第5話 踊る! 吹奏楽部員


 小雨の天候は朝からずっと変わらないまま時間が流れた。


 放課後になって、生徒達は各人各様に教室を出て部活へ向かったり帰宅したりと活動を始める。昇降口から出て傘を開く者もいれば、小雨だから面倒だと判断して濡れて行く男子生徒もいる。


 掃除当番を終えた萌乃はトイレを済ませてから四階の音楽室へ向かった。部活が終わって帰宅したら、一時間目の英語の授業で出された宿題をやらなければ、ということが気になって階段を上がる足取りが重かった。


 曇り空のせいで窓から入ってくる光すら灰色に思える廊下を突っ切って音楽室まで来たら、丁度、幸枝が音楽室から出てくるところだった。右手はぐるぐる巻きなので、当然左手で鞄を持っていた。その鞄を持ったままの左手で音楽室の扉を閉めようと悪戦苦闘していた。萌乃が声をかけようとすると、幸枝に機先を制された。


「あ、萌乃。西野先生には今言ったんだけど、アタシ、部活出ないで帰るから。これから病院行って、状態がどうか確認しなきゃいけないし」


「そ、そっか。そうだよね」


 萌乃は今まで失念していた。


 手を骨折したならば日常生活で様々な支障が出るだけでなく、楽器の演奏も不可能となる。今日は病院へ行って検査を受けるために部活を休むことになるが、明日からの幸枝はどうなるのか。仮に部活に出席したとしても、出席するだけだ。楽器の演奏はできない。ただ単にトランペットを吹いて音を出す練習ならばそれなりに無理をすればできるかもしれないが。


 萌乃は幸枝の後ろ姿を見送った。いつもより小さく見える幸枝の背中が、蛍光灯が点いていてもなお薄暗い廊下の角を曲がって姿を消すと、先刻、部活で会おうというニュアンスの発言を迂闊にしてしまったことがきまり悪く感じた。そのせいか重く垂れた制服のチェック柄プリーツスカートが太腿に纏わりつくのが急に気持ち悪く気になり出した。


 骨折した幸枝に対してどう慰めれば良いのか。いかに励ませば良いのか。判断が更に難しくなったのを肝に銘じなければならなかった。


 廊下の窓から外を一瞥すると、まだ雨はやんでいなかった。天から地面に向かって細い糸を垂らしているかのように、ひっきりなしに水滴は落ち続けている。幸枝は傘を持っていなかったのではないか。鞄の中に折りたたみの傘が入っているのかもしれないが、片手を封印されている幸枝では、傘を開くことも難儀するだろう。無事な左手で鞄を持っているから、傘を差すのは不可能だ。小雨だから我慢して濡れて行くのか。あるいはタクシーでも使うのか。


 一緒に帰宅するならば萌乃の傘に入れてあげることもできたのだが。心配しても、これから部活動の萌乃にはどうしようもなかった。萌乃は気分を切り換えるようにして回れ右をすると、幸枝が苦労して閉めたドアを簡単に開けて音楽室に入った。掃除当番や委員会の集まりや日直など、生徒それぞれによって色々用事があるから、部活に来るのが少しくらい遅くなっても西太后は目くじらを立てたりはしない。だが、なるべく早く音楽室へ来て寸暇を惜しみ少しでも練習をしている方が、西太后に対するイメージが良いのは間違いない。


 幸枝が言っていた通り、音楽室には既に西野教諭が来ていた。吹奏楽部における暴君はグランドピアノの前の黒い椅子に深く腰掛け背筋を伸ばして難しい表情を浮かべていた。軽く会釈して通り過ぎ、自分の席に着く。この時お辞儀の角度が浅かったらとたんに叱責が飛ぶので、萌乃は戦々兢々としていた。しかし西太后は自らの考えの淵に沈んでいたためであろう、何も言わず、それどころか萌乃に対して視線を送りすらしなかった。


 トランペットパートのライバルである一年生の男子生徒、田辺は既に来ていた。席に着いた萌乃に対して、楽器を吹いたまま軽く会釈する。


 大部分の部員たちは既に揃っていて、各々が楽器の音出しをしている。楽器演奏練習において最も基本的で、しかも全員が揃っていなくてもできるシンプルな練習だからこそ、西野教諭の君臨する吹奏楽部では音出し練習を最初に行う。


