第6話 不吉な葬送行進曲


 お風呂に入って髪を乾かし終わってから、萌乃は英語の宿題に手を着けようとして、その前に思い出して、パソコンの動画サイトを開いた。


 キーボードを打ち込むのに失敗して、ま^ら^、になってしまって、慌ててバックスペースキーで消して、マーラーと打ち直す。


 出てきた、交響曲第5番を視聴してみて、首をひねった。


「なんとなく、不吉な感じだなあ……って、葬送行進曲なのか、これ」


 幸枝が、新しいバッグを買った後に欲しいと言っていた、マーラーの交響曲第5番は、実際に聴いてみると、萌乃的にはそれほど良い曲とは思えなかった。


 確かに冒頭のところでトランペットがソロで吹く部分もあり、かなりの実力が求められることは理解できるし、吹く時は緊張するだろうなと想像はできる。トランペット奏者としては、やりがいはあるだろう。


 だが、そこまでしてまで吹きたい曲かというと、萌乃としては、これではなくもっと明るいきれいな曲を吹いてみたい。


 それでも幸枝は、この曲を気に入っているのだ。


 幸枝とは親友だけど、全てのことについて気が合うわけでもないし、幸枝の考えていること全てを理解できるわけでもないのだ。


 音楽なんて、試し聴き程度であれば大抵はこうして動画サイトで検索すれば無料で聴くことができる。あるいは、レンタルショップでCDをレンタルするという方法もある。レンタルならばお金も安く済んで、それでいて音楽をきちんと自分のものとすることができる。


 にもかかわらず、あえてCDを購入するというのだから、幸枝はよほどマーラーの交響曲第5番という曲を気に入っているのだ。高校に入ってから吹奏楽を始めた、いわゆるニワカである萌乃とは違って、幸枝は中学校時代から始めている。音楽に対する理解や造詣に差異があるのかもしれない。


 萌乃は動画サイトを消して、パソコン自体も電源を切った。マーラーの交響曲第5番は、全部聴くと75分近くかかる長大な曲らしいが、最初の5分くらいしか聴かなかった。


「あっ、そういえばアダージェットだけでも、どんな感じか聴いておけば良かったかな」


 それはまたの機会にすればいいか、と萌乃は諦めをつけた。気持ちを切り替えて、英語の宿題を始めた。


◇◇◇


 翌日もまた、赤煉瓦前で親友と合流することはかなわず、萌乃は一人で登校した。雲は厚いながらも、隙間から漏れる陽光が眩しく射し込み、道端の水たまりの表面をラピスラズリのように煌めかせる朝だった。まだ数人しかクラスメイトが揃っていない教室に入る。あまり成績の良くない男子生徒が、英語の得意な女子生徒のノートを走り書きで写していた。まだ早い時間なので、留実も青木ちゃんも来ていない。自分の席に座って何をするでもなくぼんやりとしていたら、クラスメイトではない者が教室に踏み込んで来るのが萌乃の目に入った。背が高くなりすぎた向日葵のようにひょろ長いイメージの長身、野球部のエースピッチャー、対馬だった。誘導ミサイルよりも的確に、対馬は萌乃の前にやって来た。


「お、小泉、悪いけどさ、一時間目、世界史の教科書貸してくれよ」


「え?」


 昨日は萌乃が忘れてきて対馬に借りたが、今日は対馬が忘れてきたというのか。


「いや、最近自転車の調子が悪いから、ちょっと早めに家を出るようにしていてさ。でも今日に限って寝癖直すのに思いのほか時間がかかって、慌てて荷物準備したら、世界史の教科書忘れちゃっていたのさ」


「寝癖? 野球部なのに?」


 中央高校の野球部員は、甲子園を目指している全国の大部分の高校球児と同じで、坊主頭である。後頭部が絶壁気味の対馬の頭髪を見たところ、寝癖がつきそうな長さには見えなかった。それでも、坊主頭には坊主頭なりのオシャレというものがあるのかもしれない。


