第4話 幸福量保存の法則


 翌日は朝から小雨まじりの天気だった。日が照っているわけでもないのに湿度の高さのせいで蒸し暑く不快だ。朝練が無いから早起きをする必要が無かったにもかかわらず、萌乃は起床した時から体が重く、注意力も散漫だった。朝食の時にテレビの朝番組で占いをやっていたのを観たが、鞄に教科書を詰めて登校する時にはもう占いの内容をすっかり忘れてしまっていた。


 萌乃がいつもの待ち合わせ場所である竹島小児科医院の前で待っていても、幸枝が来なかった。幸枝はしっかりしているように見えて、低血圧だということで頻繁に寝坊をすることがあった。スマホにメールもSNSも電話も何も来ないということは、起きたばかりで慌てて準備をしているか、あるいはまだ布団の中なのかもしれない。もしくは逆に、本日は朝練が無いことをすっかり忘れて早めに学校に行ってしまったか。


 小雨が霧状のシャワーとなって降り注ぐ中を長時間待っているわけにもいかないし、早めに行って一時間目の英語の予習をやっておきたいという事情もあり、萌乃は傘を片手に一人で登校した。水溜まりを踏んだわけでもないのに、靴の中が少し湿ったように感じられて憂鬱だった。


 萌乃のクラスは、いつも通りの光景だった。成績のふるわない者が優秀な者に頼み込んでノートを見せてもらう。ゲームセンターに新しく入ったゲームの感想。昨晩の深夜ラジオでかかっていた新曲の話題。親しい者同士で朝の挨拶を軽く交わす。授業が始まる前の、和気藹々とした時間が川の流れのように緩やかに過ぎて行く。


「おはよー、留実。おはよう青木ちゃん」


 萌乃も教室に入ると、その空気に自然に溶け込む。仲が良い生徒も、それほどでもない生徒も、二年強の時間を、中央高という場所で共に過ごした仲間だ。テスト勉強に苦心惨憺し、学校行事では一緒に盛り上がった。みんな苦楽を共にしたから、纏っている空気がなんとなく共通しているのだ。


「おはよう萌乃。ねえ見てよ最悪だよ。今日は雨模様だけど、小雨だから大丈夫かなーって思って、ちょっと早起きして気合い入れてヘアスタイルをセットして来たのに、学校に来るまでの間に湿気だけで髪の毛重くなってべったり潰れちゃった……」


「小雨を甘く見たなぁー留実、残念。……でも今の髪型もカワイイよ」


 同じクラスの友人との会話に花を咲かせ、朝寝坊で姿を見せなかった幸枝のことはしばし脳裡の隅の閾に押し遣る。放課後になればどうせ部活で会えるのだ。


 友人との会話がひとだんらくした萌乃が窓の外に目をやる。小糠雨を受けて瑞々しさを増したプラタナスの行列が見えた。その向こうには赤煉瓦の竹島小児科医院の屋根がうかがえたが、待ち合わせ場所の道路は二階の窓からは見えなかった。


 顔を近づけ過ぎたせいか、そこだけサッシがうっすらと曇った。


 朝の時点では何も疑問を抱いていなかった萌乃だが、考えを改める必要が生じたのは四時間目の授業が始まる前だった。


「……あっちゃー。世界史の教科書、忘れてる……」


 鞄の中も机の中も探したけれど見つからない。見つかる見込みの無い物を延々と捜索するのは貴重な時間の浪費にしかならない。他のクラスの友人から借りる方針へ転換すると、一番最初に思い浮かんだのは、やはり中学時代からの友人で同じ部活の仲間でもある斎藤幸枝の、鼻の穴を大きく膨らませている豪快な笑顔だった。良い意味でも悪い意味でもねちっこい性格であると自他共に認める幸枝から教科書を借りれば、後で坂本町の名曲カフェ・トゥルヌソルのとうふチーズケーキでもおごらされるかもしれない。でもその時の状況や気分によっておごったり逆におごってもらったりするのは日常茶飯なので、気にはならない。萌乃は短いスカートを軽く翻し、小走りで自分の教室を飛び出した。


 幸枝の教室を、戸口から覗き込む。幸枝の姿は見当たらない。トイレにでも行っているのだろうか。付近で談笑している丸坊主の男子生徒二名を発見し、声をかけた。萌乃はこの二人と親しいわけではないが、誰であるかは知っていた。