 ピッコロの高い音。チューバの低い音。萌乃の隣で田辺が出しているトランペットの音。四オクターブを渡り歩くクラリネットも自己主張するかのように低音から高音まで階段を上り下りするかのように音を押し出す。ファゴットも他の音の間を縫うようにして五線譜の音符をなぞる。パーカッションもまた吹奏楽の音を創り上げる大事な要素だ。一定のベクトルを持たぬ音の群は、音楽室の空気を乱雑に乱す波として縦横無尽に駆け巡る。まるで狼に追われて無秩序に逃げ惑う羊の群れのように。


 それでも、一つ一つの音符たちは宝石のように磨き上げられている。濁った音でも迂闊に出そうものなら、西野教諭に見限られてしまうのだから。


 萌乃が自分の楽器を用意し終えていざ吹き始めようとした時。今までは弥勒菩薩像のように身動ぎせずに静止していた西野教諭が立ち上がった。


「はい。音出し、一旦中止」


 ある意味、この吹奏楽部は西野教諭を元帥とする軍隊のようなものだ。個人の動きである音出し練習を行っている時でも、常に西野教諭の一挙手一投足に注目していて、その同行から一切目を離さない。音楽室の生ぬるい気温の空気が、緊張感という色に染まって密度を増す。


「もう聞いた人も多いかもしれませんが、三年生の斎藤さんが転んで手を骨折しました。不可抗力、という部分もあるでしょうが、みなさんも事故とか怪我とか病気などには充分に注意してください。野球部の大会まで日が迫っていますから、今、何かがあれば演奏に参加できず、せっかくの今までの練習の成果を発揮できない、などということになってしまいます。はい。音出し練習を再開してください」


 まるで何事も無かったかのように。


 音楽室にはまた音の波が満ちる。萌乃もトランペットを吹いて音を出す。より大きく。より透明に。より長く。隣の田辺に負けてはいられない。


 幸枝の骨折という報告を受けても、吹奏楽部員達は動揺しない。もう既に噂で聞き及んでいるから、というのもある。動揺が無いのではなく、表面に出さないでいるだけという者もいる。いずれにせよここで動揺している様を見せてしまっては、不撓不屈の精神を至上のものとして座右の銘とする西野教諭の評価が下がるだけだ。


 西野教諭は椅子に座り、睨め付けるようにして音楽室全体を見渡す。音出し練習なのでメロディーにならない雑然とした音ばかりが溢れているが、きれいに音を発することができていない部員がいないかどうか、常に潜水艦のソナーのように耳をそばだててチェックしている。生徒たちも全員そのことを重々承知しているので、音出し練習の際に一つ一つの音を出すにしても、一切気を抜くことはできない。


 だから萌乃も神経を張り詰めたまま、トランペットに息を吹き込む。喘ぐように空気を貪り吸う。肋骨の一本一本で肺の中に残る空気を押し出すような気持ちで、腹筋と横隔膜に力を籠める。真鍮の楽器を握る手に汗が滲むのは湿度が高いせいばかりではない。吹奏楽器というのは、まさに息を吹き込むことによって命を吹き込むものだ。その分、吹き込む奏者の命を僅かずつ削っているともいえる。


 幸枝が骨折という出来事を今日知ったばかりなので、心は冷静ではいられなかった。生み出す音が不要に揺れたり割れたりしないよう気を配るのさえ精一杯だった。


 萌乃の隣ではいつも通り、一年生の田辺が安定した音を出している。高校に入ってから吹奏楽を始めた萌乃よりもしっかりとした力強い音を響かせている。男子生徒ならではの、女子生徒には無い力強さも持っているように感じられる。


 自分の技量の厳然とした未熟さを痛感しつつ、萌乃の思考は脳内で渦を巻き始める。


 幸枝は利き手を骨折した。トランペットの演奏はできない。全治六週間くらいと言っていただろうか。つまりは一カ月半、楽器を握れない。そして六週間が経って骨折が治ったとしても、すぐには万全の状態で演奏はできないだろう。リハビリも必要だろうし、楽器を演奏するにあたっての鈍った感覚を取り戻す必要もありそうだ。


 つまり。


 野球部の地方大会が始まるまでには、幸枝は間に合わないのだ。


 もし、前評判が高いという今年のチームが勝ち進んで甲子園出場という快挙が達成されたならば話は違ってくるが。高校野球の聖地に乗り込むその時までには幸枝の手も治って元通り演奏ができるようになっているかもしれない。だが、地方大会の応援には、怪我人の幸枝は参加不能だ。