「……別に私から借りなくてもいいでしょ。誰か、他の野球部員からでも借りればいいじゃない」


 なんとなく、自分の物を対馬の粗野な手に預けたい気分ではなかった。


「そうだけどさ。それだと、借りた奴に対して借りを作ることになっちゃうだろ。ジュースおごらされたりするからさ」


「私は、そういう謝礼とか無しでお手軽に借りることができる都合のいい女ってこと?」


「そんなこと言わないで、頼むよ。ちゃんと返すから」


 借りた物は返す。そんな当たり前のこと言われて、萌乃の眉間に皺が寄った。


「小泉には昨日俺が貸しただろ? これでおあいこだから」


 それを持ち出されては、萌乃には断る理由が無かった。萌乃のクラスの世界史は、昨日と同じで四時間目だ。


「落書きしないでよね」


 とだけ釘を刺しておいた。


 会話に、どこか今までと違うというか据わりの悪さのようなものを感じていたが、ようやく萌乃は自力で思い至った。いつの間にか対馬は、萌乃の名字をさん付けではなく呼び捨てにしている。いつからだろうか。気が付いていなかった。


 まあ、それはそれで、萌乃に対して親しみがあるからこその表現なのだろう。


 だから、借りた教科書は一時間目と二時間目の間の休み時間にはきっちり返しに来る、と思っていたのだが、萌乃の考えが甘かったようだ。二時間目が終わり、三時間目が始まっても、対馬は世界史の教科書を返しには来なかった。ちゃんと返すと自分で言っておきながら、もう忘れているのだろうと思われた。三歩で忘れる鶏並みの記憶力だ。まがりなりにも進学校の中央高によく入れたものである。こんなんで、キャッチャーやベンチの監督から送られるブロックサインを覚えられるのだろうか。


 落書き禁止だけではなく、きちんと返却するよう注意を与える必要もあったらしい。


「もう、信じられない! 英語で言えばアンビリバボー!」


 三時間目が終わって休み時間になると、怒って肩で風を切りながら、萌乃は対馬の教室へ出向いた。次が世界史の授業なので、向こうから返しに来てくれるのを悠長に待ってはいられない。


 別のクラスへ行っても、休み時間の光景は大きくは違わない。スカートの短さを競い合っているかのような女子生徒たちは幾つかのグループになって笑いさんざめき、窓際でたむろしている男子生徒たちはワイシャツの胸元を摘んで空気を送りながら暑さに愚痴を言う。


 対馬は自分の席に着いていた。次の授業の予習、ではなく、早弁の最中で、鮮やかな赤と白のコントラストが紅縞瑪瑙のような銀ガレイのみりん漬け焼きを美味そうに頬張っていた。


「ちょっと対馬くん! 早く世界史の教科書返してよ!」


「……あ? あああ、悪い悪い。忘れてた、わけじゃないんだよ小泉。今から返しに行こうと思っていたところなんだよ」


 箸ではなく右手の指を使って口から骨を引っ張り出しながら、明らかに慌てた様子で机の中を探し始める対馬。見つからないので鞄の中を探して、ようやく教科書を発掘した。今しがた口から銀ガレイの骨を取り出していた対馬の指が、教科書の真ん中をフォークボールの握りで掴んでいた。


「あ、萌乃……」


 休み時間特有の教室のざわめきの中、対馬と同じクラスの幸枝が、萌乃が来ていることに気付いた。右手の先に巻かれている白い包帯が痛々しいくらいに視界に眩しかった。


「アタシさ、昨日西野先生と相談したんだ。それで、野球部の応援の時にはどう考えても間に合わないから、演奏メンバーから外してもらうことにしたから」


 吹奏楽部員にとっては重大なことを、あっけらかんと言った。幸枝のワイシャツの襟が潔いほどに白く輝いていた。


「そ、そうなんだ……ざ、残念だったねサッチー」


 余分な感情を排して現実だけを考えれば、幸枝に選択の余地は無かった。だが、それは苦渋の決断であったことは、萌乃にとっても想像に難くなかった。二人を尻目に、対馬は席に着いて、今度は昆布巻きを口に運ぶ。


「しょうがないよ。転んだのはアタシの不注意だから、自業自得と言ってしまえばそうだし……これでトランペットは田辺くんと萌乃で決まりだね。おめでとう。嬉しいでしょ?」


 大根役者、あるいはアニメの新人声優のような棒読みの言葉で祝福されて、萌乃としては背筋を毛虫が這ったような気持ち悪さと違和感を抱いた。晴れているのに雨が降る狐の嫁入りのように、一見すれば美しい情景にも思えるが、どうにも落ち着きが悪い。


