して間違っていなかったと確信しています」
他の音が無いから聞こえてはいるが、聴いてはいない。萌乃だけでなく、他の部員も同じだ。お葬式における住職さんの陰々滅々としたお経でさえ、西野先生のうんざりする長い話に較べたら潤いがありそうな気がする。そんな心境を部員の誰もが共有していた。
それでも、完全下校時刻という限度が見えているのが救いだ。
「……お話の途中ですが、時間になったので今日はこれで終わりにします。明日は、合唱同好会が音楽室利用割り当て日なので、早朝練習はお休みです。あ、野球部応援の正式メンバー発表は、来週の月曜日としますので、早朝練習が休みだからといって、気を抜いたりしないように」
毎度の決まり文句の後で連絡事項を事務的口調で残して、西野教諭は口を閉ざす。部員たちは、駄馬を繋いでいる重い軛のような時間から解き放たれる。部員たちが音楽室から出て行くまでの須臾の間、雑然としたざわめきが湧き起こるが、その中にさえ疲れの欠片が混じっている。
「ふうー。……サッチー、行こうよ」
「あ、萌乃、待ってぇ」
「斎藤先輩、小泉先輩、さようなら!」
一年生の男子生徒田辺が二人に頭を下げて、艶のある黒い鞄をひっ掴むようにして帰宅する。各々帰宅する部員たち同士で別れの挨拶を交わしながら、萌乃と幸枝も帰り支度を整えると水飲み場経由で昇降口を出る。
萌乃と幸枝の二人は同じ中学校出身で、住んでいる場所も近い。徒歩での帰宅方向は同じだった。
あかね色に染まる西の空は暑気の名残を保ちつつも、絵の具が滲んだ水彩画のようで、迫り来る夕闇と雲に浸食されて少しずつ黝み行くところだった。
アスファルトの道路は、横断歩道は鮮やかな白を保っているがセンターラインは少し薄れ気味だ。道端にはカタバミが黄色いささやかな花とクローバーに似たハート型が三つ集まった葉を広げているが、頻繁に歩行者に踏まれてしまうため萎れ気味だった。道路が狭いので、歩行者は車が通るたびに脇に避けなければならないのだ。その横では小さなフキが、雨も降っていないのに精一杯に傘を広げていた。
「……そういえば西太后、今年の野球部は上位進出が期待できるとかなんとか言っていなかったっけ? いい一年生ピッチャーが入ったって言っていたよね。サッチーは知っていた?」
「いい一年生ピッチャーね。コヤマンから聞いてはいたよ」
「バッテリーを組む小山くんが言うなら、一年生だけどいいピッチャーっていうのは本当なんだね。さすがに女房の女房、情報は早いね」
萌乃が茶化すと、幸枝は僅かに顔を赤らめて、点き始めた街灯を避けるように斜め下を向いた。
萌乃にしても幸枝にしても元々あまり野球には詳しくなかったが、キャッチャーの小山と幸枝が付き合うようになってから、それなりに野球の話題で語る機会も増えた。球を投げるピッチャーに対して、受けるキャッチャーは野球の世界では女房役と呼ばれていることぐらいは女子高生である二人も知っていた。
「その一年生ピッチャー、荒森くんっていうんだって。一年生だけど身長が一八〇センチ以上あって、投げる球もマックス一三九キロだって言っていたよ」
「サッチーそこまで知っていたんだ。でも一三九キロって……それって、凄いの?」
「……さあ、やっぱり凄いんじゃないの? プロだったら一四〇とか一五〇とかじゃなかったっけ?」
シンクロナイズドスイミングのようなぴったりと合ったタイミングで、二人は首を斜め四五度傾げた。
「とりあえず身長一八〇センチ以上ってのは大きいよね。一年生なのに」
「アタシにも少し身長分けてほしいくらいだよ」
萌乃も幸枝も、身長は一五〇センチ台後半だ。高校三年生女子としては平均的といえるだろう。球速に関しては比較対象がイマイチ分からないのでピンと来ない女子高生二人だったが、身長に関しては数字情報が実感を伴っていた。
「そんなに凄い一年生ピッチャーがいるなら、三年生ピッチャーはポジション奪われそうで神経尖らせているんじゃない?」
萌乃にとっては他人事ではなかった。吹奏楽部において、自分と同じトランペットポジションで有望な一年生、田辺が入ったため、元々決して安泰とは言い切れなかった三年生萌乃の地位は益々危ういものとなった。定位置を失った女子生徒の場合、更なる地獄が待っているから、是が非でも野球部応援メンバーの座を墨守しなければならない。
信号が青に変わるのを待って、道路を渡る。
「それがね。コヤマンが言うにはね。エースの対馬くんは、荒森くんが来たのを歓迎しているらしいよ。タイプの違うピッチャー二人で、チームとしての総合投手力が上がった、ということで」
「えっ、そうなの?」