「ねえ、サッチーどこ行ったか知っている? 斎藤幸枝」


 野球部員の片方は細身だけど長身で、もう一方は背はそれほどでもないが肩幅が広くがっちりとした体型だった。その二人が顔を見合わせた。先に発言したのは長身の方だった。


「斎藤さん、今日は来ていないぞ。なんか、病院行っているって」


「え? 本当に?」


 縦にひょろ長いイメージの野球部員が鷹揚に頷いた。野球部エースの対馬だ。


「対馬くん、何の病気か聞いている?」


 イガグリ頭が二つ、オリンピックのシンクロナイズドスイミングも凌駕するようなぴったりのタイミングで横に振られた。萌乃と幸枝のコンビに負けず劣らず、肝胆相照らす親友同士らしい。


「知らない。ただ『斎藤は病院に行く』って先生が言っていた。あっちからはメールも電話も来ていないし」


 まさに名は体を表すの代表格のようながっしりとした体格の小山が、本日の天候のように表情を曇らせた。いつもの笑顔は、雨雲の帽子に覆われた山頂のように姿を隠している。小山にとっては、斎藤幸枝は付き合っている恋人だから、心配も人並み以上だ。


「そうなんだ。小山くんが知らないんじゃ、誰も知らないよね」


 友人が病気らしい、というのは心配だ。だが、現在の切羽詰まっている萌乃は他人の心配をしている場合でもない。もうすぐ四時間目の授業が始まってしまう。


「あー、サッチーは心配だけど、それは後で連絡すればいいや。小山くんでも対馬くんでもいいから、世界史の教科書貸して」


「あ、いいよ。小泉さん」


 快諾してくれたのは対馬だった。入り口のすぐ側の机から教科書を出して、萌乃の鼻先に突き付けた。


「じゃ小泉さん、代金はジュース一本差し入れだけでいいから」


「えっ、タダじゃないの?」


「世の中には幸福量保存の法則ってのがあって、教科書を忘れたけど借りることができて事なきを得た、という場合、その幸運に対して代償を払う必要があるんだよ」


 腰に手を当てて、なぜか対馬は偉そうに言った。


「対馬にしては安い料金だよな。さては小泉さんに下心があるな」


 軽快なジョークの応酬に、三人は笑い合った。この場所で心配したからといって幸枝の病状が良くなるわけでもないので、沈んだ気分でいるよりは冗談でも飛ばして明るい気分でいた方が、元気な現役高校生には似合っていた。


「対馬くんどうもありがとっ」


 教科書を借りることができたので、萌乃は無事に世界史の授業を受けることができた。


 が、対馬の教科書は、中を開いてみると落書きだらけだったので、折角借りてきたにもかかわらず授業に対する萌乃のモチベーションは放物線を描いて急降下した。


 世界史上の人物の肖像に下品なヒゲや枝垂れ柳のような眉毛が黒々と書き加えられている。司馬遷もコロンブスもマルコ・ポーロもギャグマンガの登場人物みたいな奇妙なデフォルメキャラクターに成り下がっていた。後の方のページをめくると、西太后の肖像画にも落書きが施されていた。目の部分に小さな四角い眼鏡が描き込まれていて、いかにも神経質な教育ママといった風体となっていた。作者の対馬画伯が意図していたのかいなかったのかは不明だが、デフォルメされた西太后像は西野教諭と雰囲気が酷似しており、授業中であるにもかかわらず思わず笑い声を漏らしてしまいそうになって、堪えるために必死に腹筋を張って耐えなければならなかった。中学時代に陸上部で鍛えた腹筋に救われた格好だ。


 対馬はあまり世界史の勉強に対しては熱心ではないらしい。小山は野球オンリーではなく地道に勉強も頑張っている、と常々幸枝から聞いていたので、これならば小山の方から借りれば良かったと後悔したが、大航海時代ならぬ大後悔時代は必ず後からやってくる。コロンブスの卵の逸話を引き合いに出すまでもなく、後からどうこう言っても遅いものなのだ。


 昼休みになって弁当を食べてから、萌乃は対馬に世界史教科書を返しに行った。忘れた自分が悪いと分かっていても、このような品の悪いシロモノを掴まされたとあっては気分が良かろうはずもなく、瞋恚の炎を燃やした目を三角に尖らせて、リノリウムの廊下を強く踏みつけるような歩調となった。


 教室に行ってみると、幸枝が自分の席に座っていた。


 トンボの複眼以上に視野を広くして対馬のひょろ長い姿を探し出した萌乃は、一応形式だけは「ありがとっ」と感謝の言葉を述べて教科書を返却すると、すぐに踵を返して幸枝の席に歩み寄った。