「いや、友達のサッチーがこういう事情だから、おめでたいとも嬉しいとも思っていないけどさ……」


 伏せ目がちに低い声で言う萌乃。尻切れの言葉に対して、幸枝の声は少し裏返り気味なくらいに高くなっていた。


「アタシに遠慮なんかしないで素直に喜べばいいじゃない。萌乃は本来ならばメンバーに入れずチアガールだったかもしれなかったけど、アタシの怪我のおかげで晴れてメンバーの座が確約されたんだから」


 胸の中で、古びた木製のつっかえ棒が折れる音を、萌乃は聞いたような気がした。


「……ちょっと、サッチー。いくらなんでも、そういう言い方って、ないんじゃない?」


 さすがに看過できず、萌乃は視線を上げて、幸枝の目を見返した。ほぼ同じくらいの身長の二人が、東と西の横綱が土俵上で仕切り線を挟んで睨み合うように、その場に立ったまま対峙した。


 幸枝にも一年生の田辺にも実力で劣る萌乃が本来ならばメンバー落ちだったのは事実だ。その萌乃がメンバー入りできるのは、ひとえに幸枝の負傷による棚からぼた餅方式によるものだ。事実ではあるが……事実であるからこそ、親友にそのようなトゲのある言い方をされては、萌乃としても気分が良かろうはずがなかった。


「だって本当のことでしょう。アタシは骨折してメンバー落ちして不幸だけど、萌乃はメンバー入りできてラッキーでハッピーなんだから」


「別に私はサッチーの不幸を喜んでいるわけじゃないよ!」


 両者の唾が飛んだ。まるで言葉だけでなく物理的にも銃撃戦を行っているようなものだ。


「同じことだよ。萌乃はアタシの痛みも悲しみも分からないで、自分のメンバー入りを喜んでいるんだよ」


 強い光を湛えた幸枝の目は、少し潤み始めていた。


「サッチーどうしてそういう人を傷付けるような言い方するの?」


「傷ついているのは萌乃じゃなくて骨折で痛い思いをしているアタシだよ!」


「サッチーって、ちょっと甘えん坊っぽい感じだとは思っていたけど、そんな自己中心的なわがままで他人に迷惑かけるような人だとは思わなかったよ」


 萌乃もまた、目蓋が熱くなって微かに震えるのを禁じ得なかった。どうしてサッチーは私の気持ちを分かってくれないのだろう。想いは届かないが故にせつなかった。


「ほらね。所詮は萌乃にとってアタシの骨折は他人事なんでしょ。他人の不幸は自分の幸福、ってことでしょ」


 萌乃と幸枝は中学時代から友達だった。ちょっとした言い争い程度なら何度もしたことがあるが、本気で罵り合うような大喧嘩をしたことは一度も無い。お互いに相手に遠慮して譲り合ってきたし、中学時代は萌乃は陸上部で幸枝は吹奏楽部だったから、そもそも利害が対立する機会があまり無かったのだ。


「おい、二人とも。いい加減にやめろよ。目の前で言い争いをされたら、弁当が不味くなっちゃうよ」


 吹奏楽部女子部員二人に挟まれて、野球部の背番号一番を背負う対馬が、口には昆布巻きをくわえたまま面倒くさそうにではあるが仲裁に入った。弁当を口実にしてはいるが、本来仲良しである二人の喧嘩を見るに見かねて割って入ったのは明らかだった。幸枝はずっと萌乃を睨み続けたが、萌乃は黙って踵を返して教室から出て行った。対馬の仲裁に従ったわけでもなく、幸枝の鋭い視線に耐えきれなくなったからでもなく、単純に、世界史の教科書を対馬から返してもらうという目的を達したから、次の授業が始まる前に自分の教室に戻ろうとしただけだった。


「お? どうしたんだ、対馬もサッチーも難しそうな顔して」


 萌乃が消えたその場に、トイレへ行っていた小山が戻ってきた。幸枝も対馬も何も言わなかったが、嫌な空気だけがそこに蟠って消えずにいた。


 ベルが鳴る。授業が始まる。生徒の気持ちに行き違いがあろうとも、時間は流れる。



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