 野球部応援の時、トランペットパートの定員は二名だ、と西太后から指示されている。現在トランペットを受け持っている部員は三名で、実力的に優れている順番からいうと幸枝、田辺、萌乃の序列となるが、そこから骨折でドロップアウトした幸枝を引き算すると、単純に答えが出る。


 緩みかける頬を必死に引き締めながら、だから時々頬から顎にかけて小刻みに波打つように震えてしまっていたが、萌乃は平静を装いつつ音出しを継続した。


 三年生である萌乃にとって、野球部応援演奏は、今度が最後だ。なんとしても演奏メンバーに入ってスタンドで演奏したかったし、メンバー落ちした時に待っている、臨時チアガールという陥穽を避けたいとも思っていた。


 一年生の時は、中学時代からの吹奏楽経験者である幸枝はメンバー入りしたが、高校に入ってから始めたばかりの萌乃はメンバーに入れなかった。当時もう一人いたトランペットパートは当時の三年生部員だった。


 二年生の時は、萌乃と幸枝の二人だけしかトランペットパートがいなかったので、二人ともメンバーに入ることができた。幸枝は完全に実力によるものであろうが、萌乃の場合は運が良かったからといえる。


 去年メンバーに入っていたからといって今年も安泰とは限らないところが、体育会系である中央高吹奏楽部の厳しさだ。


 萌乃と幸枝が最終学年である今年は、一年生ながらも経験者の田辺という存在が強敵だった。萌乃が臨時チアガールに回される危険性は相当高かった。


 毎年、野球部の応援の時には、人数は少ないし踊りの質も他校と比較すればかなり低いものの、枯れ木も山の賑わいで、数名のチアガールが吹奏楽の応援に華を添える。しかし中央高にはチアリーディング部は存在しておらず、だから正規のチアガールは一人もいない。


 ならば、チアガールはどこから来ているのか?


 他校の友情応援ではない。吹奏楽部の女子部員の内、演奏メンバーに入れなかった者が、吹奏楽部の最高権力者である西太后の命令により、無理矢理やらされているのだ。萌乃も幸枝も、その事実を入学してから、もっといえば吹奏楽部に入ってから知った。大抵の部員が、そのような残酷な事実を知らずに音楽室の門を叩いていた。


 チアガールをやりたがる女子部員は、当然ながら一人もいない。炎天下で延々と踊るのは体力的にもきついし、ミニスカートで素足のふとももを晒して踊るのは恥ずかしい。そもそも楽器の演奏をやりたくて吹奏楽部に入ったのであって、チアガールになりたいのだったら最初から吹奏楽部などには入っていない。晴れの舞台で演奏をせずにチアガールとして踊っているということは、吹奏楽部員として実力の無さの証でもある。


 一年生の時にはチアガールをやらされたのは人生における暗黒の歴史だ。当時は吹奏楽を始めたばかりの素人だったのだからやむを得ないのは理屈では分かっているが、端的に言って地獄だった。歯科治療の痛みと同じで、あまり思い出したくない過去だ。


 今年は不測の偶発事態により、労せずして萌乃が安全圏に入った。チアガールとして踊る羞恥プレイをせずに済む。


 そう思うと、自然に表情が緩むのを禁じ得ぬ萌乃である。だがその一方で理性のブレーキもあった。春先の雪山における雪崩のごとく崩れ行く気持ちに待ったをかける。


 親友である幸枝の不幸を喜ぶような格好で、申し訳ないような気がする。ブーツの中に小石が入ったまま長距離を歩かされているようなもどかしさを感じる。


 幸枝は自他共に認めるねちっこい性格であり、それは良い方面でも発揮されていた。勉強においても部活においても、たとえ最初は上手く行かなくても粘り強く努力を続ていたのを、友達として常に近くにいた萌乃もよく知っていた。そんな幸枝の努力を全て無駄にしてしまう不幸な怪我。


 喜んで良いのか悲しむべきなのか判断がつかないまま、嵐の海に乗り出した泥船のような不安定な精神を持て余しつつ、萌乃は愚直なまでにトランペットを吹き、音を出し続けた。


 どっちつかずな自分の気持ちだけで精一杯だった。だから萌乃は、西野教諭が萌乃の方をしきりに気にして眼鏡ごしに鋭い視線を送っていることにすら気付かなかった。


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