「サッチー……どうしたの、その手……」


 普段から色白の幸枝だが、今日はいつも以上に顔色が悪く、どこか蒼ざめてさえいるぐらいだった。空模様を忠実に転写したかのような沈んだ表情をして俯いている。


 病気、というのは萌乃の早合点だった。


 幸枝の右手には、白い包帯がぐるぐる巻きにされていた。


「あ、萌乃……昨日さ、家で転んじゃって、その時変な手のつき方しちゃってさ、人差し指骨折しちゃった」


「骨折って、治るまで大分時間かかるの?」


「全治六週間ぐらいだって」


 萌乃は絶句するしかなかった。萌乃は骨折経験は無いので、どれほど痛いのかは実感としては分かりにくいのだが、骨折であるからには重傷である。それも右手の指だ。実際に痛みを経験したことが無いからこそ、上限無く想像が膨らむ。萌乃が思い出せる最大の痛みは、歯医者で治療だ。麻酔が上手く効いていない時に神経に触れた激痛は、とても西太后の言う精神論で耐えられるものではなかった。


「サッチー、利き手は右だったよね?」


「うん。右手が使えないと生活のほとんどが困るよ。お箸も使えないし、左手じゃ歯ブラシだっていまいち上手く使えないし、シャーペンも持てないから授業のノートもとれないし……」


 明らかに落胆した、かすれ気味の幸枝の声。落ち込むな、というのが無理な話だ。萌乃は何と言って励ましていいのやら分からなかった。


「ま、ノートは、誰かのをコピーしてもらえばいいんだけどね。でも書くことができなかったら、きっと全然覚えられないよね。勉強遅れるのは困るよ」


 教師が板書した内容を、生徒がノートに書き写す。ただ内容だけが必要ならば、誰かクラスメイトのノートをコピーさせてもらえば、それで済む。だがノートへの筆写の役割はそれだけではない。自分の手で書くことによって授業の内容をより深く理解するという重要な手順なのだ。、手を動かすことによる感覚と、ノートへ記した自分の文字による視覚との相乗効果で、記憶をより強く定着させる、練習問題を解く手順を覚え込む。


 利き手の骨折によって、幸枝は六週間ぐらいはギプスで封印されてしまい、筆写ができなくなった。


 中央高は市内有数の進学校であり、大半の生徒が高校卒業後は大学か短大への進学を目指している。幸枝もまた進学希望である。一時的とはいえ勉強がこういった形で滞るのは大きな損失だ。


「こうなってみると、アタシ自身がいかに右手ばかりに依存していたかが分かるよ」


 幸枝は鼻の穴を膨らませて笑う。自分自身の右手を自虐ネタにして笑う以外に、感情のはけ口が無い今の幸枝だ。


「サッ……幸枝……」


 白い歯も薄ピンク色の歯茎も剥き出しにして大きな口を開けて笑顔を浮かべる幸枝を直視することが耐えられず、萌乃は首を回す運動を装って軽く視線を外した。と同時に教室内を見渡してみる。


 幸枝のクラスメイトたちは、もう既に幸枝が骨折したことを知っているらしい。幸枝を取り囲んで症状を聞くという様子は無い。むしろ、骨折して落ち込んでいる幸枝に対してどう接するのが良いのか、遠巻きにして状況を窺っているといった様相を呈していた。


 友人に対して薄情な態度を取りたいわけではないが、下手なことを言ってかえって幸枝を怒らせたり落ち込ませたりするのも萌乃の本意ではない。骨折の件を、幸枝自身がどう受け止めているのか、いまだ確実には判断しかねているのだ。今後、時間が過ぎることによって幸枝の心境も変化するかもしれない。日和見といえば語弊があるが、萌乃としては態度を明瞭にさせるには時間稼ぎがしたかった。


「あー……もうすぐ授業始まるから、教室に戻るね。それじゃ、部活でね」


 幸枝の返事を聞きもせず、脱兎のように萌乃は教室を飛び出した。昼休みがもうすぐ終わるのは本当だが、間違いなく困難からの逃走だった。危険なので廊下を走ってはならないが、中学時代に陸上部の中距離走で培った速くもなく遅くもなくという足の進め方がなんとなくこんな時に役に立っているようにも感じられて、萌乃は軽い自己嫌悪に苛まれた。上履きスニーカーの裏のゴムが、床に擦れて悲鳴のような音を立てるのが今に限って妙に耳障りだった。


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