三年生投手に共感しかけていた萌乃は思わず声をうわずらせてしまった。横断歩道の鮮やかな白い所だけを選んで大股で歩いていたのがズレてしまい、ネズミ色に乾いたアスファルト部分のど真ん中を踏んだ。実際にはほとんど差はないのだろうけど、白い方が光を反射して温度が低いかもしれない、と思っていたから白だけを選択していたのだ。
「これもコヤマンに聞いた話だけどさ、昔の野球はエースピッチャーが一人で全部投げ抜く、っていうイメージだったらしいんだけど、近年は必ずしもそうでもなくなってきたみたい。一人で投げることによって肘や肩を壊すことを防ぐという意味も含めて、複数のピッチャーを使い分けるようになったみたい。実際、プロに行くような物凄いピッチャーがいるようなチームは別だけど、守備とか打撃とかいったチーム力要素が同じくらいだったら、複数のピッチャーがいるチームの方が勝ち上がっている傾向なんだって。甲子園でも地方大会でも」
「へぇー」
幸枝の言葉の内容を、あまり理解できない萌乃だった。幸枝は小山と付き合っているだけでなく、対馬とも小山とも同じクラスなので、萌乃よりは遥かに野球部に関する情報は詳しい。実感がわかないなりにも萌乃は、今年の野球部は例年とは違って上位進出も期待できそうだという事実だけは丸飲みした。
一度グレーゾーンを踏んでしまったからには白のコンプリートを諦め、白もグレーも気にせずに横断歩道を渡りきる。野球部の場合は、戦力となるピッチャーが二人になればチーム力が上がるのかもしれない。でも吹奏楽部の場合は、全体のバランスを考慮してパートの定員がある以上、西野教諭の目から見て田辺が上回れば萌乃がメンバー落ちの憂き目を見るだけだ。
「荒森くんって、球のスピードはあるけど、スタミナがまだまだだから、長く投げると段々スピードが落ちてきて打たれてしまうんだって。それにまだ一年生だし、精神的に脆いから周りの先輩が支えてやらないといけない、って言っていた。だから、荒森くんが先発して行ける所まで行って、最後はエースの対馬くんが抑える、という形なんだって」
「ふーん……」
一つの曲の前半は田辺が演奏し後半は萌乃が演奏する、という分業は不可能だ。確かに棲み分けができるのならば、有能な一年生の入部も歓迎できるだろう。
「荒森くんが入ってから、対馬くんの練習に熱が入ってきたらしいよ。『一年生に背番号1番を譲るわけにはいかない』って」
「対馬投手のエースとしてのプライド、ってわけだね」
それを聞いて萌乃も少し安心した。頬がわずかにほころぶ。先発と抑え、という分業はできても、背番号1番とエースの称号はたった一つだけであり、対馬にしても萌乃にしても、一年生に奪われまいという強い思いを抱いているのだ。母屋を譲って庇に入るという妥協は受容できない。
「ま、ピッチャーは分業制になって負担は軽減したかもしれないけど、その分女房役のキャッチャーは、一人で複数のピッチャーをリードしなくちゃいけないから大変だ、ってコヤマンがアタシにぼやいていたけどね」
幸枝は右手に持っている鞄をぐるんと豪快に回した。
「通学カバンは別にいいけど、新しいバッグ欲しいんだよねえ。でも値段が高いから」
「……じゃあ、小山くんに買ってもらえばいいんじゃないの? サッチー、誕生日8月だったよね。誕生日プレゼントとしてバッグをリクエストすんのよ」
「あ、それいいね。言ってみる」
幸枝の恋人である小山は明るいお調子者という感じでいつも笑顔を浮かべている男だ。ちょっと甘えん坊気味の幸枝をがっちりと受け止めることができる度量の広さを備えている。そんな小山がぼやく様子が想像できず、萌乃は首を傾げた。世界が斜めに見えて、民家の物干し竿で揺れている取り込み忘れの白い半袖Tシャツが戯けて踊っているようだった。
「バッグを買うのに自分がお金を出さなくて済んだら、CDを買いたいんだよね。マーラーの交響曲第5番」
「CD? 動画サイトで閲覧するとか、レンタルショップで借りるとかじゃダメなの?」
「いい曲だから、ちゃんとお金を払って買いたいのよ。アダージェットもきれいだけど、やっぱり冒頭のトランペットソロがカッコイイんだ。萌乃も動画サイトででも試しに聞いてみなよ」
高校に入ってから吹奏楽を始めた萌乃は音楽に詳しいわけではない。が、幸枝は中学時代からトランペットを吹いていて、トランペットが活躍する曲は好きなのだ。
母校の中学校を少し過ぎた辺りで、萌乃と幸枝が別れる場所になる。二人にとっての幼少時からのかかりつけ、竹島小児科医院の前だ。赤煉瓦風の建物は、東京駅を小ぶりにしたような雰囲気を纏っている。
「バイバイ、サッチー」
「また明日ね」
いつも通り幸枝は笑顔で左手を振っていた。スーパーからの買い物帰りの主婦が、子供二人と満載のレジ袋を載せた自転車で、萌乃と幸枝の間を通り過ぎて行った。
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